まあ小川紳介ほどのひとだったら、岩波映画でのキャリア抜きでも世に出ていたでしょうね。のちに、小川とともに
わが国ドキュメンタリー映画の両輪となる土本典昭との共同作業などで、モチベーションを高めてはいたのでしょうが
岩波映画との契約を解消し、自らのプロダクションを作ってからというもの、彼(彼ら)の快進撃が始まるわけで。
それにしても、企画製作から公開まで、すべてを一貫して独立プロダクションが自力で行ってしまう、という途方もない
ことをやってたわけですよ彼らは。そのド根性には、ほんとうに頭が下がります。こんな困難な製作方法をひたすら
持続させながら、一生を終えてしまうというのもまた、「映画の魔」なのだろうなあ・・・
いきなり余談ですが、ドキュメンタリーというと、ロバート・フラハティこのかたの「ヤラセ」問題があったりとか、
電波少年みたく取材対象を撹乱して盛り上げ、それをドキュメンタリーと称しているマイケル・ムーアみたいな
しょーもない奴もいたりしますが、小川は終生、「真実」に対し誠実な作家でありました。
しかし、そうして満を持して撮影されたはずであった「政治的」映画である
「圧殺の森」や「羽田闘争」が、「傍観者的」であった、と小川は
自己批判します(映画そのものは異様な迫力ではありますが)。おそらく
ドキュメンタリーにおける真実とは何か?と自らに問うたにちがいない。
そこで彼は、「真実の」三里塚闘争を撮影すべく、プロダクションの
スタッフごと成田に移り住み、農民たちと共に「闘争」する道を選びます。
「対象を撮る」から「対象の視線の先を撮る」になった、ということでしょう。
みても、ドキュメンタリー映画の、まさに金字塔です。ここではそれこそ、
カメラは農民とともに、警官隊との闘争の只中に飛び込んでいくわけです。
このようにして、三里塚シリーズは7作製作されますが、彼らのこうした
撮影方法は、かえって農民たちの深い内面までも映し出すようであり、
シリーズ中おそらくいちばん激越な「三里塚・第二砦の人々」の
壕の中、ロウソクの灯だけでみんなして身を潜めるあたりなど、ものすごく
印象的でした。ところがシリーズの終盤、「三里塚・辺田部落」に
なると、トピカルさが希薄になるというか、「闘争」から離れた農民の日常、
あるいは成田の風土というか村落共同体を重層的に撮る、という方向にシフトした印象で、その後の小川プロの
展開を予測させるようなところもあり、僕なんかこれがシリーズ中で最高の作品ではと思いますが、しかしこうした
変節?を、小川プロの助監で大番頭的存在であった福田克彦は、「攻め」から「待ち」になった、と小川を批判し、
後年、彼らが袂を分かつ原因にもなったのでした。
ともかくその後、彼ら小川プロスタッフ一同は、今度は山形県上山市に
移り住み、自らも稲作を(かなりマジに)しつつ、農民たちとその風土を
フィルムに収め続けるという生活を開始する(また余談ですが、なぜ
左翼活動家たちの多くが結果的に「帰農」してしまうのか、僕なんかは
全然ピンと来ない)のですが、それは後に「ニッポン国古屋敷村」
と「1000年刻みの日時計」の2本の大作として結実します。
前者は、はじめのほぼ1/3が、彼らの行った稲作の収穫量とその凶作の
原因を、気候・気温・田んぼの場所、また「シロミナミ」と呼ばれるヤマセ
との因果関係を真面目に分析するという、もう完全に科学映画であり、土壌の分析までいくと、さすがにマブタが重く
なりかけるのですが、「いったいなぜ奴らがこれを・・・」という風に考えつつ、それをコラエてくと妙に面白くなってきて、
しまいにはトリップします。そうすると、そのあとの古老たちへのインタビューが俄然面白くなるんですね。じじばばの
キャラ立ってます。訛りがすごいので字幕スーパーが出てるのも親切(意訳ではなく、音声そのままだけど)?
しまいに炭焼きや養蚕の様子までもが、ものすごく濃密に見えてきます。この作品は、210分という、とんでもない
上映時間なのですが、すごいものを観た、という感じです。「映像体験」という言葉が実感できたのは、この映画が
初めてでした。体力要るけどねー。映画館出たら、めまいした・・・
後者はもっと長い(笑)。わざとかなあ、これは。はじめは稲の開花と
受精の顕微鏡写真であったり、田植えシーンであったりで、またまた
科学映画の体なのですが、こちらはそのあとの展開が、牧野村の
民話・伝承をもとにした、なんとお芝居になるんですね。しかもプロの
著名な役者を呼んで。小川史上初でしょう。土方巽!宮下順子!!
なんなんだ!あまりの唐突さにちょっと笑いました。あと、これまた唐突に
スタッフが農地を掘り起こして土器・土偶を発見したりとか、大学教授
呼んだり、神主呼んでまた埋めたりとか、まあこれによって、文字通り
彼らは、村落共同体の古層を掘り起こした、と言えるかもしれませんが、ここではもはやドキュメンタリーの
枠組が消滅しています。それがすごい。終盤の、富樫雅彦の感動的な演奏とか、地元のみんなを校庭に
一同に集めての大団円など、とにかくやりたいようにやっておるなあ・・・と思ったことでした。しかし、これでこそ
小川であり、ほぼ怪作、と言って差し支えない作品ながら、こうした撮り方こそが、彼の行き着いた「映画の真実」
であったのだろうと、あらためて思います。