*●w●){ちょっと本気でアニメ考察#26【AURA「もうやめて!涼のライフはもうゼロよ!」】 | 小新井涼オフィシャルブログ「もし現役大学院生(仮)が毎週アニメ100本みて感想をブログに載せたら」Powered by Ameba

今回は只今上映中の作品
「AURA~魔竜院光牙最後の闘い~」
$小新井涼公式ブログ こあらいりょうの『日本語でおk。』
こちらを観てきましたので感想もろもろをご紹介いたします。



・簡単なあらすじ
中学生時代、中二病が原因でいじめを受けていた佐藤一郎は高校入学までの時間をかけて妄想世界を卒業。普通の生徒として順風に高校デビューを成功させた。しかしある夜、忘れ物を取りにいった学校で青いローブに身を包む少女佐藤良子と出会ったことにより、捨てたはずの過去や複雑な人間関係など様々な問題に巻き込まれてゆく。


作品を観て自分でも噛み砕いて深く考えたいと思った5つの項目に関して語っていきたいと思います。
今回は作品紹介というよりは完全な感想・考察なので未鑑賞の方には優しくないかもしれません。
でも逆に気になった方はぜひぜひ上映終了前に映画館に行ってみてください♪
かなりオススメです!
$小新井涼公式ブログ こあらいりょうの『日本語でおk。』
ほら浮かれてオリジナルドリンクまで買ってしまうくらい←
それでは考察という名の語りいってみます



・ふたりの佐藤はどちらも自分と思わせる

自分を守る努力と称して時間や労力という代償を払ってまで中二時代の自分を捨てた通称“メンズ”の佐藤一郎。
自分が代償を払ってまで忘れようとしていた過去を思い出させるかのように残酷にも目の前にあわられる絶賛妄想戦士の通称“レディス”佐藤良子。
メンズ佐藤にとって未だに中二的妄想世界にすがるレディス佐藤は沢山の代償を払ってまで過去の自分と決別した今の自分のクラスでの立場や平穏を脅かす存在でもあった。

しかしそんなレディス佐藤を見ていると湧いてくるメンズ佐藤の怒りや恥ずかしさは、お世話係としての立場から生まれるものではなく、レディス佐藤を通してかつての自分に対して湧きあがってきたものであるように思える。
そうであるからこそ、新たにいじめのターゲットとされたレディス佐藤の気持ちが一番分かるのもメンズ佐藤であり、「おまえは孤立していない」と励ましたり、いじめのに対するセオリーを説くことにより、結果レディス佐藤を通してかつていじめられていた自分を肯定していくという奇妙な矛盾もメンズ佐藤の中で生まれていったのではないか。

そしてそんなメンズ佐藤はレディス佐藤にとってもかけがえのない存在で、この狭量な世界で唯一そちらの世界にいながら自分を助けてくれることに、無意識ながら他の「あっちの世界」なクラスメイトと同じような憧れや羨望をメンズ佐藤に抱いていて、そんなメンズ佐藤が肯定してくれる自分に少しずつではあるが学校での自分の存在価値を持てていたのだと思う。

メンズ佐藤にとってのレディス佐藤は過去の自分を写す、レディス佐藤にとってメンズ佐藤は理想的な未来の自分を写す、お互いにとってお互いの存在が鏡に写した自分にも思えるということもあり、二人の主人公である男女両佐藤が同じ苗字だというのはそういったメトニミーでもあるように思えてくる。

特に中二という自覚を一回でも経験したことのある人にとって二人の佐藤はどちらもかつてと今の自分であり、二人の悩みや辛さや恥ずかしさや劣等感や卑屈になってしまうところは全部過去から現在にかけて自分が隠したいしまっておきたいと思っている奥底のドロドロな部分を無理やり目の前に突きつけられているかのような感覚を引き起こすことだろう。
しかしだからこそ観ていて辛くはありつつ、作品全体を通して逆に背中を叩いて励まされたようにも思えるのだと思う。




・フィクションの中のノンフィクション?

クラス内ヒエラルキーやスクールカーストという、学校やクラスという小さな空間が世界の全てである学生にありがちな現象をリアルに描いてみせてくれるのもこの作品に共感を抱く理由のひとつである。

人気者・人気者グループに入る人間には生まれ持った絶対的なオーラがあるという考え方、作品を通して心優しいキャラであったはずの小鳩がおそらく無自覚ながらも山本に対して言った「人気の大暴落」という言葉の残酷さ、そんな本当に小さな綻びやズレから簡単に崩れていく人間関係。

実際に自分が同じめにあったことはなくても、佐藤のクラスで起こることはかつて自分が一番恐れてきた事態であり、恐れてきたあまりに対人関係を優劣や損得で見るようになってしまったり、「あっちの世界」のクラスメイトのように、実際に自分に自信はないし自分の弱さに言い訳をしているだけだったりと、卑屈なだけだった自分を思い起こさせて、色々と抉られる感覚になんだか泣けてきたりもした。
大島の正論に言い返せない佐藤のもどかしさは自分が間違っていることを突きつけられたときにそれを認められない弱さを自覚した自分へのもどかしさであったり、努力もしないうちから「いきなり結果求めんな」という一度そっちの世界へ行ったメンズ佐藤の言葉は、世界のせいにして勇気もないのにでも目立ちたいという自分勝手な見られたくない部分を突きつけられる苦しさをも生んだりと鬼畜極まりないシーンもある。

しかしそれは先述の通り実際に全く同じ経験は無く完全なフィクションなのに、鑑賞している方にリアルに痛みを伴わせるという点で、フィクションがノンフィクションの世界を描いているというある意味メタな作品であるとも言えるのではないだろうか。




・メタファンタジーでありメタリアル

先述の通り、作中のリアルな部分が現実世界のリアルをもう一度見せてくれているある意味メタリアルな面も持ちながら、そこはフィクションでもあるのでちゃんと中二という世界観を上手くデフォルメして表現もされている。
W佐藤の幻想的な出会いや「あっち側」のクラスメイト達の特殊な性格、最後のシーンの机で作った要塞などは実写化では表現できない部分であると思う点で、二次元というファンタジーを使って妄想というファンタジーを表現しているメタファンタジーな性質も併せ持っているとも言えるのではないだろうか。

見る人の立場や経験、作品への切り込み方によって限りなくリアルな世界を表現しているようにもファンタジーな世界を表現しているようにも思える不思議な魅力がある作品である。




・あっちとそっちの境界線

狭量な世界との隔たり方としての死というボーダーや、一度気づいてしまったらそちらには戻れないというメンズ佐藤の言葉など、同じ空間でありながら妄想戦士の生きる世界とそうでない世界との境目がいくつか出てくるが、この作品全体を観ることで一番境界線が見えるのは、登場人物でも作中の世界でもなく、この作品を観ている私達のほうなのではないだろうか。
それは作品を観た人の感想や評価やレビューを見ることで更にくっきりと見えてくる。

一人のレビューに「この作品をみて泣いたかということが一つの試金石になる」との言葉があったがまさにその通りで、この作品を観て抱いた素直な感情は妄想戦士である人、妄想戦士でない人、かつて妄想戦士であった人という差別でなく分別するための境界線に繋がってくるのではないだろうか。

勿論どんな感想を抱くのも自由だし中二病と聞いてピンとこない人は観ないほうがいい訳ではない。
EDで大島が呟いた「何なのこれ」という感想をこの作品に抱くのも一つの感想であり、むしろそういった人の感想や疑問に思ったことも、自分が違う感想を持った分すごく気になるのでぜひ聞いてみたいと思わせるのである。




・理想があるのはトラウマがあるから

最後のシーンでのクラスメイト達が照れ笑いをしながらする夫々の妄想戦士カミングアウトは、多かれ少なかれ自分はそうではないと装っていながらもファンタジーな世界を信じた経験がある人が結構いるということかなあと、随分(いい意味で)ボコボコにされた精神的にほっこりするシーンだった。
そんな夢みたいなことありえない、信じられないって思っている人ほど本当はそれを信じたい、そうであったらいいと心のそこで願っているからこそ表向き否定してしまうのではないだろうか。

ハルヒのような逆も然り、TOHでも疑惑の栖ピルーンエピソードで語られたように、「信じられない」というのは「信じたい」の感情の裏返しなのだろう。
隠したりそんな子供じみた幻想って言うのも本当はそんな世界を期待していながらも信じて裏切られるのが怖くて否定しているだけに人もいるのかもしれない。

世界が狭量だからっていう言葉も、自分を否定し続けるトラウマを与え続ける世界を広げたい壊したい抜け出したいという願望が生み出したもので、その結果理想としての妄想世界をつくってるのだろうし。

そんな葛藤の中でW佐藤の歩み寄りからあっちとこっち、どちらかの世界でなきゃいけないのではなく、「つらい現実は見えない敵と戦い放題」という言葉から、妄想世界を全否定しないまま現実世界を辛く苦しくも乗り越えていくっていうRPG妄想で楽しんでやれという前向きなグレーゾーンという境界線上での考え方も提示されていたのはとても救いであったと思う。

あっちやこっちのどちらかを完全に否定するのではなく、あなたはどうですか?っていう提示をしてくれた素敵な作品であった。