十年前
高校生だった。
秋と言えば、僕が通っていた高校には強歩大会ってのがあり、20キロくらい離れた山の中腹まで走る、もしくは歩くというのがあった。
その頃は既にサッカー部止めて、バンドばかりやっていたから本気で運動するのはあんまり無かったのだけれど、その日ばかりは悪友の誘いをまったく受けず、走りきった記憶がある。
要はその頃から自分のその時点での実力とか限界とか、そういうのを推し量るのが好きだったんだろうと思う。
18歳だった僕らがその頃なにをしてたかと言えば、バンドやったりクラブ行ったり、アーケードでずっと溜まってたり、生み出せるものは今より少なかったけど時間の全てを濃く生きていた気がする。
学校が終わって、一番町まで行って、バンドの練習して、その後マック行って、補導員にうだうだ言われて、クラブ行って。HOUSE OF PAINとかNAUGHTY BY NATUREとか聞いてた。クリスクロスとかも流れてたな。なのにヴィヴィアンとかアンダーカバーとか着てて、今思うと面白い。
あいつは頑張ってるよなーとか、人と比較したってしょうがないって分かっていてもやっぱり他人を意識して、世の中のせいにしたり自分のことを嫌ってみたり。結構そんな人は多いと思う。というかほとんどそう。
だから、とりあえず余裕が出来るまで自分のことしか考えなくていいと思う。
明日は東京タワーを見に行ったほうがいいよ。夜ね。
秋と言えば、僕が通っていた高校には強歩大会ってのがあり、20キロくらい離れた山の中腹まで走る、もしくは歩くというのがあった。
その頃は既にサッカー部止めて、バンドばかりやっていたから本気で運動するのはあんまり無かったのだけれど、その日ばかりは悪友の誘いをまったく受けず、走りきった記憶がある。
要はその頃から自分のその時点での実力とか限界とか、そういうのを推し量るのが好きだったんだろうと思う。
18歳だった僕らがその頃なにをしてたかと言えば、バンドやったりクラブ行ったり、アーケードでずっと溜まってたり、生み出せるものは今より少なかったけど時間の全てを濃く生きていた気がする。
学校が終わって、一番町まで行って、バンドの練習して、その後マック行って、補導員にうだうだ言われて、クラブ行って。HOUSE OF PAINとかNAUGHTY BY NATUREとか聞いてた。クリスクロスとかも流れてたな。なのにヴィヴィアンとかアンダーカバーとか着てて、今思うと面白い。
あいつは頑張ってるよなーとか、人と比較したってしょうがないって分かっていてもやっぱり他人を意識して、世の中のせいにしたり自分のことを嫌ってみたり。結構そんな人は多いと思う。というかほとんどそう。
だから、とりあえず余裕が出来るまで自分のことしか考えなくていいと思う。
明日は東京タワーを見に行ったほうがいいよ。夜ね。
アピアランス
一つの美しい風景を想う。
それはかつて実際に存在した現実でありながら、心象の風景として記憶の奥底にアイコンとして形作っていることを感じさせる。その時感じた美しさも、時間も、そして思いも、全てその一枚の平面に凝縮される。心の中に存在する風景をフィルムに写すことは出来ない。しかし、同時に現実の世界をありのままに写すことも出来ない、と私は思うのだ。
常に私は目の前に現れる風景を「現象」として捉えている。それは写すことを前提にしているからなのかもしれない。心に形成された風景の姿は、その時点で実在の姿とは違う色と形で知覚されているのだと思える。一言で言えば「ものの現れ」を意識するということなのだ。そして自分のなかでそれが持つ意義を考える。
なぜその場所に立っているのか、そしてなぜ写したのかということだ。
私は一つの風景を前に、自分の感情や記憶の一つをそれぞれに当てはめているのかもしれない。まるで花言葉のようだとも思う。
時に目の前に広がる世界は、自分自身を映し出す鏡のように作用することがある。そこには希望や孤独や追憶や、その他様々な私の心を構成する感情の全てが詰め込まれている。
知覚や経験は、様々な印象を伴って頭の中に観念的に蓄積されていく。それがある瞬間に目の前の風景と結びつくのだ。そして私は、写し取るのだと思う。
それはかつて実際に存在した現実でありながら、心象の風景として記憶の奥底にアイコンとして形作っていることを感じさせる。その時感じた美しさも、時間も、そして思いも、全てその一枚の平面に凝縮される。心の中に存在する風景をフィルムに写すことは出来ない。しかし、同時に現実の世界をありのままに写すことも出来ない、と私は思うのだ。
常に私は目の前に現れる風景を「現象」として捉えている。それは写すことを前提にしているからなのかもしれない。心に形成された風景の姿は、その時点で実在の姿とは違う色と形で知覚されているのだと思える。一言で言えば「ものの現れ」を意識するということなのだ。そして自分のなかでそれが持つ意義を考える。
なぜその場所に立っているのか、そしてなぜ写したのかということだ。
私は一つの風景を前に、自分の感情や記憶の一つをそれぞれに当てはめているのかもしれない。まるで花言葉のようだとも思う。
時に目の前に広がる世界は、自分自身を映し出す鏡のように作用することがある。そこには希望や孤独や追憶や、その他様々な私の心を構成する感情の全てが詰め込まれている。
知覚や経験は、様々な印象を伴って頭の中に観念的に蓄積されていく。それがある瞬間に目の前の風景と結びつくのだ。そして私は、写し取るのだと思う。
懐郷
新しい曲でも、なぜか懐かしい気分を思い起こさせる音がある。
最近そう感じたのはArctic Monkeysの"When the sun goes down"。
音作りも、コード進行も、疾走感も焦燥感も、なんだか全てが懐かしい気分にさせるし、なにかが甦ってくる感じがする。
共鳴するんだと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=lauKSyePq2w&mode=related&search=
最近そう感じたのはArctic Monkeysの"When the sun goes down"。
音作りも、コード進行も、疾走感も焦燥感も、なんだか全てが懐かしい気分にさせるし、なにかが甦ってくる感じがする。
共鳴するんだと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=lauKSyePq2w&mode=related&search=
空気

最近、「RYOくんは丸くなったよね」といろいろなところで言われる。前とどう違うのか、と聞くと、
「顔つきが穏やかになった」
「言葉使いが柔らかくなった」
「怒られなくなった」
「攻撃的じゃなくなった」
「ゴールデン街にいかなくなった」
「挨拶してくれるようになった」
などと、以前の僕がどんだけひどかったのかと自分でも疑うほどなのだが思い返すと確かに少しは穏やかになった気もする。
大学院の頃は難しい本ばかり読んでた。意味付けが必要だったからだ。何にしても。
最近、理論武装は知識だけで成り立つものじゃないことに気づかされることが多い。
それはむしろその人の纏う空気感だったり、語り口によるものだと思える。
もっともなことをもっともらしく喋る人間が僕は一番嫌いだ。
あと、質問を質問で返すやつとか。
まるでインチキ宗教の勧誘みたいだ。
なんか粘着質なんだよね、そういう人が持ってる空気感。
まぁなにを言いたいかと言うと、素敵な大人になれるよう頑張ろうと、そろそろ。
でも、好き嫌いははっきりと。




