<secret letter・第4章 虚実>

そう、僕の気持ちはまだ、妻の元にあった。

妻から逃げて愛人をつくっても、

その愛人と生活をしていても、

頭の片隅にはいつも妻の姿があった。

残してきた妻の影を引きずり、

愛人にはその影を悟られないようにした。

告知を受けてからの方が、愛人と逢う回数は増えていったかもしれない。

最初の三年間は妻に気がつかれないようにコソコソと逢瀬を重ね、

その隠れて逢うという行動が「愛人への愛」を錯覚させたのかもしれない。

情事の甘美な蜜に溺れて、

その刹那にただ堕ちていっただけなのに、

愛人を愛していると認識してしまっていたのだと思う。

だが、もうそこからは泥沼のようになっていった。

妻にあやしまれ、発覚してしまったのである。

だが、そんな夫に妻は動じる様子もなく、

ただ寡黙に僕を待ち続けたのだ。

それからの四年間は生活の殆どを愛人と共に過ごした。

待っている妻を背中に感じ、生活の拠点を愛人の家にした。

そう、僕は・・・

妻の事を想っているのに、その反対のことをしでかしてしまったのだ。

誰が聞いても「何をしているんだ!」と一喝されてしまうだろう。

きっと、妻に顔が似ていれば愛人は誰でも良かったのかもしれない。

冷静に考えれば自ずと答えは出ていたというのに・・・

僕は・・・なんてことをしてしまったのだろう。

そう後悔しても遅いというのに・・・

妻はもうあと半年しか生きられないというのに・・・

贖罪の時間はあまりにも短すぎる。

そう思っているのに、僕はまだ愛人と別れられないでいた・・・。

あの時、愛人に電話を入れて呼び出し、別れを言ったのに・・・

愛人が「それは狡い」と声を枯らして泣いたのだ。

「あなたは、奥さんを半年後に亡くしてしまう事で動揺しているのよ。その動揺を愛だと勘違いしているんだわ」

愛人は泣きながら僕にこうも言った。

「奥さんが亡くなったあとは?独りで生きていくの?寂しがり屋のあなたがそんなことできるわけがないじゃない。だったら私がいた方が・・・絶対にいいに決まってる」

妻が亡くなったあと・・・・・?

いつかは必ずくる別れの時。

それは考えなければならないことなのに、

僕は妻の病状を聞いても、それには一切自分の中で触れていなかった事に気がついた。

妻を亡くしてしまう事が目の前に迫っているというのに、

どこか自分とは無縁のことのように感じていたのだ。

悲しみに押し潰されそうになるのが怖かった。

そして何より、妻のことを愛している自分がいて、

妻を永遠に失う悲しみに酔うのが怖かったのである。

現実のことなのに、現実だと捉える事ができない、

そんな自分の未熟さに今、愛人からの言葉で思い知らされたのだ。

振り向きざまに見せた僕の涙は彼女の心を揺さぶり、

僕の手を振りほどかずに、握り締めさせてしまったのである。

そして、僕もいつかはいなくなる妻の幻影を彼女に押し込めるために

彼女の器を必要としたのだ。

愛人は僕を必要とし、そして僕も彼女を必要としたのだろう。

だから、僕達はまだ繋がっている。

愛人という契約は切れてはいない。

僕の優しさの裏に愛人の影があることを妻は知らないのだ。

なぜなら、妻には「もう彼女とは別れた」と言ってあるのだから・・・。

「これから君と一緒に・・・・」

そう嘘をついた。

だが、やはりその嘘を妻が見抜いてしまっていた。

「やっぱり、まだ続いていたのね・・・」

僕が病室から出て階段から携帯を掛けていたのを、

やっとこの頃、歩けるまでに回復してきた妻が後ろから見ていたのである。

急いで振り返った僕に妻は、やはりこの時も微笑んだのだ。

蒼い炎が妻の身体から出ていたような、そんな幻影を見た気がしたが

でも、それでも妻の顔からは微笑は消えなかった。

怒るどころか、妻はまるで友達を誘うかのように

「今度、その方を連れてきてくださらない?」

そう僕に言ったのである。

階段の踊り場から見た妻の背中。

日中だというのに階段は陽が差さないから、とても暗く寂しい場所だった。

その場所を更に暗い空間にしてしまったのが

妻の背中である。

寿命が刻まれた背中には、人生の終息に向かう覚悟と

現世に置いていく者への哀愁が込められている。

その背中を持って妻は「愛人と繋がっている僕」を許しているのだった。

でもやはり聞き間違いかと思ったである。

「え?」

階段の向こう側に消えていく妻に僕は訊き返したが、妻は振り返ろうとはしない。

そのままその話を病室に連れて行こうとしているのだった。

妻より遅れて病室に静かに入った僕に、もう一度妻は・・・

「その人・・・連れてきてくださいね。一度逢ってみたいの・・・お願いね」

そう言うと、妻はそれから一言も話をしようとはしなかったのである。

そりゃ、そうだろう。

子供ができないと判ったら愛人と逢う回数を増やし、

あろうことか愛人と生活までも一緒にしてしまっている愚か者の顔を

誰がずっと見ていたいと思うだろうか。

妻が病気になったら『別れるから』と嘘を言い、

未だにその愛人と切れようとはしない夫の言葉など、聞いていたい者がいるわけがない。

もし、自分が同じ立場に立たされたとしたらどうだろう?

妻に男がいたとしたら?

妻の心も体もすべてを愛し、慈しむ相手がいたとしたら?

もし、そんな相手がいるというのなら、

勝手な話だが・・・絶対に許せるものではないし、

相手のことを殺しても殺し足りない程に憎んでしまうことだろう。

僕がそう思ってしまうということは・・・

妻も僕の愛人に対してそう思っても仕方のないことだということ。

そんな愛人に、妻は逢ってみたいと緩い微笑を見せる。

その微妙な笑みが薄気味悪くて、

やはり妻はどこかで、僕と愛人を殺したがっていて、

この白い部屋で一緒に死のうと思っているんじゃないかと

僕はそう思えてならなかった。

この四角い部屋の中に一歩踏み込んでしまったら

そこからどこにも逃げる事は許されていなくて

命までも絡めとってしまうのではないかという不安感が僕を支配していった。

妻は愛人をどうするつもりなのだろう?

話をするだけで本当に終わるのだろうか?

それなら、何を話すというのだろうか?

この八年間のことを?ずっと抱えていた憎しみを?

僕にぶちまけるのではなく愛人へとそそぎ込むのだろうか?

愛人は僕に妻がいたことなど知らなかったというのに・・・

そして妻にもそのことを話せないでいる僕がいる事も・・・

そんな中で僕は妻と愛人を引き合さなければならないのだろうか?

妻の背中から言いようのない想いを受け取った僕は

ただ立ち尽くすしかなかった。
***********
第5章・疑惑へつづく