<secret letter・第10章 手紙>
『はじめまして。私、妻の郁子と申します。あなたがお付き合いなさっている九条和真は私の夫でございます。主人は独り者だと申しているかもしれませんが、一緒に戸籍の写しを入れておきましたので間違いないことなのだと受け止めてください。
妻が、愛人であるあなたに手紙など、何を書いているんだろうと、怪訝な顔をなさっているのは重々承知しております。
でも、あなたはこの手紙を読む義務があると思うのです。
なぜなら、あなたはこの八年間、私の主人の心を連れ去ったまま返してくれないのですから・・・。
この八年間、私にとって待ち続けた八年でした。あなたにとって幸せな毎日だったかもしれませんが、私にとっては死ぬよりも辛い日々だったのです。
主人を愛していたから、待つこともできましたが・・・ある日を境に私は待つことも許されなくなったのです。
忌まわしい日。それは子供ができないと宣告された日でした。
私達夫婦に子供はいません。それを宣告されたのは七年前でした。主人とあなたが浮気をしていたのが八年前から。私たちに子供でもできれば、主人は帰ってきてくれる。そう思っていたのに、その告知のせいで主人の中で何かが壊れてしまったようです。
子供が生まれないのなら、私と一緒にいる意味がないと思ったのかもしれません。
だから、主人はあなたに溺れていったのだと思います。いえ、あなたのことを本当に愛してしまったのかもしれませんね。最初は遊びだった関係が、いつしか抜けられない深みへと変わっていく。よくあることです。
子供の事は諦めました。だって、仕方ないでしょう?私が子供のできない体なのですから。
どう足掻いたところで、それは翻(ひるがえ)りません。
ですから・・・あなたにお願いがあるのです。
ここから書く事は主人に黙っていて欲しいのですが・・・
私は不治の病になってしまいました。これもどうしたって、どうにもなりません。
ですから・・・このまま主人の傍にいてあげて欲しいのです。
私の病気を主人が知ったとしても、決して別れることがありませんように・・・
お願いいたします。』
ここまでを読んで僕はわけがわからなかった。
どうして妻は惠子にこんな手紙を送ったのか・・・
僕の愛人が誰であるのか・・・そんな事は探偵でも雇えばすぐにわかることだが、
わざわざその愛人に手紙を送るなんて考えられなかった。
しかも、内容がどうにも変だった。
愛人を罵倒する言葉が綴られているのかと思いきや、
そんな事はまったくないのである。
しかも、子供のところのくだりは間違っている。
本当は、郁子に子供ができないのではなく、僕に問題がある筈なのに・・・
僕は医者に言われたのだから間違いはない。
どうして、そんな嘘を・・・?
僕は続きが読みたくなって、郁子の文字を目で追っていった。
『私は、不倫をする方々の気持ちが今までわかりませんでした。
人のものを奪う事になんの意味があるのか。
愛した人が、ただ人のものだっただけ・・・そんな言葉で自分を守る事に、どのぐらいの罪の重さがあるのか知りもしないで、愛情と色欲の区別もできないただの獣なのだと、そう軽蔑していたのです。ごめんなさいね。気に障ったのなら許してください。でも、そう思っていたのは事実ですから・・・。でも、あなたは知らなかっただけなのですよね。主人が実はすでに結婚していたことを・・・あなたも実は騙されていたことを・・・。あぁ、これも失言だったかもしれません。今のあなたなら騙されていたとしても主人のことを許す懐の大きい方だと存じ上げております。
だから、私が死んだあとも主人のことをお願いしたいのです。
このことを、この手紙で知ったあなたが、それでも主人のことを愛する自信があるのなら、私の病気を知った主人があなたに別れを切り出しても、別れないでいてやってください。
主人を引き留める時は・・・私を失うことに対してただ動揺しているだけなのだとでも言ってください。私が死んだ後、寂しくなってもいいのかとも言ってくれてもいいです。そうすれば、我にかえるかもしれません。あなたを失わないでおこうと思い留まるでしょう。
あぁ、でも一つ大切な事が・・・あなたが主人のことを愛してくれているのなら・・・ですよ。
どうですか?この真実を知っても主人のこと・・・愛していますか?その愛は・・・妻の私が一目置くほどの愛ですか?もしそうでないのなら、今すぐ主人と別れてください。
私の病気が進行し入院した時に一度あなたを病室の呼びたいと思います。もちろん、それはあなたの意志を確認するためです。生半可な想いを抱いている女に主人は渡したくはありません。主人のことを心の底から愛おしいと想ってくださる方にお渡ししたいと思っているのです。だって、私が愛した主人ですから・・・。
ですから、私がお呼びした時、あなたの気持ちが確かなものならばいらしていただきたいのです。それがあなたの答えなのだと、私も受け止めますので・・・
それでは長い文章でしたが・・・・・最後に一つだけ・・・
あなたが、主人の子供を産んでくださることを切に願っております。なぜなら、八年という歳月、主人を愛してくれたあなただから・・・私にできなかった主人の子供を主人に見せていただきたいのです。あなたが、主人のことを愛していてくださる証として残りますように・・・』
手紙はここで締めくくられていた。
読み終えた僕はこの手紙の奥に潜む郁子の、
妻としての声を聞いたような気がしたのである。
いや・・・女としての声なのかもしれない。
この手紙は妻から愛人の恵子に対する挑戦状のようなものなのだ。
この手紙を受け取り、妻の手紙を読むことを拒もうとする恵子がいたとして
最初に『読む義務がある』という言葉で繋ぎ止め、
次に、『八年間、私の主人の心を連れ去ったまま返してくれない』という言葉で
惠子の中に心苦しいという感情を埋め込んだのだ。
知らなかったこととはいえ、他人のものに手を出したという現実。
そして、そのことで八年間も苦しんだ女がいたということ。
自分の幸せの裏で泣いている女からの手紙を惠子が読まずに破り捨てるわけがなかった。
そして、恵子はどんどんこの手紙を読み進んでいったに違いない。
静かな文章。
初めは読んでいた僕はそう思ったのだが・・・
この手紙の中に妻の怒りがそこかしこに縫いとめられていることに気がついてしまったのだった。
『愛情と色欲の区別もできないただの獣』という言葉はまさに惠子を莫迦にしたような台詞だし、
『あなたも騙されていた』という言葉も、
騙されたあなたが一番莫迦なのよと・・・
そんな風な言葉が込められているように思えてならないのだった。
その言葉を失言だと訂正していても、『恵子の懐が大きい方だと存じて・・・』などと
どうして逢ってもいない女の性格まで判るというのだろうか?
推測で書いている手紙だとしても、郁子の文章はどこか癇に障る書き方だ。
『あなたを失わないでおこうと思い留まるでしょう』
この言葉も、どこか上から目線なのも気にかかる。
まるで僕がこの言葉を言われなかったら恵子と本当に別れていただろうと確信しているようだ。
確かに、僕は惠子と別れるつもりだった。
そうしなければ余命短い郁子に申し訳ないと思ったからだ。
でも、なんだ?この手紙は・・・
恵子に僕との別れに応じないように書かれている気もする。
『あなたが主人のことを愛してくれているのなら・・・』
『この真実を知っても主人のこと・・・愛してますか?』
『その愛は妻の私が一目置くほどの愛ですか?』
『もし、そうでないのなら、今すぐ主人と別れてください』
別れようと思っているんでしょう?でもそれだとあなたの負けになるのだわ。
見えない文章が見えた気がした。
繋げてあった言葉を一つずつに区切るとよくわかる。
この文章は恵子に対して暗示のようなものだったのではないか・・・
恵子の中にある僕を独占したいと思う気持ち、
そして妻よりも上に立ちたいと思う気持ちを駆り立てたにすぎないのではないだろうか。
私が愛している以上の愛でないのならば・・・あなたに主人は渡せない。
それは表向きの言葉であって、
この手紙の裏は、最初から僕と惠子を別れさせないようにしたかっただけではないのか・・・。
郁子・・・?
なんだろう・・・違和感がある。
そう・・・一番おかしい点は・・・妻の郁子が本当に僕の事を愛していたのなら
愛人に対して最初に言うべき言葉は・・・
『お願いですから、主人と別れてください』ではないのだろうか・・・。
命が短く、愛する夫と過ごしたいのだと懇願するのが筋ではないのだろうか。
妻と愛人が夫を共有すること自体、どうして僕はおかしいと思わなかったのだろう。
郁子・・・君は何を考えていたんだ?
僕のことを想って、君を失った僕を哀れに想って惠子を繋ぎ止めたわけじゃないのか?
なら・・・恵子を僕の妻に押した真の目的はなんだったのか・・・
君は・・・いったい・・・
僕は仏壇を前にして呆然としてしまっていた。
この手紙を読むまでは変に思わなかった郁子のことを
恐ろしいものでも見るような眼で捉えていた。
その時、玄関のチャイムが部屋の中に響き渡った。
僕は全身で驚いてビクッと身体を震わすと、
まだ開けてもいない扉の向こう側を凝視していた。
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第11章・愛人へつづく
『はじめまして。私、妻の郁子と申します。あなたがお付き合いなさっている九条和真は私の夫でございます。主人は独り者だと申しているかもしれませんが、一緒に戸籍の写しを入れておきましたので間違いないことなのだと受け止めてください。
妻が、愛人であるあなたに手紙など、何を書いているんだろうと、怪訝な顔をなさっているのは重々承知しております。
でも、あなたはこの手紙を読む義務があると思うのです。
なぜなら、あなたはこの八年間、私の主人の心を連れ去ったまま返してくれないのですから・・・。
この八年間、私にとって待ち続けた八年でした。あなたにとって幸せな毎日だったかもしれませんが、私にとっては死ぬよりも辛い日々だったのです。
主人を愛していたから、待つこともできましたが・・・ある日を境に私は待つことも許されなくなったのです。
忌まわしい日。それは子供ができないと宣告された日でした。
私達夫婦に子供はいません。それを宣告されたのは七年前でした。主人とあなたが浮気をしていたのが八年前から。私たちに子供でもできれば、主人は帰ってきてくれる。そう思っていたのに、その告知のせいで主人の中で何かが壊れてしまったようです。
子供が生まれないのなら、私と一緒にいる意味がないと思ったのかもしれません。
だから、主人はあなたに溺れていったのだと思います。いえ、あなたのことを本当に愛してしまったのかもしれませんね。最初は遊びだった関係が、いつしか抜けられない深みへと変わっていく。よくあることです。
子供の事は諦めました。だって、仕方ないでしょう?私が子供のできない体なのですから。
どう足掻いたところで、それは翻(ひるがえ)りません。
ですから・・・あなたにお願いがあるのです。
ここから書く事は主人に黙っていて欲しいのですが・・・
私は不治の病になってしまいました。これもどうしたって、どうにもなりません。
ですから・・・このまま主人の傍にいてあげて欲しいのです。
私の病気を主人が知ったとしても、決して別れることがありませんように・・・
お願いいたします。』
ここまでを読んで僕はわけがわからなかった。
どうして妻は惠子にこんな手紙を送ったのか・・・
僕の愛人が誰であるのか・・・そんな事は探偵でも雇えばすぐにわかることだが、
わざわざその愛人に手紙を送るなんて考えられなかった。
しかも、内容がどうにも変だった。
愛人を罵倒する言葉が綴られているのかと思いきや、
そんな事はまったくないのである。
しかも、子供のところのくだりは間違っている。
本当は、郁子に子供ができないのではなく、僕に問題がある筈なのに・・・
僕は医者に言われたのだから間違いはない。
どうして、そんな嘘を・・・?
僕は続きが読みたくなって、郁子の文字を目で追っていった。
『私は、不倫をする方々の気持ちが今までわかりませんでした。
人のものを奪う事になんの意味があるのか。
愛した人が、ただ人のものだっただけ・・・そんな言葉で自分を守る事に、どのぐらいの罪の重さがあるのか知りもしないで、愛情と色欲の区別もできないただの獣なのだと、そう軽蔑していたのです。ごめんなさいね。気に障ったのなら許してください。でも、そう思っていたのは事実ですから・・・。でも、あなたは知らなかっただけなのですよね。主人が実はすでに結婚していたことを・・・あなたも実は騙されていたことを・・・。あぁ、これも失言だったかもしれません。今のあなたなら騙されていたとしても主人のことを許す懐の大きい方だと存じ上げております。
だから、私が死んだあとも主人のことをお願いしたいのです。
このことを、この手紙で知ったあなたが、それでも主人のことを愛する自信があるのなら、私の病気を知った主人があなたに別れを切り出しても、別れないでいてやってください。
主人を引き留める時は・・・私を失うことに対してただ動揺しているだけなのだとでも言ってください。私が死んだ後、寂しくなってもいいのかとも言ってくれてもいいです。そうすれば、我にかえるかもしれません。あなたを失わないでおこうと思い留まるでしょう。
あぁ、でも一つ大切な事が・・・あなたが主人のことを愛してくれているのなら・・・ですよ。
どうですか?この真実を知っても主人のこと・・・愛していますか?その愛は・・・妻の私が一目置くほどの愛ですか?もしそうでないのなら、今すぐ主人と別れてください。
私の病気が進行し入院した時に一度あなたを病室の呼びたいと思います。もちろん、それはあなたの意志を確認するためです。生半可な想いを抱いている女に主人は渡したくはありません。主人のことを心の底から愛おしいと想ってくださる方にお渡ししたいと思っているのです。だって、私が愛した主人ですから・・・。
ですから、私がお呼びした時、あなたの気持ちが確かなものならばいらしていただきたいのです。それがあなたの答えなのだと、私も受け止めますので・・・
それでは長い文章でしたが・・・・・最後に一つだけ・・・
あなたが、主人の子供を産んでくださることを切に願っております。なぜなら、八年という歳月、主人を愛してくれたあなただから・・・私にできなかった主人の子供を主人に見せていただきたいのです。あなたが、主人のことを愛していてくださる証として残りますように・・・』
手紙はここで締めくくられていた。
読み終えた僕はこの手紙の奥に潜む郁子の、
妻としての声を聞いたような気がしたのである。
いや・・・女としての声なのかもしれない。
この手紙は妻から愛人の恵子に対する挑戦状のようなものなのだ。
この手紙を受け取り、妻の手紙を読むことを拒もうとする恵子がいたとして
最初に『読む義務がある』という言葉で繋ぎ止め、
次に、『八年間、私の主人の心を連れ去ったまま返してくれない』という言葉で
惠子の中に心苦しいという感情を埋め込んだのだ。
知らなかったこととはいえ、他人のものに手を出したという現実。
そして、そのことで八年間も苦しんだ女がいたということ。
自分の幸せの裏で泣いている女からの手紙を惠子が読まずに破り捨てるわけがなかった。
そして、恵子はどんどんこの手紙を読み進んでいったに違いない。
静かな文章。
初めは読んでいた僕はそう思ったのだが・・・
この手紙の中に妻の怒りがそこかしこに縫いとめられていることに気がついてしまったのだった。
『愛情と色欲の区別もできないただの獣』という言葉はまさに惠子を莫迦にしたような台詞だし、
『あなたも騙されていた』という言葉も、
騙されたあなたが一番莫迦なのよと・・・
そんな風な言葉が込められているように思えてならないのだった。
その言葉を失言だと訂正していても、『恵子の懐が大きい方だと存じて・・・』などと
どうして逢ってもいない女の性格まで判るというのだろうか?
推測で書いている手紙だとしても、郁子の文章はどこか癇に障る書き方だ。
『あなたを失わないでおこうと思い留まるでしょう』
この言葉も、どこか上から目線なのも気にかかる。
まるで僕がこの言葉を言われなかったら恵子と本当に別れていただろうと確信しているようだ。
確かに、僕は惠子と別れるつもりだった。
そうしなければ余命短い郁子に申し訳ないと思ったからだ。
でも、なんだ?この手紙は・・・
恵子に僕との別れに応じないように書かれている気もする。
『あなたが主人のことを愛してくれているのなら・・・』
『この真実を知っても主人のこと・・・愛してますか?』
『その愛は妻の私が一目置くほどの愛ですか?』
『もし、そうでないのなら、今すぐ主人と別れてください』
別れようと思っているんでしょう?でもそれだとあなたの負けになるのだわ。
見えない文章が見えた気がした。
繋げてあった言葉を一つずつに区切るとよくわかる。
この文章は恵子に対して暗示のようなものだったのではないか・・・
恵子の中にある僕を独占したいと思う気持ち、
そして妻よりも上に立ちたいと思う気持ちを駆り立てたにすぎないのではないだろうか。
私が愛している以上の愛でないのならば・・・あなたに主人は渡せない。
それは表向きの言葉であって、
この手紙の裏は、最初から僕と惠子を別れさせないようにしたかっただけではないのか・・・。
郁子・・・?
なんだろう・・・違和感がある。
そう・・・一番おかしい点は・・・妻の郁子が本当に僕の事を愛していたのなら
愛人に対して最初に言うべき言葉は・・・
『お願いですから、主人と別れてください』ではないのだろうか・・・。
命が短く、愛する夫と過ごしたいのだと懇願するのが筋ではないのだろうか。
妻と愛人が夫を共有すること自体、どうして僕はおかしいと思わなかったのだろう。
郁子・・・君は何を考えていたんだ?
僕のことを想って、君を失った僕を哀れに想って惠子を繋ぎ止めたわけじゃないのか?
なら・・・恵子を僕の妻に押した真の目的はなんだったのか・・・
君は・・・いったい・・・
僕は仏壇を前にして呆然としてしまっていた。
この手紙を読むまでは変に思わなかった郁子のことを
恐ろしいものでも見るような眼で捉えていた。
その時、玄関のチャイムが部屋の中に響き渡った。
僕は全身で驚いてビクッと身体を震わすと、
まだ開けてもいない扉の向こう側を凝視していた。
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第11章・愛人へつづく