<恋慕・7>

「私の名前と印鑑は押してある。あとは君が書いて判をして、そして提出するだけだ」

実家に帰っていた私を呼び出したのは、1週間前に家に置いてきた主人だった。

そうあれから、もう1週間が過ぎてしまっている。

時の経つのを早く感じるのは若くはない証拠なのかもしれない。

そう心の中で苦笑して、自分の歳が幾つなのかを思い出そうとしていた。

35歳

すぐに思い出せることに少し安堵して、

私は呼び出された喫茶店に入り主人の前の席に着くと

おもむろに主人は白い封筒の中からその用紙を取り出して、

私の前へと置いたのだった。

そして、先刻の台詞を告げると私の顔をジッと見つめてきたである。

そのじっとりとした視線は、私の本心を探ろうとしているのか、

それとも私の心が何処に向いているのかをつきとめようとしているのか

どちらとも言えるような粘りさを含んで真っ直ぐに向けられているのだった。

戸惑う素振りを見せてはいけない。

その視線を浴びても自分は何もやましいことはしていないという

毅然とした態度を身に纏わなければならない。

私の前に置かれた離婚届を、

まるで私は自分にはまったく関係がないもののように見てしまい、

目の前の主人の瞳の色が何を意味しているのかさえも

さっぱり思いつくことができなかったのです。

「なに・・・・?」

その視線の強さに少し身じろぎして私が漏らした声を、

主人がどう受け取ったのかわからないけれど、

とにかく何を訊かれても今は本当のことは言うまいと心に決めて主人を見返していました。

これから主人が口にする言葉が、もし・・・

もし、私が望んでいる言葉じゃなかったとしても、

決して傷つくことがないようにするために・・・

「いや・・・君とこうして喫茶店に入るのも久しぶりで・・・それなのに、これが最後になるのかと思うと、なんだか自分がどれだけ今まで君をほったらかしにしていたのかを痛感してしまったんだ」

「・・・・・・」

「私は、毎日君がしてくれる洗濯や掃除、食事の支度、子供の世話、それらを当り前のようにして過ごしてきた。私には仕事があるし、それが私と君の人生の役割なのだろうと勝手に思い込んでいた。君がいなくなって、君が私にしてくれていたことの大きさを実感したんだよ。結婚して毎日に流されて、何もかも考えようとしなかった男に君がいつまでもついてきてくれるわけがないってことにね・・・・今さら気がついても遅いんだけど」

ここで大きく主人は大きく息を吐き出して自嘲した笑みを浮かべると、

溜めていたものを一緒に出すかのように一気に主人は話し始めたのだった。

「結婚してからは君との生活を維持するために一生懸命、仕事に打ち込んできた。私は私と私の居場所を守るのが勤めだと思っていたんだ。だが、それが君との結婚生活を満喫できない要因にもなっていったよね。毎日残業ばかりで休みの日も仕事の電話を長い時間したり、接待をしたり。私がもし君の立場だったら寂しくて仕方がないことを、日曜日独りでいることによってやっとわかったんだ。子供が生まれると尚更二人の時間を持つことが難しくなっていって、今度は逆に君は子供のことを優先に考えるようになっていった。あっ、それは当り前のことなんだ。誤解しないでほしい、それを責めているわけじゃないんだ。そう・・・独りでいて、見えていないものが見えるようになっていった。離婚を言い渡されるまで考えもしなかったことを考えるようになって、結婚した意味が見えなくなった君の気持ちが大きな波のように押し寄せてきたんだよ。私は、この一週間考えた。結論は出ているんだと・・・君の中でもう既に結論は出てしまっているのだと・・・それを覆すということは、この8年間の私が君に与えてきた無関心という罪のせいで、できないのだということ。だから、離婚届にサインをした。君に私とやり直す意思がないのに、続けても仕方のないことなのだとわかってしまったから・・・でも、子供にはこれから先も逢わせてくれないか?たぶん、きっとたった一人の息子になるだろうから・・・」

そこまでを言い終えると主人は席を静かに立って私の横に立つと、

「すまない・・・こんなことになってしまって・・・まぁ、すぐには無理かもしれないけれど、君は素敵な人だから、私とは真逆の男を・・・・・」

そこまでを言うと主人はその先は言えないというかのように首を横に振って

大きく深呼吸すると、苦しそうに顔を歪めながら、

「君には幸せになってほしいんだ」

と私の瞳を慈しむように見つめて、言葉を絞り出していった。

「・・・・・・・」

「じゃぁっ、離婚届は君が出しておいてくれるかな?・・・できれば出した日にメールをくれるとありがたいんだけど・・・・」

「・・・・・・・」

無言のままの別れだった。

私からは何も言わず、そして主人もその先は何も言わずに店を出て行ってしまった。

何も言えなかったのは・・・結論がでてしまったということ・・・

私が線引きをしてここまで辿りつかせて、

そして・・・やっぱり傷ついてしまっている私がいるということ・・・

主人がいなくなって、目の前を見るとさっきまでいた輪郭がないことに少し動揺している私がいた。

私の頬を伝う涙が何を意味しているのかを自らに問いかけ、

そして孤独という闇に苦しむ・・・・

恋慕い、恋慕われ、それが愛に変わり、

その愛が・・・風のように消えてしまう瞬間。

それを私は望んでいたのだろうか・・・・?

私が導きだしたかったものが何なのか、それは主人にはわからない。

心を偽ったためにできた傷の大きさに、

ただ呆然と座っているまましかできない私がいるということも主人は知らない。