<幻惑の影>
その女は迷うことなく私の前に近寄ってきた。
意志の強そうな瞳。鼻筋は通り、赤い唇は薄っすらと微笑を浮かべている。
日曜日の夕方4時。
カフェの名前を指定されて呼ばれるままに私は店に来てしまった。
本当は来るべきではない。
頭の中では危険を知らせるランプが先程から点滅している。
女が来る前にこの場から立ち去ったほうがいい。
頭では分かっていても身体が思うように動いてはくれない。
自分でも分かっているのだ。
ここで逃げても女が私の前に再び現れるのに時間がかからないことを・・・
だから・・・私はやってきた。
女の顔や姿を目の当たりにして恐怖を覚えた。
私は女の存在を知らないわけではないからなおさら怖いと感じるのだろう。
女の用件も解っている。
問われなくても私自身がよく解っている。
この女の「夫」のことで私の前に座ろうとしているのだ。
椅子を引き優雅に足を組んで店の女の子を呼んで紅茶を頼んでいる。
女の子には極上の笑顔を見せ、向きなおった私には冷酷な無表情を見せる。
ここから始まる。
私が身構えて女の第一声を待っていると、
女は何がおかしいのか笑いはじめたのである。
「そんなに私のことを睨まなくてもいいじゃないの」
机に肘を付き顔の前で両の掌を組み合わせて、
その手の向こう側から鋭い矢のような視線を私に送ってくる女。
そんな強い眼力に対抗するにはこちら側もある程度は瞳に力が入ってしまう。
それが相手には睨んでいるように見えてしまうのか・・・。
迂闊にも私は女に先手を打たれてしまったようである。
いや、初めから私は女に勝てる要素など無いに等しい。
なぜなら私は今、死刑囚と同じ立場にあるのだから・・・。
ただこの女の死刑判決を聞くためだけにここにいるのだから。
相手が友人という名を持つ者であったのなら私自身こんなに緊張などしないだろう。
強張る顔をしている私の前に座った女の正体。
それは・・・私の恋人の・・・妻をしている人。
そう、私の恋人には妻がいるのだ。
愛した人に妻がいただけ・・・
不倫を重ねる人間はよくこんな台詞を使いたがる。
自分を正当化したいために妻の存在を悪にしようとする簡単な言葉。
でも、実際そうなのだ。
本当に、ただ純粋に好きになった相手に妻がいただけなのである。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、それだけのことなのだ。
でも、この女には当然のことながら・・・
それは「当たり前」のことではないに違いない。
心中穏やかではないだろうし、私を見据えた瞳がすべてを語っている。
今、この女の中で私は何回殺されているのだろうか・・・
刺し殺されているのか、首を絞められているのかもしれない。
こんな妄想はどこまでも膨らみ際限はないのだ。
だが、女の紅茶が運ばれてきた後で、
女が発した言葉に私は耳を疑ってしまった。
品の良いティーカップにミルクをそそぎ、スプーンでかきまわした女は、
溜息を一つしてこう切り出してきた。
「主人とは・・・・・どうぞこのままお付き合いくださって結構よ」
赤い唇から出てきた言葉に不信感を露わにすると、
女の反応は『心外』だと言いたげで、
「あら、喜んでくれると思ったのに」
とサラリと言ってのけたのである。
しかも女の表情からは私に対する余裕のようなものが感じられるのだ。
この女のしたいことがわからない。
私を殴り蹴落としてでも自分の伴侶を返してもらうために・・・
そういう強い意志を持ってここにやって来たのではないのだろうか?
だが、この女の今の表情から察するにそんな危機感がないのだ。
ただ楽しそうに私の出方を待っている。
自分でミルクの加減をしたミルクティーを味わうかのように、
私の表情を読んで私の心の裏側を読み取ろうとしている。
「あの女の底には怖さがある」
恋人が自分の妻を一度だけ語った時に放った言葉がこれだった。
怖い?
同じ女なのだ。何を怖さと感じることがあるのだろう?
その時の私はたとえ自分が今、恋人の妻と対峙しても構わないのだと、
この思いがあれば何も怖いものなどないのだと・・・
そんな変な強気のようなものを持っていて、
恋人が言った言葉を真剣に捉えようとはしなかったのである。
あの言葉の意味はきっとこれだったのだ。
この女の芯の部分にある強さと怖さ。
この言いようのない怖さは自分と同じ立場になった人間にしか理解らないのかもしれない。
妻であることの強みと余裕。
この女の滲み出ているものが「妻」である余裕からだとするのなら・・・
私は嫉妬を覚えずにはいられない。
だが、この女の持ってきたカードが思わぬ方向に私を連れて行こうとしていた。
なぜなら・・・自分が思い描いていた修羅場とは違うシーンがここにはあるから・・・
妻が不倫相手の自分を激しくなじり、罵倒し、
立ち上がることができないくらいのダメージを与える。
それが修羅場であると認識していた。
しかし、私が予想していた出来事はここには存在しなかった。
逆に事を穏便に済ませようとしている妻がいる。
そして、その船に乗ってもいいものか躊躇している私がいる。
だが・・・私の頭の中の危険を告げるアラームは鳴りっぱなしだ。
この女が仕掛けてきた言葉の羅列には何かがある。
それが何なのか・・・私はまだ理解ができていなかった。
_____________
幻惑の影・2へ続きます。
その女は迷うことなく私の前に近寄ってきた。
意志の強そうな瞳。鼻筋は通り、赤い唇は薄っすらと微笑を浮かべている。
日曜日の夕方4時。
カフェの名前を指定されて呼ばれるままに私は店に来てしまった。
本当は来るべきではない。
頭の中では危険を知らせるランプが先程から点滅している。
女が来る前にこの場から立ち去ったほうがいい。
頭では分かっていても身体が思うように動いてはくれない。
自分でも分かっているのだ。
ここで逃げても女が私の前に再び現れるのに時間がかからないことを・・・
だから・・・私はやってきた。
女の顔や姿を目の当たりにして恐怖を覚えた。
私は女の存在を知らないわけではないからなおさら怖いと感じるのだろう。
女の用件も解っている。
問われなくても私自身がよく解っている。
この女の「夫」のことで私の前に座ろうとしているのだ。
椅子を引き優雅に足を組んで店の女の子を呼んで紅茶を頼んでいる。
女の子には極上の笑顔を見せ、向きなおった私には冷酷な無表情を見せる。
ここから始まる。
私が身構えて女の第一声を待っていると、
女は何がおかしいのか笑いはじめたのである。
「そんなに私のことを睨まなくてもいいじゃないの」
机に肘を付き顔の前で両の掌を組み合わせて、
その手の向こう側から鋭い矢のような視線を私に送ってくる女。
そんな強い眼力に対抗するにはこちら側もある程度は瞳に力が入ってしまう。
それが相手には睨んでいるように見えてしまうのか・・・。
迂闊にも私は女に先手を打たれてしまったようである。
いや、初めから私は女に勝てる要素など無いに等しい。
なぜなら私は今、死刑囚と同じ立場にあるのだから・・・。
ただこの女の死刑判決を聞くためだけにここにいるのだから。
相手が友人という名を持つ者であったのなら私自身こんなに緊張などしないだろう。
強張る顔をしている私の前に座った女の正体。
それは・・・私の恋人の・・・妻をしている人。
そう、私の恋人には妻がいるのだ。
愛した人に妻がいただけ・・・
不倫を重ねる人間はよくこんな台詞を使いたがる。
自分を正当化したいために妻の存在を悪にしようとする簡単な言葉。
でも、実際そうなのだ。
本当に、ただ純粋に好きになった相手に妻がいただけなのである。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、それだけのことなのだ。
でも、この女には当然のことながら・・・
それは「当たり前」のことではないに違いない。
心中穏やかではないだろうし、私を見据えた瞳がすべてを語っている。
今、この女の中で私は何回殺されているのだろうか・・・
刺し殺されているのか、首を絞められているのかもしれない。
こんな妄想はどこまでも膨らみ際限はないのだ。
だが、女の紅茶が運ばれてきた後で、
女が発した言葉に私は耳を疑ってしまった。
品の良いティーカップにミルクをそそぎ、スプーンでかきまわした女は、
溜息を一つしてこう切り出してきた。
「主人とは・・・・・どうぞこのままお付き合いくださって結構よ」
赤い唇から出てきた言葉に不信感を露わにすると、
女の反応は『心外』だと言いたげで、
「あら、喜んでくれると思ったのに」
とサラリと言ってのけたのである。
しかも女の表情からは私に対する余裕のようなものが感じられるのだ。
この女のしたいことがわからない。
私を殴り蹴落としてでも自分の伴侶を返してもらうために・・・
そういう強い意志を持ってここにやって来たのではないのだろうか?
だが、この女の今の表情から察するにそんな危機感がないのだ。
ただ楽しそうに私の出方を待っている。
自分でミルクの加減をしたミルクティーを味わうかのように、
私の表情を読んで私の心の裏側を読み取ろうとしている。
「あの女の底には怖さがある」
恋人が自分の妻を一度だけ語った時に放った言葉がこれだった。
怖い?
同じ女なのだ。何を怖さと感じることがあるのだろう?
その時の私はたとえ自分が今、恋人の妻と対峙しても構わないのだと、
この思いがあれば何も怖いものなどないのだと・・・
そんな変な強気のようなものを持っていて、
恋人が言った言葉を真剣に捉えようとはしなかったのである。
あの言葉の意味はきっとこれだったのだ。
この女の芯の部分にある強さと怖さ。
この言いようのない怖さは自分と同じ立場になった人間にしか理解らないのかもしれない。
妻であることの強みと余裕。
この女の滲み出ているものが「妻」である余裕からだとするのなら・・・
私は嫉妬を覚えずにはいられない。
だが、この女の持ってきたカードが思わぬ方向に私を連れて行こうとしていた。
なぜなら・・・自分が思い描いていた修羅場とは違うシーンがここにはあるから・・・
妻が不倫相手の自分を激しくなじり、罵倒し、
立ち上がることができないくらいのダメージを与える。
それが修羅場であると認識していた。
しかし、私が予想していた出来事はここには存在しなかった。
逆に事を穏便に済ませようとしている妻がいる。
そして、その船に乗ってもいいものか躊躇している私がいる。
だが・・・私の頭の中の危険を告げるアラームは鳴りっぱなしだ。
この女が仕掛けてきた言葉の羅列には何かがある。
それが何なのか・・・私はまだ理解ができていなかった。
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幻惑の影・2へ続きます。