2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波によって壊滅状態になった浪江町の請戸地区の復興の様子です。
以前とは様変わりしましたが、間違いなく復興が進んでいます。
元のようにはならないのは解っていますがついつい訪れる場所の一つです。
この日は強風で仮設展望台が飛ばされるかと思いました。海の水が凄く綺麗だったのが印象的でした。
前方4本の鉄塔が見えるところが福島第一原発です。その下の白い建物が双葉海水浴場の海の家だった建物です。
前方、浪江町棚塩の海岸です。
東日本大震災の地震と津波は、ここ請戸地区にも大きな爪痕を残しました。
特に沿岸部では15.5メートルの津波によって約6km2が浸水。住居など約600棟が流失し、推定28.9万tもの災害廃棄物が残されました。
“救える命があった”
震災直後に避難区域で救助活動に当たっていた複数の消防団員は、避難指示が出て救助活動が中断されるまでの間に助けを求める声を聞いたと証言していました。
このうち津波で125人が死亡した福島県浪江町の請戸地区で救助活動に当たっていたある浪江町消防団員Aさんは、震災当日の夜、がれきの中から助けを求める声や、物をたたいて居場所を知らせようとする音を聞いていたということでした。
消防団員Aさんは、応援を求めにいったん役場の詰め所に戻りましたが、機材も人員も足りず、大津波警報が引き続き出されていたため、町の判断で救助活動は翌朝に持ち越されたということでした。
しかし、翌日の朝、原発から10キロ圏内に避難指示が出されたため、救助活動に向かうことができず、住民の避難誘導を優先せざるをえなかったということでした。
これについて消防団員Aさんは、「あのとき、『あす助けにくるから待ってろよ』と声をかけてきたのに、結局、救助に行けなかったことを今でも後悔している。原発事故がなければ何人もの命を救うことができたのではないかと無念に思う」と話していました。
このうち津波で125人が死亡した福島県浪江町の請戸地区で救助活動に当たっていたある浪江町消防団員Aさんは、震災当日の夜、がれきの中から助けを求める声や、物をたたいて居場所を知らせようとする音を聞いていたということでした。
消防団員Aさんは、応援を求めにいったん役場の詰め所に戻りましたが、機材も人員も足りず、大津波警報が引き続き出されていたため、町の判断で救助活動は翌朝に持ち越されたということでした。
しかし、翌日の朝、原発から10キロ圏内に避難指示が出されたため、救助活動に向かうことができず、住民の避難誘導を優先せざるをえなかったということでした。
これについて消防団員Aさんは、「あのとき、『あす助けにくるから待ってろよ』と声をかけてきたのに、結局、救助に行けなかったことを今でも後悔している。原発事故がなければ何人もの命を救うことができたのではないかと無念に思う」と話していました。