以前読んでくださっていた方が、私のブログを「BTSへのラブレターのようだ」と言ってくださったことがありました。

 

彼らへの止まらぬ愛を勝手に叫んでいたことは自覚していて、彼らを応援しているだけで経験する幸せを、彼らを見ていると受ける気づきであったり、もちろんそれと同時に少々の切なさと苦しさもあったり。

 

そのどんな感情もあまり隠すことなく書いてきたつもりで、そこには前から書いている通り、彼らのために、などという崇高な気持ちなどなく、ただただ自分の想いを書き綴っているだけで。

 

それを「ラブレターのようだ」と読んでくださる方がいたことに驚くと共に、とても嬉しく思っていましたが、自分ではそんな素敵なものだとは思っていなくて。

 

でもあの会食以降、ブログが書けなくなっていることはみなさんお気づきのことだと思います。

まさに今、彼らへの気持ちを書くことが出来なくなっていることは事実。

 

そんな自分を思うと、やっぱり私のブログは彼らへのラブレターだったのだと思うわけです。

 

私はいいことばかりを書いてきてはいないし、彼らのすることならオールオッケーなファンでもないし、それをブログで隠そうとも思ってこなかった。

 

ファンとして、良い時も悪い時も当然あって、目を瞑ってきたことだって、見て見ぬふりをしたことだってもちろんあった。

 

こんなことすんのかい!って友人にクダを巻いたことも、もー無理!ペン卒する!と思ったことも、凹んでご飯が喉を通らなかったこともあった。

 

でも、そんな時ですら、彼らへの情熱は失われることがなくて。

 

情熱って、楽しい時や良い時だけに必要なものじゃなくて。

 

パッションがあるから怒るし、パッションがあるから悲しいし、パッションがあるから泣く。

 

 

ナムジュンのWeverseライブで未だ消えない彼の苦悩を知っても、メンバーのVlogを観ても、ホソクのソロ活動からの素晴らしかったステージを観ても、最長同室のジミンとの絡みを見ても、ボーカルラインのコラボのお知らせも、マンネテヒョンの可愛すぎる姿を見られるウガ森も、ジンの試写も、タリョラのお知らせも、どれを観ても、心が動かない。

 

 

でも何も思わないんじゃない

 

ただただ良かったね、頑張ってるね。

 

って思ってる。

 

私はずっとブログで「彼らに幸せであって欲しい」と書いてきたけれど、もしかしたら今が1番純粋に心からそう想っているんじゃないかと感じている。

 

 

こうやってブログが書けなくなって、今まで私が言ってきた「幸せ」は私自身も含まれていたことに気がつく。

いや、「彼ら」に私も入っていたのだと思う。

 

「BTSは7人じゃない」と繰り返し彼らは言ってくれていた。

自分でも思った以上に、そう私も信じていたのだと思う。

 

彼らが幸せなら私も一緒に幸せなのだと思っていた。

逆も然りで、ファンが幸せなら彼らも幸せなのだと思っていた。

 

だから届くはずもないけれど、こんな私の想いを、私はこんなに幸せなんですよ!っていう想いを綴っていたのだと思う。

 

確かにラブレターだった、と今になって思う。

めちゃくちゃに恥ずかしいが。

 

私は彼らを好き過ぎた。

好きの方向が間違っていたのかな。

理解しようとし過ぎた結果、今の彼らを何一つ理解できなくなってしまった。

一緒に幸せになろうだなんて、図々しかったんだな、って思う。

 

 

でも先述の通り、今が1番純粋に彼らの幸せを願っていると思う。

 

なぜならそこに自分が入っていないから。

 

彼らに幸せにしてもらう自分が入っていないから。

 

一緒に感じる幸せではなく、彼ら自身が自分のためだけに求める幸せだから、ただただ見守ることができる。

 

彼らの求める幸せが何なのか、自分で考え、自分で決めた道がどのようなものなのか、そこに良いも悪いもなく、興味があるのだ。

 

私がこんなにも好きになった人たちが、この先どんな大人になっていくのか、どんな表現者になるのか、どんな仕事を選び、どんな人生を送るのか、見届けたいし、どんな選択をしても、幸せであって欲しい。

 

正直に言って、以前のようなほとばしる情熱はもうない。

泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、彼らに起きたことを自分のことのように受け取ることはもうないのだろうと思う。

 

その代わりに、穏やかに彼らのこれからを一歩離れたところから見られると思う。

 

彼らに自分を投影せず、彼らとの思い出や、彼らに救ってもらったことなど過去に囚われず、今目の前で起きてる彼らの言動だけを淡々と見ること。

 

彼らの言動に一喜一憂し、上がったり下がったり、興奮したり凹んだり、が「推しのいる醍醐味」だと繰り返し書いてきたけれど、遠くからゆったり眺めるのもまた推し方のひとつなのかもしれないし、それが本来のファンのあり方なのかもなぁ、と思う。

 

だから、今は何を見ても「良かったね」という感想しか出てこない。

どの活動に関しても「頑張ってね」だし、それを立派にこなす彼らを見れば「すごいね、よくやったね」と思う。

 

ホビの大舞台も前なら一緒に緊張していたと思う。

あんなに痩せていくホソクをめちゃくちゃに心配していたと思う。

 

タリョラのお知らせも、釜山コンのお知らせも、飛び上がるほど嬉しかっただろうし、釜山行きの計画も立てていたと思う。

 

兵役については勝手なことをいう韓国政府にも、プロモーションの仕方にも、集金にしか見えないやり方にも、思うところはあったと思う。

 

でも、どれも彼らが自分で選んだのだ、と思えるようになった。

彼らの活動の裏に、彼らの笑顔の裏に、努力や苦悩があることをことさらに感じ過ぎないように、そして私も一緒になってそれを感じないように。

私がどんな風に感じても、どうのしようもない、と思うようになった。

 

そうか、これが1を1で受け取るってことなのかもしれないなぁ。

 

 

受け取る人によってはこれをペン卒と言うのかもしれない。

 

伝わっていないかも知れないけれど、でも私の中では決してそうじゃない。

 

これからも彼らを応援しているし、彼らの幸せを願っている。

 

それにペン卒を知らない誰かに促されるものでもないと思っている。

 

でもラブレターはもう書けないかもしれない。

 

ラブレターじゃないのなら、このブログを続けていく意味があるのかなぁ、とも思ったりして。

 

彼らのことも、ファンとしての自分のあり方にしても、しばらく少し距離をとって考えてみようと思います。

 

どうしてもっと物ごとをライトに捉えることができないのか、と自分を呪う2022年の夏です。

 

みなさん酷暑お見舞い申し上げます。