I'm winning!!

I'm winning!!

「現実」とは人が理論を通して作り上げたものに過ぎない。結局は、どんな「現実」を求めるかでその人生が決まる。

それなら僕はポジティブな「現実」がいい。

関西在住の大学4年生。

2006年4月に社会人の仲間入りをする。


目下の興味対象は、卒業前に行くインド。

広大な南アジアの大地が、きっと素晴しい「何か」を与えてくれるはず。

そんな期待を胸に、アルバイトで旅行資金を稼ぐ毎日である。

Amebaでブログを始めよう!

今年の大晦日はバイト先で過ごした。

近くに有名な神社があり、年末年始の参拝客の囲い込みを狙うオールナイト営業。

例年の如く大売り上げを狙って、本社からも人員が派遣されていた。



しかし・・・売り上げはいまいち伸びなかった。

つまり、失敗。



閉店後、社員・準社員が集まり話し合いがもたれた。

そこで出てくるのは、責任の押し付け合い。

「誰がこうだったから売り上げが伸びなかった」等々、醜い発言の数々。

誰も、自分のどこが悪かったなどとは言わない。

内にある原因は見て見ぬふり。

そして、原因を指摘するだけで、解決策を考えようとはしない。


でも、一個人・大晦日その日の行動のみに原因があるんだろうか?

割合どうこうはまた別の話として・・・ある結果の裏には、全人間の・全行動があるはずだ。

つまり、毎日の積み重ねが、毎日の結果につながるということ。

それを無視することは、すなわち失敗を成功の種に出来ていないこと。

失敗ばかりの悪循環。


そこで思ったこと。

「失敗」したときに、取るべき行動。「失敗」を次に生かすべくとる行動。

①毎日の一つ一つの行動に神経を集中させる。

②失敗の原因は、外だけでなく内にもたくさんあると自覚する。

③原因を指摘するだけでなく、その解決策も合わせて考える。






なんか考えがまとまってないな。

明日、また書きます。

この季節になると、いつもあの思い出がフィードバックする。

あれは高校三年生の秋。

受験生であるにもかかわらず、僕はその状況をうまく飲み込めていなかった。

だから、何をするでもなく、毎日をやり過ごしていた。

ただ、心の中はいつも、罪悪感と焦燥感に満ちていた。

「このままじゃ絶対ダメだ」と。


そんな生活を送っていたある日。

父親が、こんなことを言った。



「お前は、甘い。人生をなめるな。もっと強くなりなさい。」



先に説明したような心情が理由かどうかは定かでない。

ただ、僕は不覚にも両親の前で号泣してしまった。

「ごめんなさい・・・」と。



数ヵ月後、僕は受験に失敗し、全く予想外の大学へ行くこととなった。

そして、この頃からか、僕はある思い込みに囚われることとなった。

「自分は弱い。だから、過酷な受験勉強から逃げ出し、結局失敗したんだ。今後、この弱さが僕を駄目にしていくんだ。」と。



しかし、この思い込みには大きな落とし穴がある。



それは・・・

「強さとは、厳しさ・辛さを全面に受け止め、そして生きること、だけを指す」という極端にネガティブな志向。


こんな考え方を持っていると、どんなに成功しても、得られるのは安堵感だけ。そこに喜びはない。

そして、失敗したときに、立ち直ることのは困難。

つまり、少なくとも、僕にとってはナンセンス。





そこで、発想の転換。




「強さとは、どんなに苦しい状況も、楽しい・面白いと思える力。前向きな志向のこと。」




これならどんな失敗でも、次に活かそうという姿勢になれる。

成功しても、そのポイントに留まらず、次へ進もうという姿勢になれる。




友達が紹介してくれた雑誌のキャッチコピーにこんな言葉があった。



「パイオニアは笑って進む。」

僕らの人生。

そのベクトルが決まる過程においては、なんらかの「作用」が働いている。

だからこそ、僕らは多種多様な社会集団(家族や学校、そして職場etc...)に身を置き、あるいは置く可能性があるのだ。

これは、あたりまえのこと。




でも・・・

その「作用」って一体なんなんだろう?






こんな話を始めると、必ず出てくる議論。

「意思か、それとも運命か」というあれ。



昔は、僕もそんな議論をよくした。

「運命なんかで人生は決まらない。人生は自分の意思で切り開くものだ。」と。




でも、運命だとか、意思だとか、どちらか一方で人生が決まるなんて、ありえないんじゃないだろうか。

不可避的な力(運命)に抵抗して(意思)、少しでも望む進路を決めることもあるだろう。

他方、自分の思い通りに事を運んでいる(意思)最中、何らかの抵抗(運命)を受け、最後には予想しない結果となるケースもある。




つまり、人生とは運命と意思の綱引きなのだ。

どちらが勝つかは、最後にならないと分からない。


ただ一ついえることは・・・

「最後まで意思で切り開こうとしなければ、望む人生なんて得られっこない」ということ。

意思で切り開こうとする姿勢。これが大事なのだ。



スタインベック 『怒りの葡萄』 大久保康雄訳 より引用

「・・・・・『とにかく誰でも自分のやれることをやっていくだ。そして・・・ただ、いつもほんのすこしでもいいから前に踏みだすってのが大切なんだ。ときにゃいくらかあとずさりもするだ。だけど、けっして大きくは後退しねぇ。それは証明できる。・・・だから、すべてのことがその方向に進むんだ。ということは、一見するとむだ足しているようなときでも、そうじゃくて進んでることなんだ』」

来年から社会人となる自分。

60歳を超えるまで、ほぼ毎日仕事がある生活。

それを意識するためか、最近よく考えるテーマがある。


それは・・・

「自分にとっての仕事のあり方、ないし位置づけ」



もちろん、仕事はそれ自体で楽しいものだ。

成長することの喜び、何かを成させる喜びが得られる。

でも、それだけなんだろうか。

仕事には、他の「何か」がきっとあるような気がする。




ところで・・・

大学4年間を振り返ると、僕の生活は2種類に分けられる。

一方はアルバイトをしているときの生活で、他方はそうでないときの生活だ。

そして、この二つを比較してみよう。

すると、ある事実が浮かび上がる。

それは・・・

「仕事をしているときの方が、休日をより楽しめている」ということ。


アルバイトをすれば、当然自分の自由な時間が減る。

そして、自由が制限されるということは、不自由なことのように思える。

でも、それは短絡的な考えに過ぎない。

人は不自由を知ることで、自由の真の価値を知る。

つまり、自由な時間が限られているからこそ、それをめいいっぱい楽しもうとするのであって、自由が周りに溢れていると、その価値に気づく前に、ただ時間だけが過ぎ去っていくのだ。



結局・・・

「仕事とは、人生の価値を知るきっかけを与えてくれるもの」

なのかも知れない。

高校時代、ある先生が言っていたこと。






「英単語の暗記。それには、インプットだけではダメ。かといってアウトプットだけでもダメ。必要なのはインプット、アウトプットの繰り返しだ。」






これは、英単語の話に限ったことでないと思う。

人生という極めてマクロな分野においても、上のことが言えるのではないか。






つまり・・・・

何かを経験する(インプット)だけではダメ。かといって、ただ当てずっぽうに考える(アウトプット)だけでもダメ。何かを経験し、次にそれについて考える。そして、考えたことをバックボーンにして、別のことを経験する。この繰り返しが大切だ。





さて・・・

何かを経験することは簡単だ。

単純に行動すればいい。本を読めばいい。

難しいのは、考えるという作業。考えたことをバックボーンのレベルまで高める作業。考えたことを形にする作業。






そして・・・

考えを形にする一番の手段、それは書くこと。







だから、ブログを始めることにした。