毎度毎度ながらですが、今回は特に長々とつまらない話を書きます。
7人は全く出てこないし、得な話など皆無でただただ私の思いを書くのみの「おもんなー」な回です。(いつもが「おもろー」な回でもないんだけども)
 
前々回、ユンギの一言から始まった話が、どんどんズレていき、結局は情報の価値やそれとの付き合い方まで広がってしまったのです。(いつもすみません)
とはいえ、せっかく乗りかかった船ですので書いてみたいと思います。
 
 
実際に友達になれるわけもない芸能人を好きでいる限り、「情報」が頼りであることはどうしようもない事実であって、ましてや他国のアイドル、言語も違えば思想も違う、街ですれ違うなんてことも100%ない状況ではなおさらのこと。

 

むしろ「情報」がなければ好きになることすらなかったくらいなわけで。

私と推しとの繋がりはもう「情報オンリー」と言っても良いくらいだと思う。

 

その情報の取り方は、時代とともにメディアや紙媒体からインターネットへ。

ネット登場後の情報の伝達のスピードは比べものにならないくらいになった。

 

今や全てのことが指一本で検索できるようになって。

ネットで検索できないことなんて何もないんじゃないかと思う。(日本にいれば)

 

ちょっとした疑問があればネットに投げかけると、必ず答えが転がっていることに驚く。

私が自分自身でも「しょーもな」って思うことですら、同じしょーもないことをすでに思っていた人がいて、それに答えてくれている人がいる。(毎回驚く)

 

推しのことだけでなく全てのことがそうで。

以前は自分で血眼になって調べていたありとあらゆることが、指一本。

以前なら???で終わっていたことも瞬時に答えを得ることができる。

また、自分が知っている小さな知識が誰かの役に立ち、自分1人で思っていたどうでもいいことにすら誰かが共感してくれる。

 

こうしてネット社会の成長とともに、誰でもが発信者になり、誰でもが受信者になった。

この「簡単に誰でも発信者になれる」が今までの世界を一気に変えたのではないかと思っている。

 

ほぼ一方通行の関係である紙媒体の「著者」と「読者」やテレビやラジオの「製作者」と「視聴者」の関係ではなく、「発信者」と「受信者」のどちらがどちらにもなれる相互関係になったってことが以前とは明らかな相違点。

 

情報の扱いについて全くの素人である私のような一般人が発信者になれるわけだから、相当にそのハードルが下がったのだと思う。

それに伴って「情報を発信することに対する責任」が薄くなったなぁ、と思う。

かつては、テレビや本や雑誌でしか情報を得ることができなかった。

確かにそれは今となればとてもまどろっこしいし、時間もお金もかかるし、しかも情報はリアルタイムじゃない。

 

けれど、発信者がはっきりとしていた。

きちんと取材し、筆者や社の名前とプライドと共に発信していたはず。

 

もちろんその中にはガセネタや悪質なものもあったとは思うが、基本はクレジットがあったはず。

そしてそれを繰り返せば世間から淘汰されていく。

 

今はどうか。

プライドと責任や覚悟は背中合わせだと思う。

責任や覚悟を持っているからプライドが持てる。

それがないのに持てるプライドなど裏打ちのないペラペラなものだと思う。

 

誰でも気軽に発信できる便利な世界と同時に、著作権もない責任もない情報が溢れてしまう世界になったのだ。

 

そのおかげで、手に入る情報量が格段に増えた。

そしてそのせいで、間違った情報を手にしてしまう可能性も格段に増えた。

 

簡単に発信し、簡単に受け取る。それをまた簡単に発信する

 

のが、SNSだ。

 

簡単に手に入れられたものは、簡単に消費されていくんだなぁ、と思う。

簡単になるとどんなものでも価値が下がっていくことは当然の流れなのかもしれない。

 

このSNS登場後の「情報の価値の下がり方」は目に見えるくらいだったと思う。

 

人の手に渡れば渡るほど、発信者の色は薄くなってより顔が見えなくなっていく。

顔の見えない情報は扱う方は気が楽だ。

よって責任のない情報が責任のない人たちの手によって簡単に拡散されてしまう。

 

それなのに。

その情報の真偽についてクエスチョンがつくと一気に流れが変わる。

散々勝手に拡散しておいて、その責任は大元の発信者に負わせようとする。

っていう図式が、今回の「Hate  Everything」問題炎上のミソなのではないかと思う。

 

簡単に情報を共有し拡散することは悪いことじゃない。

それがSNSの特性だから。

 

むしろそうやってひとつのトピックスで世界中が繋がり、交流することができる。

誰かの小さなつぶやきが大きなうねりとなって力を持ち、社会を変えることだってあるかもしれない。

 

ただ、私は思う。

たくさんの人の手に渡ることは、発信者の色や、それを拡散する側の責任が薄くなることじゃない。

してる側がそんな気になるだけで。

 

他者が発信した情報や意見を引用すること、それはすなわちそれに賛同したことになり、そこに自身の責任がプラスされることを忘れてはいけない、と。

引用に反対意見を述べるのならばなおさらのこと、だと。

 

誰でも簡単に受け取り、簡単に発信できるからこそ、その「情報」を大切にしなくちゃなぁと思う。

 

簡単なものほど扱いには注意しなければ。

 

ご存知の通り、私は引用を極力しないようにしている。

その理由については以前から度々書いているけれど、まずは記事や発言は発信者の財産であると思うこと、次に今回の話を絡めて言えばその真偽に責任が負えないからということ。

 

そして1番大きいのは引用することで発信者の意図を歪めてしまう怖さ。

引用をするとき、それに私が付け加える文章でいくらでも印象を変えることができてしまうから。

 

さらに言うともし私が炎上するようなことがあったら、そこに引用している方にご迷惑が掛かるかもしれないってことも怖い。

 

直接引用していないだけで、もちろん情報は得ているし、それに全く影響されていないとは言えない。

だけど、様々な情報を見聞きした上で、「私の名前で私の責任で」という思いで書いている。

実際には、偽名どころかわけわかんないハンドルネームだし、素性も何も明かしていないのだから責任も何も、と思うけれど、このブログ内は私の腹の中のことしか書いていない。

 

何度も言うが引用が悪いとは思っていない。

それがSNSの特性であり最大の魅力だから。

でもその魅力が仇になってきていて、逆行する動きが出てきているのが現状だと思う。

 

引用禁止、転載禁止の言葉を多く目にするようになった。

 

情報を扱うことについて難しいのは、情報自体に「共通の価値」が存在しないこと、だと思う。

 

欲しい人には価値があるかもしれないが、欲しくない人には無価値だし、同じものを見ても、軽く思う人もいるし、重く受け止める人もいる。

 

発信した本人が思う重さと受け取る側の重さは違うことが多いだろうし、だからってその価値を誰かに決めてもらうことなんてできるわけがない。

 

書き手側はめちゃくちゃ頑張って調べてまとめたことに価値を付けたくなってしまうが、情報の価値は受け取り側にとって有意義かそうでないか、だけで、実際はそこに掛けられた時間や労力は加味されない。

 

情報には重いも軽いもない。

 

でもだからこそ。

それを受け取る側がいかにその見えない部分を大事に出来るか、なんだろうなぁ、って思う。

昨今のごちゃごちゃはそこが足りていないように感じる。

 

引用禁止、転載禁止、と書く人が増えたのは、書き手と受け手の重さがちぐはぐに感じるようになったからなんだろうと思う。

誰かに喜んで欲しくて手塩にかけて書いたものを軽んじられたくはないだろう。

ましてやそれを元に糾弾されたり中傷を浴びたりするのなんてまっぴらだと思うし、違う解釈で拡められたらたまったもんじゃない。

(でも、そんな人でも他者のものを普通に引用していたりして、なかなかにカオスな状況だと思うけれど)

 

 

うーーんと。

なかなか上手にまとめることが難しい問題なんだけれど、最後に。

 

私はたまたま書き手として(なんて堂々とは言えないくらいのレベルだが)こうして書いているけれど、分量的には圧倒的受け手の立場で。

情報を享受している側の私からすると、どんな情報でも上げてくれている方々には本当にありがたいとしか言いようのないことで。

 

先述の通り、発信する以上書き手はそれなりの責任が伴うと思うけれど、それにあたって誰も自分の推しを貶めようなんて思っていないし、ファンを弄ぼうなんて思っていないと思う。

 

そりゃ一部ヤバい人はいる。

どこにだっている。

でも、ほとんどの人はそうじゃない。

 

だから私は情報と付き合う時

 

嘘なのか真実なのか

必要なのか必要じゃないのか

 

 

は、受け取る側がちゃんとすればいいと思っている。

丸っと受け取らず、自分で調べればわかることが多いし、自分にとって必要な情報かどうかは判断すればいい。

 

間違った情報をSNSに載せると、途端に批判が集まる。

そこには「もしこれを見た新規が誤解したらどうするんだ」とか「推しに迷惑が掛かる」などの言葉が出るけれど、私は全然そうは思わなくて。

 

誰でも間違える。

これだけ情報があったら誤解なんてするに決まってる。

間違ったことに気がついたら訂正すればいいし、それを見て真に受けた人も自分でいつかは気がつくかもしれないし、もし気が付かないならそれはそれで良いではないかと思う。

そして間違ったことを鵜呑みにしたところで、推しに迷惑が掛かるなんてことはない。

掛かるとすれば、それを元に何か間違ったアクションを起こした時だから。

 

間違った情報=知った人が悪いことをする

 

ではない。

そこが一直線に繋がってしまうから間違った人を安易に糾弾してしまう。

 

仮に間違った情報を知ったとしても、しない人はしない。

正しい情報を得ていても、悪いことをする人はする。

 

それは情報のせいじゃない。

人間性の問題だと思う。

 

これからも溢れる情報とは切っても切り離せないし、誰でも簡単に発信できる代わりに、見たくないものも見てしまう世の中になって、本当に必要なのは取捨選択と見極める力なんじゃないかって思う。

 

推しと共に生活すると、どんな小さいことでも重大なことのように思えてくる時があって、なおかつ今のように休暇中など大きな出来事がない状態の時こそあたかもすごいことのような扱いになってしまうけれど、自分にとって重要なことなのかどうかを考えたら我に返ることができるんじゃないかって思う。

 

情報と付き合う時だけじゃなく常に必要なのは、「全ては自分」だってことだと思っている。

 

「情報」を見聞きするのも、それをどう感じるのかも、どう判断するのかも、それを真に受けるのも、スルーするのも、それを発信するのも、誰かと繋がるのも、何かアクションを起こすのも全ては「自分」であって他の誰かではない。

 

推しを愛でるだけでこんなに真面目に書いている私も相当にアホだけれど、愛でるだけでは済まない情報量の次元にいるから。

その波に呑まれないようにするには、自分がしっかりするしかない。

 

誰かの誤った情報に踊らされたんじゃない。

 

自分が勝手に踊ったのだ。

 

いや、自分の無知さや弱さに踊らされたのかもしれない。

 

 

踊らされて辛いのなら、人を責めずに自分が踊らずに済む方法を考えれば良い。

 

私は個人的には、踊らされるのもまた推しのいる醍醐味だと思う方で、昨今のさまざまな謎の現象も踊りながら割と楽しんでいる。(同じアホなら踊らにゃ♪精神)

 

楽しんでいるとか書くと怒られそうだが、なぜ楽しめるかについては私の推しと嘘と真実に対しての考えに基づいている(多分全然理解されないと自覚)ので、そんな話もまたいつか。

 

おぉ〜、こんなことで4500字を超えてしまって本当に申し訳ない。

学生時代、課題を2000字に納める方が苦手だった私らしい(相変わらず)。

最後まで読んでくださった猛者がどれくらいいらっしゃるかわかりませんが、なんの解決もなくただただダラダラ思うことを書いたものにお付き合いくださってありがとうございます。

 

他の方のSNSなどを見ていると「情報を知れば知るほど不安になったり」「このモヤモヤを聞いて欲しい!」ので主さんへメッセージがたくさんきているようですが、この昨今の混乱状況の中、私のところへは1通も来ていない事をご報告します。

 

このことを友人に話したら「え?他ブログではその返事が大変とか書いてあるやん。あんたのブログ実際はフォロワー0なん?」と言われましたが、読んでくださっている皆さんがとても冷静で踊らされていないタイプの方々なのではないかとお察ししている(決して強がりじゃない)ので、本当に今日の記事は意味ねー(釈迦になんとか)ってことに最後の最後に気がつく私。

 

でも結果5100字も書いたので、アップさせて〜💦。

何度何度も書き直したし、都合1週間以上掛かったから〜。(これが書き手のエゴです。)

こんなことしてる間に、テヒョンの罹患とソウルコンのお知らせとか来ちゃって完全なる周回遅れ記事ですが、アップしちゃうんだから〜!