【クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む その9(戦争は博打である)】

 

 「戦争はその客観的性質から言って博戯であるがしかしまたその主観的性質から言ってもやはり博戯となる」 (上巻53頁 第一篇第一章第二一段)

クラウゼヴィッツは、戦争は博打である、といいました。
一昨年、戦略の授業を受けていたとき、講師であった2等空佐の方が、クラウゼヴィッツについて「そんな適当な根拠の命令なんかで死ぬのは御免だ」といって批判していました(その方は孫子を絶賛していました)。その気持ちはわかりますし、普通に考えて命を預ける上であたりまえの感情です。

 

 

命をなげうって戦う以上、必ず勝てると確信できないまま戦うのは当然嫌です。誰だって、確実に勝てる方法で戦いたいです。


それはそうです。そう、なの、です、が、

そもそも戦争はまず、「その客観的性質から言って博戯」なのです。


というより、「およそ人間の営みのうちで、偶然との不断の接触が日常の茶飯事であるような領域は、戦争に如くはない」 (上巻53頁)のです。世の中のことで最も「偶然」という要素が強く働くイベントが、何よりも戦争なのです。つまり、ロボットを用いて戦争を行ったとしても、戦争が博打になってしまうことは避けられないということです。

 

そして、現実に戦争を行うのは人間です。人間がやるからには、「危険」と「勇気」の狭間で主観的性質が博打になることもまた、避けられないことです(戦争をロボットが完全に代行することは有り得ないでしょう。戦争とは「政治的目的」のために行われるものであって、政治的目的を決めるのは人間だからです。これについてはいつか論じたいと思います)

 

 


「命を懸けるのに偶然が絡んでくるなんて嫌だ!」と考え始めると、「確実に勝てる方法」を探すようになり、「戦いの原則」に縋るようになり、「部下の確実な掌握!!!」だとか「情況はいまどうなっているんだ!!!!!」とかいうことを言い出すようになります。しかし、そんなものは全て戦争の本性に反する考え方なのです。戦争の本性に反する戦争指導をするということは、物理学の法則に逆らって機械を設計したり車を運転するようなものです……

 

 

「それだから戦争における絶対的なもの、いわば厳密に数学的なものは、もともと現実の戦争を目安として計算を行うところの戦争術に確実な根拠を見出すものではない」 (上巻54頁)

 

断定的なことを言いたがるような戦争理論、物理現象だけを扱う戦争理論、兵力の集中こそ全てであるというような戦争理論、兵站こそ全てだというような戦争理論、根拠地とその連絡線こそ全てだというような戦争理論、内線作戦その他あらゆる幾何学的原理を説く戦争理論、、、というようなものは「すべてよろしくない」(上巻161頁)とクラウゼヴィッツはいいます。

 

その理由は
①現実の戦争においては一切のものが不定であるため
②軍事的行動は物理的な量のみならず精神的な働きもまた重要であるため
③戦争は我が方の一方的な行動だけで行われるものではなく、彼我双方の活動の不断の交互作用であるため

 

クラウゼヴィッツは戦争理論のあり方を、以下のように喩えています。
「戦争理論の本務は、戦争における将来の指揮官の精神を訓育するにある、或はむしろ彼の自己教育を指導するにあるが、しかし彼に伴って戦場に赴くにあるのではない。それは賢明な教育者が、少年の精神の発達を指導してその進歩を促しこそすれ、しかしそれだからと言って生涯この少年の手を取って教えるという出過ぎたことをしないのと同様である。」 (上巻173頁)

 

 


「そんな適当な根拠の命令なんかで死ぬのは御免だ」といって確実な命令を期待するような指揮官と出会ったら、私は「そんな精神的に自立していない人間の命令なんかで死ぬのは御免だ」と言うでしょう(或は無視します)。

 

自分の決断は自分自身のものであり、誰かの言うことや、本の言うことに従って行うものではありません。そんな人はどんな階級章をつけていても最下級の兵士以下であり、言葉を選ばなければまさしく奴隷です

 

 

参考文献:
クラウゼヴィッツ著 篠田英雄訳「戦争論」