<secret letter・第1章 迷妄>

あなたを好きになってはいけませんか。

そう口にされた時から時間は止まり

別にかまわないよ、と告げた時から

時間が逆流しているようなそんな錯覚を感じていた。

本当は・・・秒針は進み、時を刻んでいるのに

どうしてそんな考えが浮かんでしまったのか判らなかった。

いま思えば君が僕に向けた愛が何から始まったのか判らない。

愛情だったのか、同情からだったのか、

純粋に僕の事を想ってくれているものからなのか・・・

あの時の僕にはそれを計ることは事ができなかった。

でも、もともと人の感情を秤にかけることなどできはしない。

なぜなら、示された感情が真実のものかどうかは

その人にしか判らないものだから。

僕の置かれた立場と君が望んだ僕からの愛。

僕が君へと逃げたことも、

本当は僕の愛がまだ妻にあるのだということも

二人の女は判っていて、

交わされた密約があったことも

あの時の僕には知ることはできなかったのだから。

ついさっき、妻の遺書が見つかった。

正式には僕の愛人へと送られた手紙のことだが・・・。

それは妻の仏壇に隠されていたもので、

僕が近寄り、仏壇の引き出しに手を伸ばさなければ、

一生見る事はなかった筈のものだった。

その手紙が、いま僕の手の中にある。

僕の妻は重い病を患っていて、医者から長くはないと宣告されていた。

その闘病生活の中で記された妻の声がこの手紙の中にあるとしたら・・・

僕は怖くて中を見る事が出来なかった。

それまでの僕は妻のことを蔑(ないがし)ろにし、

他の女性へと心を勝手に移して、家の事もなにもかもを妻に任せきりにしていた。

子供ができていたら違っていたのかもしれないが・・・

それを口にしてしまえばお互いを傷つけあってしまうのは判り切っていたことだし、

結婚して十年も経てば、もう子供の事については諦めもついていた。

違うな・・・。寂しさがあったのは事実。

他の家庭にあるものを僕は欲しがり、

無言の非難を妻に浴びせていたのかもしれない。

僕が・・・他の女に走ることは仕方のないことなのだと・・・

無理矢理、彼女に納得させていたのかもしれない。

そんな・・・男としてどうしようもない奴を妻はいつまでも必要としていてくれていた。

浮気をしても、それは浮気なのだから・・・

そんな表情をして、

「本気じゃないのなら」

別にかまわないから・・・と寂しい背中を僕に見せながら

いつも僕の帰りを布団の中で待っていた。

何か言いたい事があるのなら、声にだして言ってくれればいいのに

その方がどれだけ僕を楽にしてくれるかしれないのに・・・。

だが、決して妻は僕を非難したりはしなかった。

仕方ないのだから・・・

そういう男を好きになった自分が悪いのだから・・・

何もかも夫である僕を繋ぎとめられない自分が悪いのだから・・・

そう背中が語っていた。

そんな妻を大事にしなければならなかったのに、

僕は、「辛気臭い顔は見たくない」と捨て台詞を吐いて

何日も家に帰らなかったこともあった。

外につくった女には「もう少しで一緒になれるから・・・」

そう甘い言葉を吐いていて、嘘ばかりで固めていた。

嘘。

そう、僕は彼女の立場が「愛人」だということを言ってはいない。

そんな関係だなんてバレたら彼女はきっと僕に三行半(みくだりはん)をつきつけて

いなくなっていたことだろう。

『大丈夫だよ。仕事は順調で来年には一緒になれるから・・・』
『何?そんなに結婚に焦ってないだろう?待ってくれよ。ちゃんと親にも紹介するから』
『わかってるよ・・・愛してるから・・・』

毎日のように逢い、毎日のように繰り返されるようになっていった女からの結婚の話。

ここまでか・・・

逆に僕の方が彼女に嫌気がさしてきていた。

妻だったら、こんなに口うるさくない。

妻だったら、じっと我慢して待っている筈だ。

妻だったら・・・・

僕の感情は都合のいい時は妻へと戻っていた。

狡い男なのだと思う。

でも、そんな僕を妻は待っていてくれる。

いつものことだった。

そして、あの日もいつものように、長い間家を開けていたというのに

平気な顔をして妻が待つ家へと帰ったのである。

「郁子?いなのか?」

玄関を鍵であけて家の中に入っていくと、暗い廊下が長いトンネルのように感じられた。

そんなことあるわけがないのに、

実際は短い廊下だというのに、僕は疲れているのだろうか・・・

頭を小刻みに左右に振ってみて焦点を合わせる。

と、そこには長い間見ていない廊下が居間へと続いていた。

やはり、疲れているのだ。

二重の生活にも、そしてあんなに愛した愛人を宥めるのも・・・

だから僕はこの家に帰ってきた。

妻の待つ・・・郁子が待つ家に・・・。

1階のリビングから出て、階段を上って寝室へ・・・

そこにはいつものように妻が寝ている筈だった。

ベッドに横たわり、布団を被って向こう側を見ている。

「郁子?寝てるのか?」

そっとドアを開け、優しい声音で僕は妻へと声を掛けてみる。

しかし、返答はなかった。

ドアのノブを握りながら恐る恐る中にいる妻の気配を廊下から確かめてみる。

すると、部屋にいる筈の妻の寝息が聞こえてこないのだ。

静かに往復する妻の寝息。それがなかった。

僕は急いで寝室に入り、妻が寝ている筈のベッドを凝視する。

しかし、いつもそこで待っている筈の妻の姿がそこにはなかった。

僕は愕然とし、思わず身震いをしてしまう。

必ずそこにいるのだと確信していたものが、いないという現実。

そのことに頭がついていけなかった。

そんな時だった・・・・。

携帯に知らない番号から着信があったのだ。

その番号はこの頃よく掛かってくる番号だった。

いつもなら登録のない番号にはでないのに、

この時は胸騒ぎとでもいおうか・・・

ザワザワと心の中で群衆が騒いでいるようないやらしさを感じたのである。

なんだ。この嫌な感じは・・・

その捨て切れない不安感を払拭したくて電話にでてみると、

『すみません。○○中央病院ですが、ご主人ですか?』

という、若そうな看護師からの黒い内容の電話だった。

『奥さんが救急車で搬送されてきて・・・いいですか?今すぐに病院に来てください』

そう言われて僕は急いで病院に向かったのである。
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第二章・懺悔へつづく