<secret letter・第12章 終極>
『あなた、お久しぶりです。郁子です。
あなたがこの手紙を読んでいるということは、きっと私はもう死んでいるのですよね。
でも、いいんです。病気が発覚してから、そうしようって決めていましたから。
あなたには何も本当の事を言わずに死のうって、そう心に決めていましたから。
あなたが私を裏切って、あの女のところに行くようになってから、私もあなたのことをいつかは捨てるつもりだったのですから。
たとえ、私が病気にならずに死ななくても私はそうするつもりでしたし、私にもあなた以外の人がちゃんといたということをこの手紙で知らせたかった。
そうです。この手紙を届けてくれた人が私の愛している人です。
私が死ぬまで力の限り愛した人は、この人だけ。
決してあなたではありません。
私はあなたのことを愛しているフリをして、別の人をずっと心の中に棲まわせていたのです。
嘘だと思いますか?信じられないと?
いいえ。嘘ではありません。
高見さんとは二年前に知り合いました。
とても素敵な方で・・・彼はあなたと私が別れる事を強く願ってくれていました。
実を言うと、本気でそうしてしまおうかと思った時もあったのです。
いつかは私の方からあなたを捨ててやるという、言葉通りにしてみたい。
そう思っていました。
でも、病が私の身体を蝕んでいると知った時・・・(ここで書いておきたいのは、私の病気が発覚したのは、あの日あなたが血相を変えて病院に来てくれた日ではありません)
高見さんから治らないと告知を受けた時・・・できるだけの延命と痛みの少ない治療方法を選択した時、私の中に「悪」が生まれてしまったのです。
いつかはあなたに仕返しをしてやりたい。罠に嵌めてやりたい。
日に日に募る思いの終着点は、私が死んでからからがいい。
七年前に私がつけた布石をそのまま活用して、本当の事は何も言わずに隠したままがいい。
そのためには私はあなたと離婚してはいけない。
ここであなたに質問です。
私が七年前にあなたにつけた布石とはいったいなんでしょう?
わかりますか?ここで判ったらあなたはすごいわ。でも、きっと判らないでしょうね。
本当は、罠に嵌めるために布石を敷いたわけではなかったのよ。もともとあの事がそうなるとは想像さえもできなかったのだから。
ただ、あなたが私の気持ちを判ってくれていないから・・・だから、悪戯な心が働いてしまってこんなことになってしまった。
七年前、あなたは恵子さんとの浮気が楽しくてしょうがなくて、私の事など顧みる事もなかったでしょう?家に帰ってきても遅く、毎晩仕事の付き合いだとか言って飲みに行く素振りをしつつも恵子さんのところに通い詰めていた。
そのころの私は、お義母さんから赤ちゃんのことを言われ、毎晩帰りが遅いあなたのことで責められ、帰ってこないあなたに言えばいいのに、妻である私がしっかり掴んでおかないから浮気をされるんだとまで言われ、散々な毎日を過ごしていた私のことなど、あなたは爪のあかほども考えてはいなかったでしょう?
一緒に住んでいないお義母さんが、どうしてあなたが家にいないと判るのかは・・・それは毎日のように我が家に来ていたからだったのよ。
私はそれが、狂ってしまいたくなるほど嫌だった。正直、狂っていたのかもしれないわ。
だから私、あなたの自尊心を壊してしまいたくなって・・・叔父にあなたのことを頼んだのよ。
『お二人にお子さんができないのは、奥さまが原因なのではなくて、むしろご主人のほうにあると検査結果から確認できました』
この台詞を言われた時のあなたの顔・・・今思い出してみても可笑しくて仕方ないのよ。
あなたは知らないかもしれないけれど・・・。というか私の父の兄弟があまりにも多すぎて説明しきれていなかったのかもしれないけれど・・・叔父は産婦人科医なの。
思い出したかしら?
告知を受けた日・・・夫婦そろって休日の日に診断を訊きに病院を訪れようと、あなたに言ったこと。それが意味していること・・・
もうそろそろ、勘の鋭くないあなたでも判ってきたかしら?
そう、そうなのよ。
あの日、どうして看護師がいない診察室で告知を受けなければならなかったのか・・・
どうして叔父の病院で検査をしなければならなかったのか・・・
それはすべて、あなたを騙すためです。
叔父には病院を訪れる前から、ずっとお願いしていたの。
そのためには家の内情を言わなければならなかったけれど・・・
でも、そんなこと・・・もうどうでも良かった。
あなたとお義母さんに少しでも仕返しをしたかった。
いつも私のことを要らないものでも見るかのような視線を持ったあなたのことも。
そして、私のことを子供もできない役立たずな嫁だと罵る義母のことも・・・。
みんな奈落の底に突き落としてやりたかった。
私が味わった屈辱を、医師である叔父に・・・私の事を可愛がってくれた叔父に、泣く泣く事情を説明して夫と別れる前に一泡吹かせてやりたいのだと懇願したのよ。
その願いを叔父は仕方なくきいてくれたわ。
今回、一度きりだという約束で・・・。
告知を受けるのは病院が休みの日にして欲しいと言われただけだったわ。
病院が休みであれば看護師もいないし、カルテにも残さなくていい。
入院患者用の看護師さん達はいたけれど、でも親戚の私が叔父の話を聞きに訪れていたとしても訝しむ者はいなかったでしょうね。
不妊治療の説明でも聞きにきたのだろうとでも思っていたのかもしれないわ。
実際は、嘘の診断をあなたへと突きつけていたというのにね。
嘘?何が嘘なのか・・・
この手紙では何が真実だったのか書いてあげる。
それはね、あなたに子供ができない原因があるのではなくて、私にあったということ・・・。
大丈夫だったのよ!あなたの身体は・・・普通の成人の男性が持つものを持っていたわ。
反対になかったのは私の方だったのよ。
でも、あの時の私はこれ以上二人に莫迦にされたくなかったの。
だから真実を隠した。叔父の嘘がベールとなり、真実を覆い隠してしまったのよ。
それを望んだのは私。
いつかはあなたに本当の事を言わなければならないと思っていたけれど。
なおさら家に寄り付かなくなったあなたに.真実を告げる価値があるのか判らなくなって、そのまま放置してしまっていたのよ。
別れてしまったら良かったのかもしれない。
そしたら誰も傷つかなくてもすんだのかもしれない。
そしてもっと早く高見さんに出会っていれば良かったと、どれだけ涙を流したか知れない。
その涙が流れた分だけ私の後悔は雨のように降り続き、あなたと恵子さんに対する憎しみは雪のように冷たく積もっていった。
私の寿命はあと何年と区切られているのに対し、私が死んだあともあなた達が幸せでいる現実に頭がついていかなかった時もあった。
でも私には切り札がある。
それをあなた達に届けるのは私が死んでからがいい。
もちろんその『切り札』とはこの手紙のことです。
私の本心と真実を書いた手紙をあなたに届けるのは今がいい。
あなたがすべてを失くしたあとがいい。
そう思って、ずっとあなたに隠してきた。
高見さんが傍にいなかったら壊れていた心も、なんとか保つことができた。
私が死ぬまでに、あの女に子供ができてしまっていたら、それで終わっていたのだけれど、そうでもなかったみたい。だから、この手紙をあなたが今読んでいる。
どう?当たっているでしょう?
そして今、恵子さんのお腹の中に赤ちゃんがいるでしょう?
彼女、ものすごく喜んだでしょう?
嬉しそうな顔をしてあなたを見つめたのではないかしら?
そして・・・そんな恵子さんを見てあなたは何を思ったのかしら?
自分が一番可愛いあなたは、妻になった恵子さんに言う事ができなかったんですものね。
「僕は子供が作れない体なんだ」って。きっと絶対そうだって踏んでたんですもの。間違いない筈だわ。これも、当たっているでしょう?
そしてあなたは恵子さんのことを疑ったはずだわ。
浮気をしてできた子供を僕の子供と偽って産もうとしているって・・・・
ねぇ、そうでしょ?当たってるでしょう?
逆上したあなたが恵子さんに何を言ったか想像ができるわ。
「堕ろせよ」とでも言ったかしら?それとも、もっとひどいことを言ったかしら?
今頃、恵子さんが家を飛び出していたりして・・・ううん。もしかしたら・・・
ごめんなさいね・・・でも、まぁ・・・散々私を苦しめた代償は高くついたという事よ。
あなたが本当に恵子さんの事を愛して大切にしたいと思っているのなら迎えに言った方がいいわ。そうね・・・迎えにいけるのならば、そうした方がいいわ。
そう、迎えにいったらそこからがあなたの人生。私はもういないのだし、あなたのことを愛してくれる恵子さんを今度こそ大切になさってね。それじゃ・・・・』
手紙はここで終わっていた。
長い手紙に眼が眩んでソファーの上に倒れ込みそうになってしまった。
あの郁子の僕を想っている素振りも、良妻過ぎて怖いと思っていた事も
すべてが嘘・・・。
郁子と惠子を対峙させたあの日。
郁子が「七年間耐えたあなたに・・・これから・・・」
そう言った後で何とも言えない微笑をつくったのは
この局面を想像していたからなのだと、愕然としてしまった。
今なら判る。
郁子の「これから・・・」の後に続く言葉が何であるのか。
それはきっと、「地獄の道が待っている」なのだろう。
郁子・・・。
あの日の告知も、そりゃ医者に言われたんだから信じるし、
まさかそこが盲点だなんて誰が思いつくんだよ。
そのことをずっと黙っていて、僕に対して痛恨の打撃を与えたということ。
郁子が企んだ計画は見事に当たっていた。
僕が惠子を疑ったということも、ひどいことを言ったということも・・・
何もかもが当たり過ぎていて逆に怖かった。
郁子は僕と伊達に夫婦をしていたわけではなかったのだ。
僕の性格も、行動力も何もかもを知りつくしていた。
だから、もしかしたら僕がどういう風な結末を迎えるのかも想像できていたのかもしれない。
僕はゆらりとソファーから立ち上がって、瞳から悔しさと悲しさと、
何もかもが入り混じった涙をいつの間にか流しながら二階への階段を上っていった。
「惠子・・・・」
後悔しても、もう遅い。
僕は部屋の床に広がっている羽根枕の羽を踏みながら進んでいく。
それは僕が歩んでいくたびに舞い上がるのだけれど、
その羽根には赤いものが付いている。
羽根だけではなくて・・・
壁にも天井にも・・・赤いものが飛んでいる。
そして眼の前のベッドの上には惠子が仰向けに倒れていた。
「惠子・・・・」
僕は何度も名前を口にするけれども恵子はピクリとも動こうとはしない。
なぜなら、恵子は・・・
郁子に罠に嵌められているとは知らずに逆上した僕が・・・
恵子は浮気をしているのだと疑った僕が・・・
台所にある包丁で恵子の首を掻き切ったのだから・・・
数時間前に恵子の命は消えてしまい、
お腹の中にいる子供とともに葬り去ってやったと・・・
狂ったように笑っていた僕に殺されてしまった。
もう戻りはしない・・・恵子の命。そして僕の子供の命。
亡くしてしまったのは僕・・・。
この手で奪ったものの尊さを僕は恵子の亡骸を前にして痛感する。
もう、戻りはしない・・もう、絶対に・・・
郁子・・・。
やっと今、君の考えている事がわかったよ。
君は、もうずっと前から僕に対して憎しみしか抱えていなかったんだね。
君があんなに優しかったのも、僕の浮気に寛大だったのも
そして僕と離婚しようと考えていると病室で口にしたのも、
僕が申し訳ないと思うだろうということを計算して言ったんだ。
確かに君は・・・自分が病気になる前は僕と離婚したかったんだろう。
でも、病気の告知を受けた時、僕への憎しみに生きる事を誓った。
そして、この最後を思い描いて僕と惠子を自分に繋ぎ止める事にしたんだ。
君は優しく、聡明な女性。
その考えを僕に植え付けて死んでいった。
だから・・・僕は惠子が許せなくなった。
君の愛情は見せかけだったのに、
本当の愛情をくれた惠子を疑い、郁子と天秤にかけ彼女を殺してしまった愚かな僕。
もう、どうしようもない。
呆然としている僕の耳に外の騒がしい音が届いた。
ビクッと身体を震わせ窓辺に立つと、家の前に二台のパトカーが横付けされている。
どうして?
僕はさっと身体を窓から引くと、部屋の隅に置いてある姿見に映った自分の姿に驚愕した。
血が・・・・ついていたのだ。
恵子を切りつけた返り血が、顔やシャツについていて赤黒く変色している。
飛び散った恵子の叫びがそのまま僕を染めていたのだ。
これはまぎれもなく恵子の血。
あの高見という医師は、こんな僕と話していたにもかかわらず平気な顔をして
ずっと、ずっと・・・あの世にいる郁子と共に笑っていたに違いない。
するすると全身の力が抜けていくのを感じて僕は座り込んでしまう。
僕はもうそこから一歩も動く事はできなくなってしまっていた。
郁子の勝ち逃げだ・・・・。
その言葉を繰り返し呟いて、踏み込んできた刑事達に身体を揺らされても
闇の中に心を閉じ込めてしまった僕は
もう何も声を発しようとはしなかった。
~完~
『あなた、お久しぶりです。郁子です。
あなたがこの手紙を読んでいるということは、きっと私はもう死んでいるのですよね。
でも、いいんです。病気が発覚してから、そうしようって決めていましたから。
あなたには何も本当の事を言わずに死のうって、そう心に決めていましたから。
あなたが私を裏切って、あの女のところに行くようになってから、私もあなたのことをいつかは捨てるつもりだったのですから。
たとえ、私が病気にならずに死ななくても私はそうするつもりでしたし、私にもあなた以外の人がちゃんといたということをこの手紙で知らせたかった。
そうです。この手紙を届けてくれた人が私の愛している人です。
私が死ぬまで力の限り愛した人は、この人だけ。
決してあなたではありません。
私はあなたのことを愛しているフリをして、別の人をずっと心の中に棲まわせていたのです。
嘘だと思いますか?信じられないと?
いいえ。嘘ではありません。
高見さんとは二年前に知り合いました。
とても素敵な方で・・・彼はあなたと私が別れる事を強く願ってくれていました。
実を言うと、本気でそうしてしまおうかと思った時もあったのです。
いつかは私の方からあなたを捨ててやるという、言葉通りにしてみたい。
そう思っていました。
でも、病が私の身体を蝕んでいると知った時・・・(ここで書いておきたいのは、私の病気が発覚したのは、あの日あなたが血相を変えて病院に来てくれた日ではありません)
高見さんから治らないと告知を受けた時・・・できるだけの延命と痛みの少ない治療方法を選択した時、私の中に「悪」が生まれてしまったのです。
いつかはあなたに仕返しをしてやりたい。罠に嵌めてやりたい。
日に日に募る思いの終着点は、私が死んでからからがいい。
七年前に私がつけた布石をそのまま活用して、本当の事は何も言わずに隠したままがいい。
そのためには私はあなたと離婚してはいけない。
ここであなたに質問です。
私が七年前にあなたにつけた布石とはいったいなんでしょう?
わかりますか?ここで判ったらあなたはすごいわ。でも、きっと判らないでしょうね。
本当は、罠に嵌めるために布石を敷いたわけではなかったのよ。もともとあの事がそうなるとは想像さえもできなかったのだから。
ただ、あなたが私の気持ちを判ってくれていないから・・・だから、悪戯な心が働いてしまってこんなことになってしまった。
七年前、あなたは恵子さんとの浮気が楽しくてしょうがなくて、私の事など顧みる事もなかったでしょう?家に帰ってきても遅く、毎晩仕事の付き合いだとか言って飲みに行く素振りをしつつも恵子さんのところに通い詰めていた。
そのころの私は、お義母さんから赤ちゃんのことを言われ、毎晩帰りが遅いあなたのことで責められ、帰ってこないあなたに言えばいいのに、妻である私がしっかり掴んでおかないから浮気をされるんだとまで言われ、散々な毎日を過ごしていた私のことなど、あなたは爪のあかほども考えてはいなかったでしょう?
一緒に住んでいないお義母さんが、どうしてあなたが家にいないと判るのかは・・・それは毎日のように我が家に来ていたからだったのよ。
私はそれが、狂ってしまいたくなるほど嫌だった。正直、狂っていたのかもしれないわ。
だから私、あなたの自尊心を壊してしまいたくなって・・・叔父にあなたのことを頼んだのよ。
『お二人にお子さんができないのは、奥さまが原因なのではなくて、むしろご主人のほうにあると検査結果から確認できました』
この台詞を言われた時のあなたの顔・・・今思い出してみても可笑しくて仕方ないのよ。
あなたは知らないかもしれないけれど・・・。というか私の父の兄弟があまりにも多すぎて説明しきれていなかったのかもしれないけれど・・・叔父は産婦人科医なの。
思い出したかしら?
告知を受けた日・・・夫婦そろって休日の日に診断を訊きに病院を訪れようと、あなたに言ったこと。それが意味していること・・・
もうそろそろ、勘の鋭くないあなたでも判ってきたかしら?
そう、そうなのよ。
あの日、どうして看護師がいない診察室で告知を受けなければならなかったのか・・・
どうして叔父の病院で検査をしなければならなかったのか・・・
それはすべて、あなたを騙すためです。
叔父には病院を訪れる前から、ずっとお願いしていたの。
そのためには家の内情を言わなければならなかったけれど・・・
でも、そんなこと・・・もうどうでも良かった。
あなたとお義母さんに少しでも仕返しをしたかった。
いつも私のことを要らないものでも見るかのような視線を持ったあなたのことも。
そして、私のことを子供もできない役立たずな嫁だと罵る義母のことも・・・。
みんな奈落の底に突き落としてやりたかった。
私が味わった屈辱を、医師である叔父に・・・私の事を可愛がってくれた叔父に、泣く泣く事情を説明して夫と別れる前に一泡吹かせてやりたいのだと懇願したのよ。
その願いを叔父は仕方なくきいてくれたわ。
今回、一度きりだという約束で・・・。
告知を受けるのは病院が休みの日にして欲しいと言われただけだったわ。
病院が休みであれば看護師もいないし、カルテにも残さなくていい。
入院患者用の看護師さん達はいたけれど、でも親戚の私が叔父の話を聞きに訪れていたとしても訝しむ者はいなかったでしょうね。
不妊治療の説明でも聞きにきたのだろうとでも思っていたのかもしれないわ。
実際は、嘘の診断をあなたへと突きつけていたというのにね。
嘘?何が嘘なのか・・・
この手紙では何が真実だったのか書いてあげる。
それはね、あなたに子供ができない原因があるのではなくて、私にあったということ・・・。
大丈夫だったのよ!あなたの身体は・・・普通の成人の男性が持つものを持っていたわ。
反対になかったのは私の方だったのよ。
でも、あの時の私はこれ以上二人に莫迦にされたくなかったの。
だから真実を隠した。叔父の嘘がベールとなり、真実を覆い隠してしまったのよ。
それを望んだのは私。
いつかはあなたに本当の事を言わなければならないと思っていたけれど。
なおさら家に寄り付かなくなったあなたに.真実を告げる価値があるのか判らなくなって、そのまま放置してしまっていたのよ。
別れてしまったら良かったのかもしれない。
そしたら誰も傷つかなくてもすんだのかもしれない。
そしてもっと早く高見さんに出会っていれば良かったと、どれだけ涙を流したか知れない。
その涙が流れた分だけ私の後悔は雨のように降り続き、あなたと恵子さんに対する憎しみは雪のように冷たく積もっていった。
私の寿命はあと何年と区切られているのに対し、私が死んだあともあなた達が幸せでいる現実に頭がついていかなかった時もあった。
でも私には切り札がある。
それをあなた達に届けるのは私が死んでからがいい。
もちろんその『切り札』とはこの手紙のことです。
私の本心と真実を書いた手紙をあなたに届けるのは今がいい。
あなたがすべてを失くしたあとがいい。
そう思って、ずっとあなたに隠してきた。
高見さんが傍にいなかったら壊れていた心も、なんとか保つことができた。
私が死ぬまでに、あの女に子供ができてしまっていたら、それで終わっていたのだけれど、そうでもなかったみたい。だから、この手紙をあなたが今読んでいる。
どう?当たっているでしょう?
そして今、恵子さんのお腹の中に赤ちゃんがいるでしょう?
彼女、ものすごく喜んだでしょう?
嬉しそうな顔をしてあなたを見つめたのではないかしら?
そして・・・そんな恵子さんを見てあなたは何を思ったのかしら?
自分が一番可愛いあなたは、妻になった恵子さんに言う事ができなかったんですものね。
「僕は子供が作れない体なんだ」って。きっと絶対そうだって踏んでたんですもの。間違いない筈だわ。これも、当たっているでしょう?
そしてあなたは恵子さんのことを疑ったはずだわ。
浮気をしてできた子供を僕の子供と偽って産もうとしているって・・・・
ねぇ、そうでしょ?当たってるでしょう?
逆上したあなたが恵子さんに何を言ったか想像ができるわ。
「堕ろせよ」とでも言ったかしら?それとも、もっとひどいことを言ったかしら?
今頃、恵子さんが家を飛び出していたりして・・・ううん。もしかしたら・・・
ごめんなさいね・・・でも、まぁ・・・散々私を苦しめた代償は高くついたという事よ。
あなたが本当に恵子さんの事を愛して大切にしたいと思っているのなら迎えに言った方がいいわ。そうね・・・迎えにいけるのならば、そうした方がいいわ。
そう、迎えにいったらそこからがあなたの人生。私はもういないのだし、あなたのことを愛してくれる恵子さんを今度こそ大切になさってね。それじゃ・・・・』
手紙はここで終わっていた。
長い手紙に眼が眩んでソファーの上に倒れ込みそうになってしまった。
あの郁子の僕を想っている素振りも、良妻過ぎて怖いと思っていた事も
すべてが嘘・・・。
郁子と惠子を対峙させたあの日。
郁子が「七年間耐えたあなたに・・・これから・・・」
そう言った後で何とも言えない微笑をつくったのは
この局面を想像していたからなのだと、愕然としてしまった。
今なら判る。
郁子の「これから・・・」の後に続く言葉が何であるのか。
それはきっと、「地獄の道が待っている」なのだろう。
郁子・・・。
あの日の告知も、そりゃ医者に言われたんだから信じるし、
まさかそこが盲点だなんて誰が思いつくんだよ。
そのことをずっと黙っていて、僕に対して痛恨の打撃を与えたということ。
郁子が企んだ計画は見事に当たっていた。
僕が惠子を疑ったということも、ひどいことを言ったということも・・・
何もかもが当たり過ぎていて逆に怖かった。
郁子は僕と伊達に夫婦をしていたわけではなかったのだ。
僕の性格も、行動力も何もかもを知りつくしていた。
だから、もしかしたら僕がどういう風な結末を迎えるのかも想像できていたのかもしれない。
僕はゆらりとソファーから立ち上がって、瞳から悔しさと悲しさと、
何もかもが入り混じった涙をいつの間にか流しながら二階への階段を上っていった。
「惠子・・・・」
後悔しても、もう遅い。
僕は部屋の床に広がっている羽根枕の羽を踏みながら進んでいく。
それは僕が歩んでいくたびに舞い上がるのだけれど、
その羽根には赤いものが付いている。
羽根だけではなくて・・・
壁にも天井にも・・・赤いものが飛んでいる。
そして眼の前のベッドの上には惠子が仰向けに倒れていた。
「惠子・・・・」
僕は何度も名前を口にするけれども恵子はピクリとも動こうとはしない。
なぜなら、恵子は・・・
郁子に罠に嵌められているとは知らずに逆上した僕が・・・
恵子は浮気をしているのだと疑った僕が・・・
台所にある包丁で恵子の首を掻き切ったのだから・・・
数時間前に恵子の命は消えてしまい、
お腹の中にいる子供とともに葬り去ってやったと・・・
狂ったように笑っていた僕に殺されてしまった。
もう戻りはしない・・・恵子の命。そして僕の子供の命。
亡くしてしまったのは僕・・・。
この手で奪ったものの尊さを僕は恵子の亡骸を前にして痛感する。
もう、戻りはしない・・もう、絶対に・・・
郁子・・・。
やっと今、君の考えている事がわかったよ。
君は、もうずっと前から僕に対して憎しみしか抱えていなかったんだね。
君があんなに優しかったのも、僕の浮気に寛大だったのも
そして僕と離婚しようと考えていると病室で口にしたのも、
僕が申し訳ないと思うだろうということを計算して言ったんだ。
確かに君は・・・自分が病気になる前は僕と離婚したかったんだろう。
でも、病気の告知を受けた時、僕への憎しみに生きる事を誓った。
そして、この最後を思い描いて僕と惠子を自分に繋ぎ止める事にしたんだ。
君は優しく、聡明な女性。
その考えを僕に植え付けて死んでいった。
だから・・・僕は惠子が許せなくなった。
君の愛情は見せかけだったのに、
本当の愛情をくれた惠子を疑い、郁子と天秤にかけ彼女を殺してしまった愚かな僕。
もう、どうしようもない。
呆然としている僕の耳に外の騒がしい音が届いた。
ビクッと身体を震わせ窓辺に立つと、家の前に二台のパトカーが横付けされている。
どうして?
僕はさっと身体を窓から引くと、部屋の隅に置いてある姿見に映った自分の姿に驚愕した。
血が・・・・ついていたのだ。
恵子を切りつけた返り血が、顔やシャツについていて赤黒く変色している。
飛び散った恵子の叫びがそのまま僕を染めていたのだ。
これはまぎれもなく恵子の血。
あの高見という医師は、こんな僕と話していたにもかかわらず平気な顔をして
ずっと、ずっと・・・あの世にいる郁子と共に笑っていたに違いない。
するすると全身の力が抜けていくのを感じて僕は座り込んでしまう。
僕はもうそこから一歩も動く事はできなくなってしまっていた。
郁子の勝ち逃げだ・・・・。
その言葉を繰り返し呟いて、踏み込んできた刑事達に身体を揺らされても
闇の中に心を閉じ込めてしまった僕は
もう何も声を発しようとはしなかった。
~完~