日本は戦後80年を迎えました。


日本人が受けた戦争の痛みとは実際のところ、なんだったのでしょう。


そして、80年で何を学び得たのでしょうか。


先日、アメリカ人の親戚と話していたところ、彼は日本を共産主義国であると、当然のようにみなしていることを知りました。


私よりもいくつも年下の彼は、私と同年代の知人の誰よりも賢く、全く歳の差を感じず、それどころか啓蒙ささえ感じます。


彼は天皇制がその支配制度を維持していると考えているようでした。


ここに互いの理解の相違があり、より現状を複雑にしている要因でもあります。


天皇制を廃止すれば、日本が平等な国になるかと言えばそうではないのです。


しかし、実際に日本は最も理想的な社会主義国と揶揄された表現をされています。


国民がそれと気づかずにいることは独裁政治にとってこの上なく都合の良いことです。


首相は国民を政府の奴隷とみなすことに、もはや隠す必要もないような政策を堂々と打ち立てます。


本来は国家は国民一人一人が担うもので、政府ではありません。


国家を政府のものと認識しているかのような発言が政治家から発せられていることに、疑問も抱かないような国民が増えています。


公の場で政治の話をするとバッシングを受けるような始末です。


誰が公の場で政治の話をしては行けないと決めたのでしょうか。


私も同年代の友人と趣味や世間話はできても、政治の話は誰も耳を貸しません。


「政治の話を公の場で話してはならないと言われているから、そんなつまらない話を誰がしたがるのか」と言うのです。


政治と野球と宗教の話はするなと言われるのが当たり前ですが、それは企業同士の取引で相手の気に触ることに触れないためであるから言われ始めたことです。


世界的に見てもそんなことを言われているのは調和を重んじる日本だからこそだと思いますが、それでは互いへの理解を失います。


世間話や趣味の話の延長に政治の話があっても良いではないかと私は思いますが、それが日本では少数派の意見であることは認めています。


しかし、団塊の世代の方からよく政治や世界情勢の中での日本の立ち位置や、その中での行うべき立ち振る舞いについてよく伺いました。


戦前や戦後まもなく生まれた彼らの世代は、自分で考えることができる人たちだと思います。


戦前に正しいとされていた風習や、社会制度が瞬く間に覆され、自分で考えざるを得なくされたからです。


日本は第二次世界大戦の終戦間際に、アメリカによって二発の原爆を落とされました。


このことの意味はなんだったのでしょうか。


私も日本人として生まれ、日本で生まれ育った身として、戦争の悲惨さを義務教育過程で散々叩き込まれました。


一日本人として、原爆を落としたことを戦争犯罪として当時のアメリカを非難するのは当然理解できます。


しかし、アメリカにそこまでさせたのは一体なんだったのでしょうか。


最近、日本の文化に触れた韓国の若者が反日政策の実態を知り、日本はそこまで悪くなかったのではないかということを発信する人がネット上に現れています。


日本が韓国を統治をした事実は変わらずとも、その実態はインフラの整備や教育などの社会システムの向上に努めていたという認識が広まりつつあります。


今、慰安婦問題などの一度済んだ話を持ち出すのはどうかと思います。


私はふと、日本が韓国の慰安婦問題に抱く感情と同じように、アメリカが日本の原爆問題について考えていたらどうだろうかと考えました。


今までなら私も当然の如く、怒りに任せてアメリカの非道さを非難していたことでしょう。


しかし、少し冷静さを保って世界的な視野で日本を見てみることにしました。


世界に立ち、真に対等な立場でこの意味を理解する必要があると深く感じます。


すると、当時の軍国主義まっしぐらの日本に対しての指導のように、アメリカが原爆投下に至る背景が透けて見えてくるようでした。


今の中国や北朝鮮のように日本がみなされていたとしたらどうでしょうか。


納得しろとは言いません。


無理矢理にでも日本を民主主義に目覚めさせるなら、アメリカの統治下においてアメリカ州日本となっていたことでしょう。


しかし、そうしなかった、ここにアメリカの配慮があるのです。


少なくとも、それを自主性において獲得することが真なる民主主義国家には必要だからです。


戦後日本は痛みを覚え、表面的には社会が一変し、民主主義に目覚め、高度経済成長を迎え、アジア諸国の中でも随一の成長を遂げました。


しかし、水面下では、さらなる戦争に備えたかのような動きを私は随所に見ています。


小学校の運動会は軍事主義の教育の延長で、次の戦争を水面下で備える目的があったのではないかと見ています。


制服で用いられる詰め襟、学ランはブレザーなどに変化させることで表面的には形を変えつつ、水面下では軍服の生産ラインの維持を目的としていたのではないか。


戦後に表参道の道路の幅が広くされたのは、緊急時に飛行機の離着陸が可能なようにしたのだと戦前生まれの方から聞いたことがあります。


これらのように戦後すぐに軍事主義の動きが収束したのではなく、実際には水面下で形を変え、次なる戦争に備える目的があったと推測することも可能なはずです。


このように考えますと、日本が戦後間も無く民主主義へと転換したのではなく、実際には表面を取り繕いながら形を変え、品を変え、軍事力を維持しようとする動きがあったとみることもできます。


それは国家として当然の防衛策だと思います。


しかし、そのことを逆手に取り、民衆が気づかない間に水面下で日本を支配する政府や一部の権力者の動きが、昨今では浮き彫りになっているのではないでしょうか。


日本は民主主義を謳った社会主義国であるとしたならば、政府の人を人とも思わない政策も理解できるのではないでしょうか。


それでも日本国民はそのことを受け入れる必要はありません。


国民が声を上げたところで腐り切った政府が変わるわけではないと言う諦めの声が若者の中で囁かれているのを聞いたことがあります。


実際に私の友人は、そんなことより話題にしたい面白いことが他にあると言っていました。


これらの問題を目の前にしていながらも、それを自分自身のことと直結して考えられないことに危機感を覚えました。


実際にこれらの独裁政治が都市伝説ではなく事実として行われていたとしても、それをどう受け止めるかは国民一人一人である我々が決定して良いのです。


権力を振り翳して好き放題している者たちは、私たち1人1人がそれを許している分に応じてしかそれを行えません。


テロやデモを起こせと言うのではありません。


ただこのことに気づいている必要があります。


国民である自分たちだけが国家の主権を握っていると言うことを。


それは悪事を働くものではないと言うことを。


そして、いつまでも我慢を強いられている必要はないと言うことを。


さらに、政治批判を誘導している者がいることにも注意が必要です。


政治批判に注意が集中しているならば、それを利用することができることもあるはずです。


政治批判をしている目立つ者も、よく注視してみると、その対象である首相や政治家などと同じ立ち位置であることに気づけるはずです。


政治批判するから、それとは反対の立場であるという一面的な見方は危険です。


日本は古くから続く調和的な社会形成が得意な精神性を有した民族として、世界から一目置かれています。


治安の安全さは他国と比較しても群を抜いていることは明らかです。


しかし、その和を重んじる精神性を利用されているままで、一部の権力者に好き勝手するのを許していなければいけないわけではないはずです。


今こそ目覚めて、日本人の特有の精神性を真に活かした社会形成を始める時です。


そのためにも一部の権力者や支配者たちが、大きな役割を果たすのです。


ただ批判するのではなく、大きな調和の社会を形成する時です。


彼らが今まで築いて来た地位や名誉を捨て、分け与え、全体がさらなる飛躍を迎える社会へと至るためにむしろ、彼らを迎え入れます。


全てが大きな丸、日の本で分け隔てなく調和する社会です。


隅から隅へと行き渡る経済システムを我々は作れます。


パンデミック下で働く看護婦や医者は給料の半分を税金に支払っています。


彼らは働いた分だけ正当に得るどころか、その上で保障を与えても良いほどです。


それどころか、働けない障害者や年金受給者なども十分に保障しても良いではないですか。


持つものが持たないものへと与えることは、特定の富を失うことではありません。


豊かさは減ることがありません。


与えることで相手はそれを受け取ることができます。


受け取ることは増えることです。


分け与える豊かさは広がることです。


ただ相手が存在する事実に伴う愛によってのみ、相手に与えるのです。


存在が認められ、生活が保障され、全ての貧しさが克服されるならば、人々は大いに自らの能力を発揮できます。


自分の存在が認められたことによって得られた生活の保障の上に、自らの能力を活かす場を求めるようになります。


そして、自らの能力が認められることによって報酬が与えられます。


それは純粋に世の中にとって、地球にとって喜ぶき報酬として周囲にも返還されます。


このように調和した社会が実現できるのです。


それはただ、互いへの愛による分け与えによるのです。


それを不可能にするのはただ自らの制限のみであること、決してそれを妨げる障害を他者に赦す必要はないことです。


その時、真に調和した西洋と東洋の良いところを組み合わせた社会形成が日本で可能になります。


私はそんな未来を思い描いております。

人間は死と再生を繰り返しています。


死は人生の最後に訪れることであり、今考えても仕方ないという考えはあまりに一般的ですが、死は今現在に起こっています。


死の恐怖、不安というものは常に私たちの意識下の一定の割合で存在しているものです。


人間である以上、死を経験することは誰でも知っています。


そのことに気づかないように、意識に蓋をして日々の生活に集中しています。


常に死の間際にいると意識し続けていたら、日常がままならないということがわかっているからです。


しかし、死を意識的に受け入れることで何が得られるでしょうか。


そのことに焦点を合わせます。


死に際して失うもの一切を捨て去ることで、今現在に真実なるものが残ることに気がつくようにするためです。


死を通過するとき、地上に脱ぎ捨てる一切のものを捨て去ります。


肉体、服、持ち物、家具、家、財産、家族、友人、名前、仕事、肩書き、思考、感情、と、捨て去れると考え得るもの全てをあげていきます。


次第に真っ暗な意識の闇とでもいうべきものを通っていきます。


しかし、そこを超えていくと、世界が見えてくるのです。


自身の全てを脱ぎ捨てた先に、世界が存在します。


世界が自己自身であるという体験があります。


目に映る世界の全てを自己自身として体験する純粋なる意識が存在します。


私たち人間は、死を意識から遠ざけることで、この可能性を捨て去り、見て見ぬふりをして生活しています。


そこに向き合うことには大変な恐怖があるからに他なりませんが、実はこのことに気づかないでいるということ自体がとてつもない恐怖を孕んでいます。


自分が自分であると信じているもの一切が自分ではなく、失われるものであるということが大変な恐怖なのです。


しかし、意識的にこのことに向き合い、受け入れる時に得られる真実はそれ以上のものです。


人間は個別の存在として互いを相互に認識しますが、実際にはそこに差はなく、ただ世界を体験している意識そのものという真理があるのです。


その時、人は互いに分け合い、互いに愛し合うという、神の法律が完成した形になって、人々の自由な意思によって実現が可能になります。


他の誰かが世界に働きかけて法律を変え、道徳を説き、世界を変えていくのではなく、自ずと自分自身の内なる真実の声に従ってそれは可能になります。


神の意識を人間の自我が受け取り浸透することによって、人々はより調和を保って存在することができるようになります。


それは誰のうちにも存在し、今ある姿そのものを完全に受け止め切った時に可能になるのです。


愛とは、以前から存在した自己の最も最適な姿そのものだと知ることです。


存在が即、愛を与え、受け取るのだと知るとき、自身を縛る鎖は何もなく、自由な存在としての自己を最大限に愛することができるようになるのです。


その時、その自身を貫く愛が、他者に向けて放たれていくことで、より理想的な社会が始まります。


社会の改革は、自己のうちなる変容から始まっていくのです。


革命や、戦争による勝利を待つ必要はなく、今この瞬間に愛につつまれて、平和に、自己の輪を広げることでそれは可能になります。


自己と他者の存在は同時であり、即座に全てが起こっていることを受け止めることで、自己の変容の輪は瞬く間に人々の内なる真実と響き合って広がっていくことでしょう。


そうして、全ての人の内に内包される真実を自己への最大限の愛で愛する時、真の平和が訪れるのです。

富の意識ではなく、意識の富についてを考えていきたいと思います。

富の意識といえば、富を獲得するための意識の持ち方だとか、引き寄せの法則などの実践法のようなものが思い浮かびます。

ここではそのような知識の一切を捨て去ります。

私は何かを知っていて、誰かに教えるという考え方を持つ時、何か恐ろしい破壊が起こることに気がついていなくてはなりません。

何らかの知識を有する賢い私と、何も知らない愚かなあなたのようにです。

それは分離であり、競争、破壊、戦争、貧困、思いつく限りの恐ろしいことの始まりです。

時にあまりにも無頓着にそれらに慣れ親しんでいるかを知る時、愕然とした気持ちを抱きます。

私も何かを教えたり、与えたりする者ではありません。

何かを教えようと思う時、私は特定の知識を有していて優れている、あなたはまだ知らないので劣っている、などという考えが生じます。

教師という職業上の立場を否定するのではありません。

しかし、即座に誰かの判断に従ったりすることに対して反感を覚えるのです。

あの人は悟りを開いた、悟りを与えてもらおうとかです。

その人は悟りを与える人ではありません。

教えを乞おうとする時、すでにそれを失っていることに気づいていてください。

仮に悟りを得ることができるとしたら、それは自らのうちにあるはずです。

誰かが与えることができるものの中にそれはありません。

仮にセミナーに参加して富の意識を獲得して、100億円を手に入れ、それを教えた人が手を叩いた途端、あなたの意識が消えてしまったとします。

また手を叩くと意識が戻り、それが富の意識です、などというようなことが可能でしょうか。

この馬鹿げたイメージを繰り広げている間も意識が消えてしまうことなく、実際には継続していることに気がついたでしょうか。

意識がなければどうやって富を得ることが叶うでしょうか。

富があるという状態を作り出すのにも、意識がなければなりません。

しかし、仮に得たい富が今なくとも、意識は依然としてあります。

誰がこれを教えるでしょうか。

誰もいません。

富とは所有であるということを教えられているからです。

そのためにあなたには学ぶべき何事かがあって、あなたは足りないと教わります。

教えてもらうことに従うということにあまりにも慣れ親しんでいます。

人間は詰め込むことではありません。

対して、意識は誰もが有しています。

私の意識はあなたの意識に優っていて富んでいるなどといえば、その人は愚か者だということが誰でも理解できます。

あなたの意識と私の意識は同じだということがわかるからです。

この意識は連続していて、誰かと比較なしに共有しているということがわかりました。

そこに恐ろしい何かがやってきて、私は誰かに教えを乞う必要があるとか、教えを与えなければならないなどという邪念が生じます。

隣の人の持ち物を見て、羨んだりなどです。

それでそれを得るために誰かに賛同したり、誰かに反対したりなどします。

この時、ここで観察してきた意識の恩恵を失っています。

欠乏を感じて、何かを得ようと必死になっている時もこの意識はともにあるのに、それを失っていることに気がつきません。

理想の恋人を求めたり、高い車やカバンなどを求めている時も以前としてこの意識は私たち共にあります。

足りないのではなく、足りないがあるということに気がつくでしょうか。

私たちはこの意識がいつも無償で与えられていることを容易に忘れてしまいます。

誰かと会う時もこの意識のもとでそれが叶うのに、比較の対象として相手を採点したりして終始していることがどれだけ富を逃しているでしょうか。

あなたの意識と私の意識は同時で、存在は同時です。

その時、私はあなたより進んでいて、あなたは遅れているなどということが言えるでしょうか。

あなたは素晴らしい存在だと言って互いを称え合うのではないでしょうか。

意識の富とは既にあるものを素晴らしいと認めることです。

努力なしに、比較なしにです。

私はずっと大丈夫だった、これからもきっと大丈夫だと言える時、深い安心感がうちから湧き起こります。

それが誰かに伝わっていくと、気づいた人を中心に変化が起こり始めます。

その変化を起こすことが可能なものが既に備わっていて、新たに習得するものでもなく、この瞬間にそれは叶っているものです。

富とは繁栄であり、周囲に流れて広がっていくものです。

所有の概念なしに、それが即座に流れていくことができるのならば、それはどれだけの大きな流れを生み出すでしょうか。

そのためにはまず、そのことを受け入れることです。

それがあなた自身であり、私自身です。