社会で生きていくことの大変さを感じる今日この頃。
僕たちは生まれたときから、人類史が自然に作った義務を背負わされている。
それは様々あるが、今回焦点を当てるのは「働くこと」。
古の時代は「働く」と言えば、男性は狩りに行き、女性は採集や土器などを作った。
それから時代は進み、文明が発展していく中で多種多様な仕事が増え、働く種類も増えていった。
しかし、どちらにせよ「働く」という概念に変わりはない。
主にパソコンを使って働く人、肉体労働の人、接客業、その他専門的な仕事、本当に色々ある。
僕たちは人間的規範を損なわないよう「働くこと」が嫌であっても、基本的にはその規範に沿って生きようとする。
古の時代は働くのが嫌なんて考えは通用せず、それは死を意味する。
ただ、文明の発達、科学技術の発達、文化の変化によって、僕たちは少なくとも働かなくても死なない程度に生きていけるようになった。
世間一般的な常識で測ると、そのような人たちは能力がなく、貧乏である。つまりそれは不幸であると言うのだろう。
その気持ちは非常によくわかる。
しかし、そこに至るまでの過程を考えられるのも現代を生きる我々ではないだろうか。
ただ単に怠けて働きたくない人、病気で働けない人、職場の人間関係によって働けなくなった人、家庭の事情で働けなくなった人、能力がなく仕事を辞めざるをえなくなった人。
これはあくまで僕のブログであることから、僕の体感で語ると、職場の人間関係は多くの人が悩める問題だと思う。
職場の人間関係と言うのは、もちろん仲のよい友達のようなものでもなければ、学校のクラスみたいに仲は良くないけれど、対等な立場で(程度の低いスクールカーストを除く)関われるものではない。
年下の先輩、職場で権力を持った管理職、役職はないがベテランであり意見をできる人、初見の同期、立場が同じ先輩、
本当に色んな立場の人がいる中で、「僕」がいる。
僕は今、「若手」という立ち位置にいるが、それはあまり心地良いものではないと心底感じる。
もちろん、上の立場の人間を尊敬したい気持ちは持ち合わせている。
しかし、それは尊敬できるに値する人間であることが条件だ。
僕の職場の上の立場の人間は、人によって態度が変わる。また、理不尽なことで説教したりもする。
例えば、メンタルが弱い女性の場合、優しく丁寧に接する。
恐らくそのメンタルが弱い女性が何か意見をしたときでも、丁寧なまま接するだろう。
しかし、一見健康そうな若手の男性職員である僕には当たりが強かったりする。
恐らく僕が何か意見をすると猛反発するだろう。
「残業はしないほうがいい」と口で言っていても、
「残業するやつは偉い」という昭和的な思想も大変立派である。
「残業もしていい」と発言できるあたり、「残業は残業手当がもらえるご褒美」とでも思っているのだろうか。
僕は職場では基本的に物静かに働いているが、腹が立てば普通に怒りもするし、顔にも出るタイプであるが、
その基本的に見せている物静かさが僕の本性だと思い込み、舐めて接しているのであれば、そのうち噛みつかれることを覚悟したほうがいい。
これは僕に限った話ではない。
この社会に生きる「舐められた人たち」全員は、いつか舐めているお前たちに噛みつくことがある。
もう一度考えてみる。「働くこと」とは、みな平等に課せられた義務である。
その義務を果たすために、僕たちは様々な環境に身を置いている。
その環境が嫌であるなら、僕たちは何度でも声をあげるべきだ。
それが古の時代で働くこと=生きることに繋がっていたように、僕たちも生きるために理不尽なことには声をあげていこう。
辞めさせられるぐらいなら、そいつを辞めさせるまで追い込むぐらいの気持ちでね。