<幻惑の影・3>
日曜日の午後。ひだまりの午後。
あの女と会った日から一週間が過ぎていた。
あの女の言葉をそのまま恋人に告げ、離婚届を見せたのは4日前。
離婚届はそのまま私が預かり、決心がついたら連絡がくるようになっている。
10年以上も夫婦生活があったのだ。
簡単に答えが出るわけがない。そう思った。
たとえ妻の方に夫婦関係を続けて行く意思がないにしても、
恋人には自分で決断して進むべき道を選択してもらわなければならない。
妻と別れて私と生きていくという道。
時間はかかったけれど最終段階はきてしまった。
この展開で恋人が妻に対して未練があるとは思えないけれど、
そこら辺は男の心情として難しいものなのかもしれない。
自分の心が離れるのはいいけれど、妻の心が離れていくのは我慢ならない。
そんな気持ちがもしや芽生えないとも限らない。
私の頭の中ではありとあらゆる悪い想定がたてられてしまっていた。
恋人が妻を連れ戻して「やり直そう」と言ってしまうのではないか・・・。
そんな悪い考え。
恋人には男の意地を通さないでもらいたい。
ただ、私はここで独り祈るしかないのだ。
携帯のアドレスを見ながら、
「こちらから連絡をするのはやめておこう・・・」と溜息をついてしまう。
決断を急がせても何も良い方向には向かないだろう。
決めるのは私ではなく、夫婦である彼らなのだから・・・。
そんな憂鬱な日曜の午後。
独りで過ごすのは余計に滅入ってしまいそうだから友人とお茶の約束をしていた。
その帰り道・・・私は自分の目を疑いたくなるものを見てしまった。
偶然、帰り道に寄った本屋の窓からその姿を見つけてしまったのだ。
いつもは通らない道と、いつもは来ない本屋。
私のテリトリーではない場所で偶然に目撃してしまった恋人の姿。
楽しそうに・・・私にも見せている笑顔がそこにはあった。
最初は、誰といるのだろう?と思っていた私。
でも・・・
隣で笑っている相手を見つけて私の時間が凍ってしまったのを今でも憶えている。
あの女だったのだ。
あの女も同じように幸せそうな顔で笑っている。
すべての疑問が波のように押し寄せてきた。
頭の中には「なぜ?」の嵐が吹きすさんでいる。
どうして?
嫌な予感は的中してしまったのか・・・?
やはり別れるのではなく、妻と生きる道を選ばれてしまったのだろうか。
グラリと自分の立っている地面が揺らいだ気がした。
ふらつく体をなんとか気力で持ち直して街中に消えていく二人の後を追った私。
そんなこと絶対にない。
きっと別れる前にもう一度夫婦らしいことをしているだけなのだ。
そう頭の中で恋人を擁護する言葉を作っても・・・
なら、なぜそれをしなければならない?
すぐに否定の言葉が自然と生まれてくる。
心おぼつかない状況で悟られないように密やかに尾行を続ける自分自身が、
一番恋人を信じられずにいた。
でも、このまま恋人の背中を見失うわけにはいかないのだ。
きっと後から問い詰めてもはぐらかされるだけである。
そんな嘘を聞くぐらいなら真実を自分の目でいま確かめた方がいいに決まっている。
だから、気づかれないように後をつけた。
いくつもの地下鉄を乗り継いだ先にあったもの。
そこは私の知らない場所だった。
恋人の家なら・・・彼の知らないところで私は何度も訪れている。
ここは・・・どこ?
そこは白い壁のアパート。
少し古めの三階建てだけれど、妙に落ち着きがあるように見えてしまうのはどうしてなのだろう。
二人が消えて行った階段。その奥の脇には郵便ポストが備え付けてある。
廊下は外から見える造りになっている。
三階の廊下を楽しそうに歩いている二人は端の部屋へとスルリと入っていく。
あの部屋・・・。
静かに足音をたてないように私も三階に上がり部屋番号を確かめる。
階下へ降りてポストを見て、その名前を見て初めてすべての謎が解けたような気がした。
解けない愛のスパイラル。
これこそがすべての真実。
あの女の言った言葉が蘇ってくる。
「あなたは自分だけなのだと思っているかもしれないけれど・・・そうではないわ。」
「私が知っているだけでも愛人はあなた一人ではないのよ。そこをあなたが我慢できるかどうかは・・・、あなた次第よね。」
そう口にした女の顔。
離婚届に書いてあった妻の名前とは違う女の名前がポストにはあった。
あの女は妻でも何でもない女だったのだ。
確かに私は妻である女の顔を一度も垣間見たことはない。
その盲点を突かれるとは思いもしていなかった。
そう、あの女こそが恋人のもう一人の相手。
愛人が私以外に別にもう一人いて、妻もいる男。
そう確信した瞬間、私の中ですべてが壊れていく音が聞こえた。
「お前だけだ」「信じてくれ」「愛している」
そう甘い言葉を囁く相手は私以外にもしっかりといたのだ。
許せないとか、裏切られたとか、そんな感情はなかった。
ただ、謎が解けたことに身震いを感じた。
もう、つづけることはできない。
私の中で恋人を愛している感情が死んでしまった。
妻だけでなく、もう一人女がいる事実。
恋人を・・・妻以外の人間と共有する?
そんな馬鹿げたことができるわけがない。
死んでしまった感情を見送るように涙がとめどなく流れていく。
恋人に対する信頼も愛情も未来も何もかもを捨てる決心がついたとき、
私の中で「悪」が芽生えていくのが手に取るようにわかった。
私の手元にある離婚届。
これで、あの女の薄い微笑の意味が判った気がした。
あの女は気持とは逆のことを言って、私の反応を見ながら笑っていたのだ。
それなら、この紙切れの処分をどうするべきか・・・。
あの女が仕掛けた罠ならば返してあげればいい。
「私は・・・もう我慢ができなくなったのよ。」
あの女の言葉が木霊となって繰り返し反響している。
あの女は・・・私と恋人を共有していることに我慢が出来なくなったのだろう。
でもそれを私に言うのは間違いでしかない。
あの女がそう言い切るべき相手は愛人の私にではなく本妻に言うべき言葉なのだから。
不意に可笑しくなって私は鞄の中に閉まっていた離婚届を手に取ってもう一度見つめた。
なら、私が・・・あの二人の関係に終止符を打ってあげればいいではないか。
我慢ができないのであれば・・・しなければいい。
このまま壊れてしまう関係ならばそれまでなのだろうし、
私がいま壊してもそうしなくても、
いつかはその瞬間があの二人にやってくるのにそう時間はかからないだろう。
踵を返して近くの店に入り封筒を買い離婚届を入れた。
その表には恋人の妻が待つ住所をサラリと書いてポストにそのまま投函してしまった。
明日の今頃には、あの封筒が妻の元に届き、
私とは違うあの女が修羅場を迎えるのであろう。
なぜだろう、不思議と心が軽くなった気がした。
あんなに愛していると思っていた男に踏ん切りをつけることができたのである。
妻に対する焦りや、『引き返せない』と思い込んでいたのが嘘のようだった。
何もかもが嘘の繋がりでしかなかった。
あの時間をもう懐かしむこともないだろう。
そう、もう眠れない夜に悩むこともないのだ。
でも・・・
解放されたのだと思っても、心が軽くなったのだと思っても、
どうして私の瞳から今涙が出ているのだろう。
「不倫」という言葉に惑わされていただけなのだ・・・。
そう心を押し殺してみるが、恋人と愛を語ることはないのだと思ったとき
焦がれる心が張り裂けそうになって涙がとめどなく流れ出ていた。
今泣いてしまえばもう泣かなくていいのだろうか?
この涙の名前はやはり「愛」なのだろうか・・・。
まさか、「さよなら」を自分から言うことになるなんて思いもしなかった。
私の心が死んでしまっても涙が流れる矛盾。
本当は私の「愛」は死んでなどいないのかもしれない。
それが判っているから涙がでるのかもしれない。
やはりこの涙の名前は「愛」。
あんな場面を見ても、まだ愛しているのだと認めるしかないのだろうか。
まだ、心の雨は降り止まない。明日を迎えても雨は降り止まないだろう。
そう、明日になったら恋人との「さよなら」が待っている。
それが・・・すごくつらいから愛という名の涙が流れたのだろう。
もうすぐ終局の足音が聞こえてくるのに、私はまだ「愛」にしがみつこうとしている・・・。
今まで見ることのなかった影が姿を現しただけなのに
あの女自身に惑わされて「妻」という言葉に踊らされた自分がいた。
この冷たい涙とともに今度は私が影になろうとしている。
もう二度とあの女の前に姿を現すことのない影になろうとしている・・・。
日曜日の午後。ひだまりの午後。
あの女と会った日から一週間が過ぎていた。
あの女の言葉をそのまま恋人に告げ、離婚届を見せたのは4日前。
離婚届はそのまま私が預かり、決心がついたら連絡がくるようになっている。
10年以上も夫婦生活があったのだ。
簡単に答えが出るわけがない。そう思った。
たとえ妻の方に夫婦関係を続けて行く意思がないにしても、
恋人には自分で決断して進むべき道を選択してもらわなければならない。
妻と別れて私と生きていくという道。
時間はかかったけれど最終段階はきてしまった。
この展開で恋人が妻に対して未練があるとは思えないけれど、
そこら辺は男の心情として難しいものなのかもしれない。
自分の心が離れるのはいいけれど、妻の心が離れていくのは我慢ならない。
そんな気持ちがもしや芽生えないとも限らない。
私の頭の中ではありとあらゆる悪い想定がたてられてしまっていた。
恋人が妻を連れ戻して「やり直そう」と言ってしまうのではないか・・・。
そんな悪い考え。
恋人には男の意地を通さないでもらいたい。
ただ、私はここで独り祈るしかないのだ。
携帯のアドレスを見ながら、
「こちらから連絡をするのはやめておこう・・・」と溜息をついてしまう。
決断を急がせても何も良い方向には向かないだろう。
決めるのは私ではなく、夫婦である彼らなのだから・・・。
そんな憂鬱な日曜の午後。
独りで過ごすのは余計に滅入ってしまいそうだから友人とお茶の約束をしていた。
その帰り道・・・私は自分の目を疑いたくなるものを見てしまった。
偶然、帰り道に寄った本屋の窓からその姿を見つけてしまったのだ。
いつもは通らない道と、いつもは来ない本屋。
私のテリトリーではない場所で偶然に目撃してしまった恋人の姿。
楽しそうに・・・私にも見せている笑顔がそこにはあった。
最初は、誰といるのだろう?と思っていた私。
でも・・・
隣で笑っている相手を見つけて私の時間が凍ってしまったのを今でも憶えている。
あの女だったのだ。
あの女も同じように幸せそうな顔で笑っている。
すべての疑問が波のように押し寄せてきた。
頭の中には「なぜ?」の嵐が吹きすさんでいる。
どうして?
嫌な予感は的中してしまったのか・・・?
やはり別れるのではなく、妻と生きる道を選ばれてしまったのだろうか。
グラリと自分の立っている地面が揺らいだ気がした。
ふらつく体をなんとか気力で持ち直して街中に消えていく二人の後を追った私。
そんなこと絶対にない。
きっと別れる前にもう一度夫婦らしいことをしているだけなのだ。
そう頭の中で恋人を擁護する言葉を作っても・・・
なら、なぜそれをしなければならない?
すぐに否定の言葉が自然と生まれてくる。
心おぼつかない状況で悟られないように密やかに尾行を続ける自分自身が、
一番恋人を信じられずにいた。
でも、このまま恋人の背中を見失うわけにはいかないのだ。
きっと後から問い詰めてもはぐらかされるだけである。
そんな嘘を聞くぐらいなら真実を自分の目でいま確かめた方がいいに決まっている。
だから、気づかれないように後をつけた。
いくつもの地下鉄を乗り継いだ先にあったもの。
そこは私の知らない場所だった。
恋人の家なら・・・彼の知らないところで私は何度も訪れている。
ここは・・・どこ?
そこは白い壁のアパート。
少し古めの三階建てだけれど、妙に落ち着きがあるように見えてしまうのはどうしてなのだろう。
二人が消えて行った階段。その奥の脇には郵便ポストが備え付けてある。
廊下は外から見える造りになっている。
三階の廊下を楽しそうに歩いている二人は端の部屋へとスルリと入っていく。
あの部屋・・・。
静かに足音をたてないように私も三階に上がり部屋番号を確かめる。
階下へ降りてポストを見て、その名前を見て初めてすべての謎が解けたような気がした。
解けない愛のスパイラル。
これこそがすべての真実。
あの女の言った言葉が蘇ってくる。
「あなたは自分だけなのだと思っているかもしれないけれど・・・そうではないわ。」
「私が知っているだけでも愛人はあなた一人ではないのよ。そこをあなたが我慢できるかどうかは・・・、あなた次第よね。」
そう口にした女の顔。
離婚届に書いてあった妻の名前とは違う女の名前がポストにはあった。
あの女は妻でも何でもない女だったのだ。
確かに私は妻である女の顔を一度も垣間見たことはない。
その盲点を突かれるとは思いもしていなかった。
そう、あの女こそが恋人のもう一人の相手。
愛人が私以外に別にもう一人いて、妻もいる男。
そう確信した瞬間、私の中ですべてが壊れていく音が聞こえた。
「お前だけだ」「信じてくれ」「愛している」
そう甘い言葉を囁く相手は私以外にもしっかりといたのだ。
許せないとか、裏切られたとか、そんな感情はなかった。
ただ、謎が解けたことに身震いを感じた。
もう、つづけることはできない。
私の中で恋人を愛している感情が死んでしまった。
妻だけでなく、もう一人女がいる事実。
恋人を・・・妻以外の人間と共有する?
そんな馬鹿げたことができるわけがない。
死んでしまった感情を見送るように涙がとめどなく流れていく。
恋人に対する信頼も愛情も未来も何もかもを捨てる決心がついたとき、
私の中で「悪」が芽生えていくのが手に取るようにわかった。
私の手元にある離婚届。
これで、あの女の薄い微笑の意味が判った気がした。
あの女は気持とは逆のことを言って、私の反応を見ながら笑っていたのだ。
それなら、この紙切れの処分をどうするべきか・・・。
あの女が仕掛けた罠ならば返してあげればいい。
「私は・・・もう我慢ができなくなったのよ。」
あの女の言葉が木霊となって繰り返し反響している。
あの女は・・・私と恋人を共有していることに我慢が出来なくなったのだろう。
でもそれを私に言うのは間違いでしかない。
あの女がそう言い切るべき相手は愛人の私にではなく本妻に言うべき言葉なのだから。
不意に可笑しくなって私は鞄の中に閉まっていた離婚届を手に取ってもう一度見つめた。
なら、私が・・・あの二人の関係に終止符を打ってあげればいいではないか。
我慢ができないのであれば・・・しなければいい。
このまま壊れてしまう関係ならばそれまでなのだろうし、
私がいま壊してもそうしなくても、
いつかはその瞬間があの二人にやってくるのにそう時間はかからないだろう。
踵を返して近くの店に入り封筒を買い離婚届を入れた。
その表には恋人の妻が待つ住所をサラリと書いてポストにそのまま投函してしまった。
明日の今頃には、あの封筒が妻の元に届き、
私とは違うあの女が修羅場を迎えるのであろう。
なぜだろう、不思議と心が軽くなった気がした。
あんなに愛していると思っていた男に踏ん切りをつけることができたのである。
妻に対する焦りや、『引き返せない』と思い込んでいたのが嘘のようだった。
何もかもが嘘の繋がりでしかなかった。
あの時間をもう懐かしむこともないだろう。
そう、もう眠れない夜に悩むこともないのだ。
でも・・・
解放されたのだと思っても、心が軽くなったのだと思っても、
どうして私の瞳から今涙が出ているのだろう。
「不倫」という言葉に惑わされていただけなのだ・・・。
そう心を押し殺してみるが、恋人と愛を語ることはないのだと思ったとき
焦がれる心が張り裂けそうになって涙がとめどなく流れ出ていた。
今泣いてしまえばもう泣かなくていいのだろうか?
この涙の名前はやはり「愛」なのだろうか・・・。
まさか、「さよなら」を自分から言うことになるなんて思いもしなかった。
私の心が死んでしまっても涙が流れる矛盾。
本当は私の「愛」は死んでなどいないのかもしれない。
それが判っているから涙がでるのかもしれない。
やはりこの涙の名前は「愛」。
あんな場面を見ても、まだ愛しているのだと認めるしかないのだろうか。
まだ、心の雨は降り止まない。明日を迎えても雨は降り止まないだろう。
そう、明日になったら恋人との「さよなら」が待っている。
それが・・・すごくつらいから愛という名の涙が流れたのだろう。
もうすぐ終局の足音が聞こえてくるのに、私はまだ「愛」にしがみつこうとしている・・・。
今まで見ることのなかった影が姿を現しただけなのに
あの女自身に惑わされて「妻」という言葉に踊らされた自分がいた。
この冷たい涙とともに今度は私が影になろうとしている。
もう二度とあの女の前に姿を現すことのない影になろうとしている・・・。