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サイボーグみたいだな・・・w



公孫瓚の元へ身を寄せた後、公孫瓚の推薦により平原国の相(長官)となった劉備。
劉備は民に恩恵を与え、身分の低い人に対しても差別をしなかった。
財力も無く、根っことなるような強力な地盤も無く、人材も少なかった劉備は、
人心を得ることに長けており、大勢の人々に心を寄せられた。

この人心収攬において、優れた能力を持っていたのが劉備だったのだろう。

この長官になった時代に、劉平という人物が、劉備の下につくのをよしとせず刺客を送り込んだ。
ところが刺客は、劉備に歓待され、劉備の人柄に触れ、殺すのが忍びなくなり、
自分が刺客であることを劉備に告げて帰ってしまったというエピソードがあるw





劉備は、184年に黄巾の乱が起きると義勇軍を結成。
鄒靖(すうせい)に従って名を挙げ、功により尉(警察署長)に任命された。

しかし、郡の督郵(とくゆう)が視察に来たとき、劉備は面会を申し出たが断られた。
これに腹を立て、督郵を杖で200回も打ち、自分の官の印綬を督郵の首にかけ逃亡した。

演義では、この事件を張飛のせいにしているけど、実際は劉備ww
劉備のイメージダウンを避けたんだろうなーwww

このあと、191年に公孫瓚のもとに行くまで、官の仕事に就いてはやめるの繰り返しだった。




劉備・関羽・張飛の3人が「桃園の結義」をする名シーン。
実際は「蜀書」関羽伝の中に記載されている
「劉備は、関羽・張飛と寝るときは同じ寝床で寝て、恩愛は兄弟のようだった」という記述などから
羅貫中(らかんちゅう)が創作したものだった。

劉備・関羽・張飛の関係は、君臣というよりも、もっと任侠的な感じだったのだろう。

彼らが徒党を組むのは、劉備が24歳の頃。
実際の劉備は、荒っぽい人物だったようだw