劉少奇、彼は毛沢東の大躍進政策が失敗した後、第2代国家主席に就任しました。

その後、彼は自分の故郷を視察した際に、その疲弊ぶりに衝撃を受け(中国全土で数千万の餓死者)、そして、1962年の七千人大会(党、省、市、自治区、主要工場、鉱山関係者7000人余りが参加した為)に於いて、
『今回の大災害の原因は、天災が3分、人災が7分だ』
と党中央の責任を認めました。。
毛沢東もこれを認め、政務の第一線を退き、この後、劉はトウ小平と共に市場経済を取り入れた経済調整を始めました。。

しかし、復権をはかる毛沢東にとって、権力基盤を固めつつあった劉少奇は邪魔な存在だったので、彼は文化大革命を発動し、劉たちを『資本主義の道を歩む実権派』として打倒の対象にしたのです。。

その後、徐々に彼に対する批判が表立って来る様になり、1967年1月に彼は、毛沢東に対して
『全ての職を辞して国の混乱を終わらせ、農業をして暮らしたい。』
という意向を伝えましたが、毛沢東はこれを黙殺しました。。

文革中、中南海の自宅の執務室に文革派が押し入って論戦を吹っかけ、彼はその矛盾を論破し黙らせるなどしましたが、文革派は執務室の電話線を切断、外部との連絡を断たれてしまいました。

1967年春以降になると、大衆の前での批判大会に連れ出され、執拗な吊し上げを受ける様になり、7月18日には、中南海の自宅が文革派に襲撃され、批判大会において2時間にも渡って暴行を受け、批判を浴びました。。

9月には、夫人が逮捕され、子供も家を追い出され、劉一人が自宅に残されました。。

この頃、彼はスパイ容疑をでっちあげられ、『裏切り者、労働貴族』として永久に中国共産党から除名され、一切の職務から解任する処分が出され、失脚させられました。。

自宅監禁状態にあった劉は病の床につくが、散髪、入浴ともに許されず、警備員はおろか治療する医師からも執拗な暴言や暴行を受けました。

彼の部屋には、彼を非難するスローガンが貼り付けてありました。。

劉の除名処分は、彼の誕生日にラジオで流され、彼は聴くことを強要され、それ以来言葉を発しなくなったそうです。。

そして、常用していた薬も取り上げられました。。

1968年夏に高熱を出して以降は寝たきりになり、世話をする人もいなくなりました。。

1969年10月17日に開封市に移送され、寝台に縛りつけられたままコンクリート剥き出しの倉庫部屋に幽閉され、11月12日に没しました。。。

死亡カルテには、『無職・劉衛黄』と書かれていました。。(黄は皇と同じ発音、衛皇とは皇帝崇拝の意)

劉の死は、当初高級幹部以外には秘匿され、海外から生死不明とされていました。。


1980年2月、毛沢東の死後、トウ小平により劉の名誉は回復され、5月には追悼大会が開かれました。。
この頃、初めて内外に劉の最期が知られたのです。


その後、遺族の方々は開封の劉が幽閉されていた部屋を訪れた際、劉が最期まで使っていた枕(シアヌーク王からの贈り物)を抱きしめて抱き合って泣き続けたそうです。。

劉の遺骨は、名誉回復後、海軍艦艇から遺族の手で海へ散骨されました。。


彼もまた毛沢東の被害者の1人でした。。
4日に香港から帰ってきました~

蘭色は香港で買いましたよ~、HMV尖沙咀店です。
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あと、ワニと巨大伊勢海老食べました!!

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今日は、高校の友達と夕飯して、喋ってきましたよ。。
サイゼリヤに18:00くらいから22:30まで。。
楽しかったな~
月1くらいで集まろうか、なんて思ってます。。