遠くに住んでいる姉が、何故かきた。
コンクリートの階段を上がってくる足音で、何かいつもと違う様子を感じた。
あの陰鬱な階段になにか、陽気なキラキラしたものを感じた。
ぬいぐるみみたいな茶色小さなもふもふの体がのしのしと上がってくる。
いつも気味悪いあの階段の空気を一瞬にして変えた、小さな天使。
チョコという可愛くて仕方ないトイプードルを、5歳くらいの時に姉が突如、当時住んでいた市営住宅に連れてきた。
ずっとワンちゃんが欲しくてたまらなかったから、それを察して連れて帰ってきてくれたらしい。
「え、どこから連れてきたの?」
まさか僕のために?
と、言わんばかりの希望がこもった眼差しで
姉を見つめながら聞いてみた。
「今日からこの子と一緒に住むんだよ!」
そう言ってくる。
嬉しい反面、「ここ、ペット飼えないんだけどなー。」と内心思いながらも胸の奥は弾んでいた。
そう、一緒に住むことになったのだ。
母親に懐いていたことに嫉妬をしていたのか、時々背後から回り、小さな丸っこいお尻を指でチョンって驚かせるなどちょっとしたいたずらを、よく仕掛けていた記憶がある。
しかしそんな愛おしい日々も束の間、お留守番させている時に吠えていたらしく、ペット禁止の市営住宅だからと近所のおばさんがチクったらしい。
小さいながら激しく憎んだ。
そもそも、ペット禁止なのに連れてきた姉もどうかと思っていた。
結果的に一緒にいられなくて、姉のところへと帰ってしまった。
それから1年ほどの月日が経って、母がいきなり「チョコに会いに行くよ!」と言って荷造りをしているのだ。
勿論嬉しかった。チョコに会えるんだから。
でも、突如すぎて違和感すら覚えた。
糸が張り詰めたような妙な緊張感。
小さいながらに大人の考えや気配には敏感だった子どもで、ひしひしとその違和感を感じていた。
兄も部屋から出てこない。
何かが変。
兄も同じ家に住んでいたから、兄は家にいたけど父はその時ちょうど仕事でいなかった。
「まあ、でもチョコに会えるしなんでもいいや!」とその違和感をサラリと吹き飛ばし、
兄ともバイバイせずに大きなスーツケース2つを母と五階から一階まで、いつもの気味悪い今にでも幽霊が出そうな長い階段を降りて運んだ。
親戚のおばさんが軽箱で迎えに来てくれていて、「一緒にチョコに会いに行くんだー」ぐらいにしか思わず、母とトランクに荷物を押し込み、後部座席に乗り込んだ。
何とも言えない胸の奥からくる違和感をチョコに会えるという楽しみで埋め尽くして、姉とチョコのいるところへ出発した。
出発間際にいつもの気味悪い階段を見て、何かと寂しい気持ちになった。
当時の僕は友達がいなくて、母も遊んでくれるタイプではなかったから、家でよく退屈をしていた。
だから毎週末、父と出かけていた。
出かけた先で遊んで体力を使い果たしていたから、帰りはあの陰鬱な階段を登る気力もなく、いつも無理やりにでも背中にこびりついて五階までおんぶしてもらっていた。
その時だけやけに、父の背中が父親らしくて居心地がよかった。
父には、「お母さんとずっと一緒にいるよね?」
母には、「お父さんとずっと一緒だよね?」
少し前から、頻繁にそう両親にしつこく聞いてたことを何故か思い出しながら、
あの陰鬱な階段を背にして車が走り出した後、気づけば母の膝に頭を乗せて寝てしまっていた。