本日休日でのんびり過ごしていましたが、母からの電話で一変しました。


いつもメールからなのに、何事かと思いながら出てみると・・・



親友のお父様が亡くなったとの連絡でした。

私の父より1歳若かったそうです。




親友とは小学校5年生からの付き合い。




彼が4年生の時に転校してきて、5年生でクラスメイトになりなした。

とても男気がある友人で、私が困難なことになっている時期に、孤立を恐れずに一緒に居てくれました。


中学校も同じでしたが、10クラスもある学校だったので3年間同じクラスではなかったのですが、

会えば必ず声をかけてくれました。


高校も同じ学校へ進み、1年生の時は隣のクラス、クラブの部室も隣。


2年生で同じクラスになり、そこから絆というか本当の意味で親交を深めていきました。


彼のお父様に初めてお会いしたのは、クラブも引退し暇な時間が出来たときに、彼の家へ遊びに行った時でした。

いろいろ私の事を話していたかは分かりませんが、とてもフレンドリーにお話をして頂いたことを思い出します。


社会人になってからはお会いする機会も少なくなり、最後にお会いしたのは彼の結婚式の時でした。

前日に彼の家で、彼の専門学校時代の友人たちを招いて宴を開いているとの連絡を受け彼の家へ行き、祝い酒を酌み交わしました。

とてもうれしそうなお顔が記憶に残っています。


いつも会えば優しくお話をしてくれたお父様でした。


おじさん、お会いできなくとても残念です。

長い間の不義理申し訳ございません。


親友へのお悔やみを申し上げるとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。



合掌。

あれから4年の月日が経ちました。

あの日は何をしていましたか?おそらく当たり前の日常を過ごしていたことでしょう。



あの日私は休暇中で、実家のある福島県いわき市に帰省していました。


3月ではあったのですが寒い日、趣味であるゴルフをしていました。

その日は何やってもダメダメで最終ホールへ。


ティーグランドへ着いた瞬間、あの時間を迎えました。

カートの中は危険と、ティーグランドへ避難し最初は立っていましたが、あの揺れです(いわき市は震度6弱 気象庁発表)。周りにある木々が倒れないかを注意しながら座り込んで事が収まるのを待ちました。

リモコン式のカートなので当然動かなくなり、一番若手の自分が走ってクラブハウスへ。その時に見た光景は忘れられません。ちょうど花粉飛散の時季。

近くの山々が黄色く染まっているかのようでした。


何とか車に乗り込み自宅へと向かいますが、道路は陥没、電柱が倒れ電線も垂れ下がり、民家の塀も激しく壊れ倒れていました。


いつもなら、とある交差点を右折をして常磐線の陸橋を通るのが近道でしたが、つなぎ目の所が陥没しているのではないかと思い、一つ前の交差点を右折して路地裏の道とも言えるような生活道路を倒れた電柱、塀、そして落ちた屋根瓦を避けながら走り抜け自宅へ到着。家族と自宅の無事を確認できました。


到着後直ぐにテレビのニュースを見て愕然としました。

震源地の近くでは大津波が・・・

必死で何とか帰宅しようとしていて津浪の事は全く頭にありませんでした。

いつもの交差点左折をしていたら間違いなく津波にのまれていました


なぜこの事をブログにしたかというと、私自身忘れないためでもあります。

たまたま無事ではありましたが、一歩間違えばと思ったからです。

多くの方が亡くなり今なお行方が分からない方も多くいます。





14時46分。


黙祷を捧げました。


もっと生きたかった。大切な人の元へ帰りたい。


無慈悲な災害です。きっとそう思ったに違いありません。


生かされている命。これを大切に今を生きようと思っています。



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福島県いわき市岩間地区



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福島県いわき市岩間地区を高台から



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いわきサンマリーナ


95年の国体でヨット競技が行われたヨットハーバー






あれから4年の月日が経ちました。




写真は昨年10月に帰省した時に撮影しました。


実は震災3日前と記憶していますが、この道を通るのが楽しみでその日も・・・。


写真では1車線ですが以前は2車線で歩道がありました。


防潮堤でしょうか、未だに補修はおろか新しく作られていません。


土のうが積み重なっているだけです。


間もなく14時46分を迎えます。


亡くなられた方へ、黙祷を捧げます。


また後ほど、アップします。