人は「忙しい」と口にしながらも、実はその状態に安堵していることがある。
予定で埋まったカレンダーは窮屈なはずなのに、真っ白な一日を前にすると妙な不安に襲われる。
暇は欲しい。
けれど、いざ手にすると持て余す。矛盾のようでいて、これこそ現代人の特徴なのかもしれない。

僕自身もそうだ。絵を描く時間がないと「自由が欲しい」と思うのに、ようやく予定が空いた途端、そわそわしてスマホを開いてしまう。
結局、何かで埋めなければ落ち着かないのだ。

暇を嫌う理由のひとつは、自分と向き合う静けさがやってくるからだと思う。
何もしていない時間には、自分の内側の声が響く。忘れていた不安や、誤魔化していた感情。
忙しさの中では見えなかったものが、暇の中では強調されてしまう。
だから人は「暇を嫌う」。

一方で、僕らが暇を求めるのは、「自由の証」としての余白を夢見ているからだ。
働かなくてもいい、好きなことに没頭できる、
そんな状態を思い描き、暇こそ幸せだと思い込む。
ところが実際にその時間が与えられると、不安に耐えきれず新しい予定や娯楽で埋め直してしまう。

結局のところ、幸せとは「暇か忙しいか」では測れない。
大切なのは、暇をどう扱うかだ。
空いた時間を恐れて埋めるのか、それとも「心を遊ばせる余白」として活かすのか。
その差が人生の豊かさを決める。

絵を描く時も同じで、余白を残すと作品に呼吸が生まれる。
すべてを塗りつぶすと重苦しくなるが、描かない部分があるからこそ全体が引き立つ。
暇もまた、人生における余白のようなものだと思う。

だから僕は思う。
暇を「無意味な時間」と切り捨てるのではなく、「自分と対話する時間」として味わえたとき、人はようやく暇を嫌わなくなるのではないか。
そしてその時こそ、現代人が探してやまない“幸せ”に少し触れられるのだろう。