<姉妹・8 傀儡>
涼香を亡くしたあの日の事で、
今でも憶えているのは若くして死んでしまった彼女の死顔が、
身を投げたにもかかわらず傷がなかったことだろうか。
俺は棺桶に近寄ることがはじめは怖かったのだが、
でも、彼女の死を見届けなければ、
いつまでも涼香の幻影が俺の中を侵食して壊していくような気がしたのである。
だが、あの綺麗な死顔を目の当たりにした時、
それが既に遅い事だと気がついたのだった。
彼女の死を認めたくない気持ち。
そして、どれだけ自分が彼女の事を想っていたか、
そう・・・既に彼女の死が俺自身を飲み込み、
深い悲しみの淵へと追いやっていたのである。
彼女の死がどんな意味を持っているかなど、
考えても考えつかなくて、
まさか、自分に原因があってあんな事になっていたなど
想像もつかなくて、ただ項垂れ泣き崩れていた。
数日経って日記を見つけ二人を殺す事を決意し、
篠塚亜希子は十年後に、そして田宮由里はそのまた五年後に
殺すことに成功したのだった。
田宮由里は・・・・俺が亜希子を殺した張本人だとは思っていなかったらしい。
それは当然で田宮由里に近づけたのは、ほんの少しの偶然があって
その偶然を利用しつつ俺が偽名を使ったからだった。
でなかったら今頃、きっと警戒されて近づく事もできなかったことだろう。
偽名だけでなく年齢も偽り、住んでいる場所も、職業も、
本当の顔なんか何一つ見せずに逢っていた。
昼の顔と夜の顔を使い分けるようにして、
日々ずれた生活を続けていた。
一人目はもう殺していたから、あと一人だけという安心感があったのだろう。
いつ殺しても構わなかったのだが、
由里の命を握っている優越感に浸りたかったのかもしれなかった。
そんな長い間、由里と偽りの恋人を演じていた頃、
由里の方から「ご両親にお会いしたいわ」そう言ってきたのである。
その一言が、まるで合図であったかのように俺は頷き、
由里を自宅に連れて行くフリをしたのだ。
もちろん、本物の自宅に連れて行く筈がなかった。
この女には亜希子よりも命を永らえた代わりと言っては変だが、
より残酷な姿をさらけ出して死んでもらいたかったのである。
「私の両親もあなたにお会いしたいって・・・」
そう顔を赤らめて、自分達の未来を描いている由里を見ていても
決心は変わらなかった。
きっと、涼香もそんな嬉しそうな顔をしたかっただろう。
きっと、そんな風に心躍る気持ちを隠さないで俺の前にいたかったかもしれない。
そう思う事の方が強くて、
より一層俺は目の前の由里を偽善の仮面の奥で憎み切っていた。
その仮面が剥がれたのが、あの駅のホームである。
『ちょっと、ジュースを買ってくるから先に行ってて・・・・』
階段を登った先にあるホームを指さして俺がそう言うと、
由里は頷いて階段を登って行った。
何も疑わず、そのままホームへと登って行く由里。
そして遅れて由里の背後にピタッと張り付く俺。
もちろん、その頃には別人になっていた。
着用していたジャンパーを脱ぎ、なるべく目立たない格好へと姿を変える。
伊達眼鏡をかけ、髪形も即席で変えた。
でも、そんな画策を冷静にしつつも俺は心の中であの時、
駅員に見つかる覚悟をしていたのである。
そして、由里を電車へと突き押したのだった。
迫りくる電車、人々の悲鳴。そして軋む電車の金切り音。
そして・・・・由里の赤い血。
俺は由里を電車に突き落とす前にしておかねばならないことがあった。
それはもちろん。
俺の素性を明かすこと。
俺に背中を向けている由里の後ろに吸いつくように姿を現し、
俺は小声で「お待たせ・・・・」と彼女へ耳打ちしたのである。
クスクス笑う由里の耳に続けて、
「ひとつ、君に謝らなければならない事があるんだ・・・」
そして少し間を開けて・・・・
もちろん、この「間」は電車が滑り込んでくるのを見計らっての、
「間」だったのだけれども・・・
「もう二度と君には逢えないんだ。だって、俺は君たちが殺した涼香のために復讐をしたかっただけなのだから」
そう冷やかに告げていた。
急いで振り返ろうとする由里。
そのため由里の体勢はぐらつき、彼女の足もとが危うくなった。
そこを見逃さない俺は、すかさず由里の背中を一突きして
電車に殺されるという無残な死に方を由里にさせたのである。
そのまま、逃げ切れるか・・・そんなことできるわけがない。
そう思いつつも、改札口を出て、普通にきた道を戻っていった。
信じられない話だが、この時も俺はまんまと駅から逃げる事ができたのである。
やっと、すべてが終わった。やっと、あいつらを殺した。
晴々という文字が一番似合っている空の色と同じように
俺の心にも黒い雲一つなかったのである。
やっとこれで、涼香の元にいける。
長かった、この十五年。
事件に時効というのがあったとしても、
その時効が過ぎてしまったら人を裁けないのだとするなら
時効なんて作らない方がいいのではないか・・・。
犯罪者になって初めて判ることだけれど、
罪を犯した者が十五年間苦しみ悔やみ、捕まる事に怯えて
日陰の生活を送ってきたのだから充分だろう、
そういう意味を込めて時効があるのだとするなら
それは、大きな間違いだということ。
苦しみ悔やむくらいなら、ちゃんと罪を認めて塀の向こう側に行くべきなのだ。
ただ、それをせず、逃げ続けている者に対して温情などあってはならないと
俺は強く思っている。
もちろん俺はここから先、十五年も逃げ続けようとは思っていない。
時効なんて望んでもない。
俺は俺のやり方でこの事件に終止符を打ちたいのだ。
二人の命を奪った男に情状酌量など有り得ないし、
最初から罪を認めるということは心情としてできないからだった。
俺が殺しました。俺がすべて悪いのです。
確かにそうだろう。
だが、それを認めてしまったら、彼女たちを殺した意味がないのだ。
それができないから、鬼になって二人を殺したのだから・・・。
間違っている。
きっと、すべての人達が俺のしでかしたことに、こう言うのだろう。
でも、俺はたとえ二人の家族に恨まれていくのだとしても、
この道しかなかったのだと、
この選択しか残されていなかったのだと、
言うかもしれない。
あの容疑者二人がこの先幸せに笑って生きていくことが、許せなかったのだから。
あいつらは涼香の笑顔も、恥じらう顔も、細い身体も、
優しい心も、甘い声も、そして俺の心を奪った二つの瞳も、
すべてを奪ったのだ。
初めから、きっと
たぶん、彩香に頼まれる前から、ずっと真相を知りたいと思っていた。
そのきっかけを作ってくれたのが彩香だったのだが、
俺が罪という名の汚れた手を持ったとしても、
その手を強く握ってくれた彩香に対して、
『あの時、君が俺を殺人者への道を歩かせたのだ』と迫るつもりは毛頭ない。
選んできたのは自分。
二人を生かすも殺すも、その手の中にすべて答えはあった。
たとえ、彩香の瞳が後悔の涙で溢れていたとしても・・・
「あなたに罪をきせてしまった。私が言った一言で・・・あなたの人生を復讐だけのものしてしまった」
ただ、あの一言があっただけで、それだけで、
俺は救われたのだから・・・
「私にはあなたが今からする事が判ってしまう。あなたは・・・」
そう溜め込んだ言葉の続きを、俺は指で静かに制していた。
判っているのなら、言わなくていい。
もう逝かせてくれないか・・・
「なら私も!」
そう言った彩香を止めるのに苦労した。
「私も逝きたい・・・・」
「なら逝こうか・・・」
その一言で安心した彩香は俺が握らせた薬を水で一飲みしたのである。
「これを飲むと楽に逝けるから・・・」
そう言った俺の言葉に惑わされたことにも気がつかず、
彩香は嬉しそうにそのまま時間をかけて眠りについていった。
今度、君が目を覚ましたとしても・・・もう俺はいない。
きっと俺は死んでいるだろう。
だから、このまま愛しい涼香の元へ・・・・
逝かせてくれ・・・・。
君に愛情を感じてしまう前に・・・
この命と未来に曙光を見出してしまう前に・・・。
遅いのかもしれない。
君を道連れにしたくないと思った時点で・・・
きっと遅いのかもしれない・・・・
********
<姉妹・9 確認>に続く。
涼香を亡くしたあの日の事で、
今でも憶えているのは若くして死んでしまった彼女の死顔が、
身を投げたにもかかわらず傷がなかったことだろうか。
俺は棺桶に近寄ることがはじめは怖かったのだが、
でも、彼女の死を見届けなければ、
いつまでも涼香の幻影が俺の中を侵食して壊していくような気がしたのである。
だが、あの綺麗な死顔を目の当たりにした時、
それが既に遅い事だと気がついたのだった。
彼女の死を認めたくない気持ち。
そして、どれだけ自分が彼女の事を想っていたか、
そう・・・既に彼女の死が俺自身を飲み込み、
深い悲しみの淵へと追いやっていたのである。
彼女の死がどんな意味を持っているかなど、
考えても考えつかなくて、
まさか、自分に原因があってあんな事になっていたなど
想像もつかなくて、ただ項垂れ泣き崩れていた。
数日経って日記を見つけ二人を殺す事を決意し、
篠塚亜希子は十年後に、そして田宮由里はそのまた五年後に
殺すことに成功したのだった。
田宮由里は・・・・俺が亜希子を殺した張本人だとは思っていなかったらしい。
それは当然で田宮由里に近づけたのは、ほんの少しの偶然があって
その偶然を利用しつつ俺が偽名を使ったからだった。
でなかったら今頃、きっと警戒されて近づく事もできなかったことだろう。
偽名だけでなく年齢も偽り、住んでいる場所も、職業も、
本当の顔なんか何一つ見せずに逢っていた。
昼の顔と夜の顔を使い分けるようにして、
日々ずれた生活を続けていた。
一人目はもう殺していたから、あと一人だけという安心感があったのだろう。
いつ殺しても構わなかったのだが、
由里の命を握っている優越感に浸りたかったのかもしれなかった。
そんな長い間、由里と偽りの恋人を演じていた頃、
由里の方から「ご両親にお会いしたいわ」そう言ってきたのである。
その一言が、まるで合図であったかのように俺は頷き、
由里を自宅に連れて行くフリをしたのだ。
もちろん、本物の自宅に連れて行く筈がなかった。
この女には亜希子よりも命を永らえた代わりと言っては変だが、
より残酷な姿をさらけ出して死んでもらいたかったのである。
「私の両親もあなたにお会いしたいって・・・」
そう顔を赤らめて、自分達の未来を描いている由里を見ていても
決心は変わらなかった。
きっと、涼香もそんな嬉しそうな顔をしたかっただろう。
きっと、そんな風に心躍る気持ちを隠さないで俺の前にいたかったかもしれない。
そう思う事の方が強くて、
より一層俺は目の前の由里を偽善の仮面の奥で憎み切っていた。
その仮面が剥がれたのが、あの駅のホームである。
『ちょっと、ジュースを買ってくるから先に行ってて・・・・』
階段を登った先にあるホームを指さして俺がそう言うと、
由里は頷いて階段を登って行った。
何も疑わず、そのままホームへと登って行く由里。
そして遅れて由里の背後にピタッと張り付く俺。
もちろん、その頃には別人になっていた。
着用していたジャンパーを脱ぎ、なるべく目立たない格好へと姿を変える。
伊達眼鏡をかけ、髪形も即席で変えた。
でも、そんな画策を冷静にしつつも俺は心の中であの時、
駅員に見つかる覚悟をしていたのである。
そして、由里を電車へと突き押したのだった。
迫りくる電車、人々の悲鳴。そして軋む電車の金切り音。
そして・・・・由里の赤い血。
俺は由里を電車に突き落とす前にしておかねばならないことがあった。
それはもちろん。
俺の素性を明かすこと。
俺に背中を向けている由里の後ろに吸いつくように姿を現し、
俺は小声で「お待たせ・・・・」と彼女へ耳打ちしたのである。
クスクス笑う由里の耳に続けて、
「ひとつ、君に謝らなければならない事があるんだ・・・」
そして少し間を開けて・・・・
もちろん、この「間」は電車が滑り込んでくるのを見計らっての、
「間」だったのだけれども・・・
「もう二度と君には逢えないんだ。だって、俺は君たちが殺した涼香のために復讐をしたかっただけなのだから」
そう冷やかに告げていた。
急いで振り返ろうとする由里。
そのため由里の体勢はぐらつき、彼女の足もとが危うくなった。
そこを見逃さない俺は、すかさず由里の背中を一突きして
電車に殺されるという無残な死に方を由里にさせたのである。
そのまま、逃げ切れるか・・・そんなことできるわけがない。
そう思いつつも、改札口を出て、普通にきた道を戻っていった。
信じられない話だが、この時も俺はまんまと駅から逃げる事ができたのである。
やっと、すべてが終わった。やっと、あいつらを殺した。
晴々という文字が一番似合っている空の色と同じように
俺の心にも黒い雲一つなかったのである。
やっとこれで、涼香の元にいける。
長かった、この十五年。
事件に時効というのがあったとしても、
その時効が過ぎてしまったら人を裁けないのだとするなら
時効なんて作らない方がいいのではないか・・・。
犯罪者になって初めて判ることだけれど、
罪を犯した者が十五年間苦しみ悔やみ、捕まる事に怯えて
日陰の生活を送ってきたのだから充分だろう、
そういう意味を込めて時効があるのだとするなら
それは、大きな間違いだということ。
苦しみ悔やむくらいなら、ちゃんと罪を認めて塀の向こう側に行くべきなのだ。
ただ、それをせず、逃げ続けている者に対して温情などあってはならないと
俺は強く思っている。
もちろん俺はここから先、十五年も逃げ続けようとは思っていない。
時効なんて望んでもない。
俺は俺のやり方でこの事件に終止符を打ちたいのだ。
二人の命を奪った男に情状酌量など有り得ないし、
最初から罪を認めるということは心情としてできないからだった。
俺が殺しました。俺がすべて悪いのです。
確かにそうだろう。
だが、それを認めてしまったら、彼女たちを殺した意味がないのだ。
それができないから、鬼になって二人を殺したのだから・・・。
間違っている。
きっと、すべての人達が俺のしでかしたことに、こう言うのだろう。
でも、俺はたとえ二人の家族に恨まれていくのだとしても、
この道しかなかったのだと、
この選択しか残されていなかったのだと、
言うかもしれない。
あの容疑者二人がこの先幸せに笑って生きていくことが、許せなかったのだから。
あいつらは涼香の笑顔も、恥じらう顔も、細い身体も、
優しい心も、甘い声も、そして俺の心を奪った二つの瞳も、
すべてを奪ったのだ。
初めから、きっと
たぶん、彩香に頼まれる前から、ずっと真相を知りたいと思っていた。
そのきっかけを作ってくれたのが彩香だったのだが、
俺が罪という名の汚れた手を持ったとしても、
その手を強く握ってくれた彩香に対して、
『あの時、君が俺を殺人者への道を歩かせたのだ』と迫るつもりは毛頭ない。
選んできたのは自分。
二人を生かすも殺すも、その手の中にすべて答えはあった。
たとえ、彩香の瞳が後悔の涙で溢れていたとしても・・・
「あなたに罪をきせてしまった。私が言った一言で・・・あなたの人生を復讐だけのものしてしまった」
ただ、あの一言があっただけで、それだけで、
俺は救われたのだから・・・
「私にはあなたが今からする事が判ってしまう。あなたは・・・」
そう溜め込んだ言葉の続きを、俺は指で静かに制していた。
判っているのなら、言わなくていい。
もう逝かせてくれないか・・・
「なら私も!」
そう言った彩香を止めるのに苦労した。
「私も逝きたい・・・・」
「なら逝こうか・・・」
その一言で安心した彩香は俺が握らせた薬を水で一飲みしたのである。
「これを飲むと楽に逝けるから・・・」
そう言った俺の言葉に惑わされたことにも気がつかず、
彩香は嬉しそうにそのまま時間をかけて眠りについていった。
今度、君が目を覚ましたとしても・・・もう俺はいない。
きっと俺は死んでいるだろう。
だから、このまま愛しい涼香の元へ・・・・
逝かせてくれ・・・・。
君に愛情を感じてしまう前に・・・
この命と未来に曙光を見出してしまう前に・・・。
遅いのかもしれない。
君を道連れにしたくないと思った時点で・・・
きっと遅いのかもしれない・・・・
********
<姉妹・9 確認>に続く。