「永い言い訳」西川美和監督 (ネタバレ注意)

 人にとっての幸せのカタチは色々あるだろうけれど、第一には、誰かの役に立っていることを実感できること、誰かを大切にできていること(もちろん大切にされている実感もあればいいが)、これはかなり重要な要素ではないかと思う。
 
 不倫の情事中に妻を不意の事故で失っても少しも泣けなかった主人公は、妻の友人ではやり同じ事故で奥さんを亡くした男の子供二人の面倒をみているうちに、人にとっての本当の幸せは何かを見出していったようだ。

 小さな妹の世話のために中学受験を諦めようとする12歳の少年は、がさつで体育会系の長距離ドライバーの父ではなく、何故聡明でしっかり者の母が死んだのだろうと、自己嫌悪の入り混じった涙ながらに主人公に打ち明ける。
 その時、がさつでも混じりっけないストレートな愛に溢れた少年の父親のことや、自分の言葉に傷ついている聡明な少年を心からいとおしめるようになった主人公が少年に言うのだ。
 「自分のことを大切にしてくれる人のことを軽く扱ったりり貶めてはいけない」(正確な台詞ではありませんが)

これは、妻に申し訳なかったと心から思えるようになった主人公だから言える台詞で。

 皆、そんなことは当たり前ではないか、と思うだろうけれど、人はそんなに強く清くはいられない。
 一番近い関係としては親兄弟が当てはまるが、人は愛されていることに慣れると、時にその人へのリスペクトや価値を重んじることが難しくなっていく。

 かくも人間は弱い。時に卑小な自分を認めながら、それでも、自分と他人の価値を同等に慮れるようになれたら。
 その難しさを私は知っている。

「四月の永い夢」。
 満開の桜並木の中で呆然と立つヒロイン。
「私はずっと四月の中にいた」
のモノローグが、観終わってからどんどん意味を持ち始め、あの、喪失のぽっかり空いた空間に立つどうしようもなさが蘇ってきた、、
 自身の数々の喪失の記憶。喪失の痛みを乗り越えてこれたのかどうかも自身、定かではない。

 自死した恋人の母親(高橋惠子)がヒロインに語る、
「人生は獲得するものではなく、失うことで前にすすんでいく」という台詞に感銘を受けたし確かにそうだと思える。

 32歳で突然死した親友のアパートの部屋に入らせてもらった時、それまであまりに突然で「死んだ」という意味さえぼんやりしていた私だったが、主の居ない部屋のカーテン、ピアノ、吊るされた服、などを眺めていたら、ようやく圧倒的な「喪失」感が現れて、初めて涙がでた記憶がある。もうここに永遠に戻ってこないひと。
 徐々に薄れていく彼女の輪郭。
 他にも、元婚約者の息子の自死、好きだった若い友人の突然死、「道に倒れて誰かの名を呼ぶ」くらい(笑)恋した幾人もの相手の喪失…。
 映画のエピソードにも鍵となるが、「あの時私がああしていたら」という思いほど怖い想像はない。
 永遠にいなくなってしまった人は何も答えてはくれないのだから。

 誰でも、何かを得れば他の何かを失う、というのは当たり前だけれど、突然の稲妻か津波のように私たちを呑みこむ「喪失」は、どれくらい時を乗り越えていけば「そこ」から出られるのか、痛みが薄れるのか。
 いや、薄れることがなくとも、私たちは何かを失い続けることそのものが生きることであり、失った大切なものを密かに隠し持ちながら、明日また出会う何かを塗り重ねつつ、やがては自身の「喪失」に向かって生き続けるしかない。

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「永い言い訳」西川美和監督 (ネタバレ注意)

 人にとっての幸せのカタチは色々あるだろうけれど、第一には、誰かの役に立っていることを実感できること、誰かを大切にできていること(もちろん大切にされている実感もあればいいが)、これはかなり重要な要素ではないかと思う。
 
 不倫の情事中に妻を不意の事故で失っても少しも泣けなかった主人公は、妻の友人ではやり同じ事故で奥さんを亡くした男の子供二人の面倒をみているうちに、人にとっての本当の幸せは何かを見出していったようだ。

 小さな妹の世話のために中学受験を諦めようとする12歳の少年は、がさつで体育会系の長距離ドライバーの父ではなく、何故聡明でしっかり者の母が死んだのだろうと、自己嫌悪の入り混じった涙ながらに主人公に打ち明ける。
 その時、がさつでも混じりっけないストレートな愛に溢れた少年の父親のことや、自分の言葉に傷ついている聡明な少年を心からいとおしめるようになった主人公が少年に言うのだ。
 「自分のことを大切にしてくれる人のことを軽く扱ったりり貶めてはいけない」(正確な台詞ではありませんが)

これは、妻に申し訳なかったと心から思えるようになった主人公だから言える台詞で。

 皆、そんなことは当たり前ではないか、と思うだろうけれど、人はそんなに強く清くはいられない。
 一番近い関係としては親兄弟が当てはまるが、人は愛されていることに慣れると、時にその人へのリスペクトや価値を重んじることが難しくなっていく。

 かくも人間は弱い。時に卑小な自分を認めながら、それでも、自分と他人の価値を同等に慮れるようになれたら。
 その難しさを私は知っている。

文化村ルシネマ2で本日1回きりの上映「日の名残り」を鑑賞してきた。
チャーチルが何処の国の首相かも分からなかったのは、恥ずかしい限りだけど、
どれだけ有能な完璧な仕事をこなしているひとも
人間としての豊かさ、味わい、他人の感情を汲み取れ、必要とあらば、手を差し伸べられなくては
彼の人生に彩りは欠けている。
背後に、難しい時代背景もあり、執事が雇用主の政治的信条に口など挟めない哀しみも。

いい題材で、原作も読んでもいない自分が言えないが、村上春樹より凄いとは思えない。正直。
ノーベル文学賞発表を前にして乾杯の用意をしながら春樹の名を呼ばれるのを皆で待つほどのハルキストでないけど。

パリ リトグラフ工房idem
現代アーティスト20人の叫びと囁き
「君が叫んだその場所こそが
ほんとの世界の真ん中なのだ」
ー小説家・原田マハの「ロマンシエ」ともコラボした展示会。

ピカソやシャガールなどもここでリトグラフを作成したという工房。アーティストと職人の合作であり、1枚1枚微妙に違う妙。
デビッドリンチとか、本来異なる分野の人もはまった時期があったのか、リトグラフ作品が展示されていた。凄く面白い世界だった。

「生きている限り、バッドエンドは、ない」

今日は立川で映画「火花」を観てきました(延江さん、観たよ~!)
NHKでドラマ化もされてて、神谷役はドラマに出てた俳優が良かった。
菅田将暉はやっぱり凄い才能あるなあ。桐谷健太も木村文乃も良かったけど。

神谷を住まわせていた彼女との別れのシーンや、ラストあたりの解散ライブでの主人公の心の叫び、号泣に近い涙涙のシーンが沢山でした。
ひりひりと焼けつくような青春の痛み、自分への歯がゆさ、尊敬する先輩芸人の彼女への淡い思慕(はあったと思うんだけど)…普通の社会人になることによって、大事な大事なものを捨て行く自分への諦め。自分を諦めるって本当に辛いことで。
映画全体としてよくできていたと思うし、暗闇に2つの花火が上がっていく映像に、主人公と相方の「○○○(台詞忘れた。)。突っ込みで「あほやなあ、お前は」というセリフが流れる導入部分がとても鮮烈でした。
監督が板尾創路であったことも驚いた!

以前、投稿したかなあとあやふやなんですが、日本アカデミー賞の主演男優賞に菅田将暉がノミネートされているので、改めて、私の中で「ああ、荒野」の菅田将暉に魅力され、去年観た邦画でもイチニを争うものだったので、、、

 いつものように、DVD借りてきて、土日に寝っ転がって観るつもりだった「ああ、荒野」。後編の途中から、正座して見入ってしまった。
 共に、親に見捨てられた日本人青年と韓国人と日本人ハーフの青年。孤独の極みの、世界の真ん中のリングで闘う二人はまるで愛を交わし合っているようだった。

 寺山修二の原作を、2021年という近未来の新宿に設定したアイデアも面白いし、こうなるんじゃないかって今多くの大人が想像してる悪しき日本像は、恐怖さえ覚えるけれど、その世界は、現在の私たちのいる界と地続きだ。
 震災難民の女性に背負わされた重い十字架、青年たちに課せられる福祉法という名の自由なき日本。抵抗運動に落とされる爆弾が、よるべなき近未来の私たちの中で炸裂する。
 
 決して近未来の寓話ではなく、人々の「生きんがための闘い」、「愛情への渇望」、「何度も立ち上げる勇気の得難さ」は普遍的だ。
 実の父親に虐待され続けて、吃音もあり孤独を飼いならしてきたかのようなバリカン(リングネーム笑)が、菅田将暉演じる新宿シンジ(リングネーム笑)という親友を得たのに、後編で、シンジに「僕は、新宿シンジ、あなたと闘いたい」と手紙を書き、誘われたジムに移る。
 まるで、ラブレターだ。しかも、多分、リングの上での死を覚悟して。
 ラスト30分もの試合は、痛そうなバイオレンスやスポーツ嫌いな私が感動に震えて号泣した💦
「魂がふるえるような」なんて陳腐な言い方したくないけど、、、もぎとられて、バンバン叩かれてまた胸にしまわれたみたいだった。
 恋人が黙って去って行ったのはなぜか?
去る前日の、彼女を膝にだきながら「あいつはこんないい事(好きな異性との情交)も知らないんだもんなあ。吃音ですぐ赤くなってさ…」とバリカンに親愛の情を込めてつぶやくシンジとのひとときに、震災後初めて幸せを感じてしまったからだと思う。父親のわからない娘を産み、震災に遭い、足を悪くした母親を避難所に置いて東京に逃れた自分に与えた罰だろう。…せ、せつない。どうしようもなくせつない。
 …それにしても、菅田将暉、ヨン・イクチョンの演技は素晴らしかった。
 今年は、映画館、DVD含めて沢山映画を観た。河瀬直美監督新作「光」、吉田修一原作「怒り」、「追憶」、「火花」、「何者」、、、、れも良かったけど、今年最後に正座して震えるような嗚咽をもたらした「ああ、荒野」になっちゃん製アカデミー賞を!!

「四月の永い夢」。
 満開の桜並木の中で呆然と立つヒロイン。
「私はずっと四月の中にいた」
のモノローグが、観終わってからどんどん意味を持ち始め、あの、喪失のぽっかり空いた空間に立つどうしようもなさが蘇ってきた、、
 自身の数々の喪失の記憶。喪失の痛みを乗り越えてこれたのかどうかも自身、定かではない。

 自死した恋人の母親(高橋惠子)がヒロインに語る、
「人生は獲得するものではなく、失うことで前にすすんでいく」という台詞に感銘を受けたし確かにそうだと思える。

 32歳で突然死した親友のアパートの部屋に入らせてもらった時、それまであまりに突然で「死んだ」という意味さえぼんやりしていた私だったが、主の居ない部屋のカーテン、ピアノ、吊るされた服、などを眺めていたら、ようやく圧倒的な「喪失」感が現れて、初めて涙がでた記憶がある。もうここに永遠に戻ってこないひと。
 徐々に薄れていく彼女の輪郭。
 他にも、元婚約者の息子の自死、好きだった若い友人の突然死、「道に倒れて誰かの名を呼ぶ」くらい(笑)恋した幾人もの相手の喪失…。
 映画のエピソードにも鍵となるが、「あの時私がああしていたら」という思いほど怖い想像はない。
 永遠にいなくなってしまった人は何も答えてはくれないのだから。

 誰でも、何かを得れば他の何かを失う、というのは当たり前だけれど、突然の稲妻か津波のように私たちを呑みこむ「喪失」は、どれくらい時を乗り越えていけば「そこ」から出られるのか、痛みが薄れるのか。
 いや、薄れることがなくとも、私たちは何かを失い続けることそのものが生きることであり、失った大切なものを密かに隠し持ちながら、明日また出会う何かを塗り重ねつつ、やがては自身の「喪失」に向かって生き続けるしかない。

永い言い訳」西川美和監督 (ネタバレ注意)

 人にとっての幸せのカタチは色々あるだろうけれど、第一には、誰かの役に立っていることを実感できること、誰かを大切にできていること(もちろん大切にされている実感もあればいいが)、これはかなり重要な要素ではないかと思う。
 
 不倫の情事中に妻を不意の事故で失っても少しも泣けなかった主人公は、妻の友人ではやり同じ事故で奥さんを亡くした男の子供二人の面倒をみているうちに、人にとっての本当の幸せは何かを見出していったようだ。

 小さな妹の世話のために中学受験を諦めようとする12歳の少年は、がさつで体育会系の長距離ドライバーの父ではなく、何故聡明でしっかり者の母が死んだのだろうと、自己嫌悪の入り混じった涙ながらに主人公に打ち明ける。
 その時、がさつでも混じりっけないストレートな愛に溢れた少年の父親のことや、自分の言葉に傷ついている聡明な少年を心からいとおしめるようになった主人公が少年に言うのだ。
 「自分のことを大切にしてくれる人のことを軽く扱ったりり貶めてはいけない」(正確な台詞ではありませんが)

これは、妻に申し訳なかったと心から思えるようになった主人公だから言える台詞で。

 皆、そんなことは当たり前ではないか、と思うだろうけれど、人はそんなに強く清くはいられない。
 一番近い関係としては親兄弟が当てはまるが、人は愛されていることに慣れると、時にその人へのリスペクトや価値を重んじることが難しくなっていく。

 かくも人間は弱い。時に卑小な自分を認めながら、それでも、自分と他人の価値を同等に慮れるようになれたら。
 その難しさを私は知っている。