その21
自転車から降りてきた一人が言った。
「こんなところにいたか。」
彼らは、あの金魚すくいのときの感じの悪い学生だった。
つかつかと寄って来ると、わたしの手をつかんで捻りあげた。
「さっきは、よくも無視してくれたな。」
わたしは、恐怖で声もでなかった。
「今度は、いやでもつきあってもらうぜ。」
「ああ、おまえから、俺ら、誘ったんだからな。」
「どれどれ・・」
いやらしい視線が、わたしをなめまわす。抵抗したくても身体がすくんで動かない。
まわりを見渡しても、漆黒の闇が広がるだけ。ひとっこひとり、通る気配はなかった。
手を捻り上げている男のもうひとつの手がのびてきた。
――そして
浴衣の上から、痛いほど強く胸をさわられた。
「いや・・。」
叫びたくても、恐怖で声がかすれてしまう。
男の腕に力がはいる。
わたしは、足を突っ張り、身体をそらそうとした。
声を上げることもできない。逃げ出すこともできない。
ただ懸命に足に力を入れることしかできなかった。
「ふん、そういうのを無駄な努力って言うんだよ」
その言葉の直後、腕が強い力で引っ張られた。
身体は前のめりに倒れ、結果的に相手の男に抱きつく形になった。
そのまま、身体が押さえ込まれる。
(いや・・いや・・・やめて・・・)
このあと・・何をされるのかも・・わかっていた。
(そんなの、ぜったい・・やだ・・)
でも、抵抗すれば・・・殺されるかもしれない・・・。
ここは、おとなしく身を任せるしかない・・・。わたしは、覚悟を決めることにした。
その22
そのときだった。
「いてーっ!!」
わたしの手を掴んでいた男の手が離れた。
「おねえちゃんに、さわるなっ!!!」
正男が大きな声で叫んだ。
「こいつ、噛み付きやがった。」
その男は、腕を内側から外に振るようにして正男の顔を殴りあげた。
――ガシッ
嫌な音とともに正男の身体が後ろにふっとんだ。
「このやろう!」
倒れこんだ正男のわき腹に男の蹴りが容赦なくめり込む。
それも・・一度ではなく、二度も三度も・・・。このままじゃ、内臓が破裂する・・・。
(まさお・・しんじゃう・・・)
わたしは思わず、その男を後ろから突き飛ばし
正男を抱きかかえるようにしてかばった。
「なにすんだ。こらっ!!」
その男の蹴りが、今度はわたしのおなかにめり込んだ。
強烈な痛みが腹部に走る。正男は、ピクリともしない。
(まさお・・・まさおっ!)
わたしは、正男の身体を揺さぶった。正男は・・動いてくれない・・・。
「どけ!」
(いやよ・・絶対にどかない・・)
わたしは、必死になって正男を抱きしめた。
ふたたび、男の蹴りが、腹部を襲った。痛いはずなのに、なぜだか痛みを感じない。
ただ・・・息をしたくても、息を吸いこむことができない。
「おい、それ以上やるとやばいぜ。」
「だな・・」
正男とわたしを蹴っていた男がしゃがみこむ。
そして、わたしの胸に手をまわし
羽交い絞めのようにして、わたしと正男を引き離そうとする。
(まさお・・まもらなくちゃ・・)
しかし男の力は強く、身体は引き起こされ、正男の肩が手から離れた。
わたしは正男を見た。意識をなくしているのかまったく動かない。
(正男が…死んじゃう…)
その23
わたしのただ事でない様子に学生たちがひるんだ。
「おい、そのガキちょっとやばいんじゃないか」
そのときだった。正男の目がピクリと動き、その目がうすく開かれた。
(まさお・・)
よかった・・生きててくれた。
嬉しさのあまり、わたしは、これから、わたしの身に起きるはずの出来事さえ忘れていた。
正男が、懸命に身を起こそうとする。
(だめ・・起きちゃだめ!)
一人の男が口を開いた。
「まもる、やりすぎだ。そのこを放せ!」
不満そうな顔でまもると呼ばれた男がその男の方を向く。
強い視線がまもるに突き刺さる。押さえた手の力が緩みわたしの身体から手が離れた。
『まもる』を止めた男はわたしに向かって言った。
「…すまなかった」
さっきまでとちがい優しい言い方だった。
「怖かったよな…ごめん…」
リーダー格らしい男のその言葉に男たちの血走った目も、穏やかな色にかわった。
にやにや笑いではなくなっている。
そして、まじめな顔になり、わたしに向かって頭を下げた。続いて、残りのふたりも、頭を下げる。
「ほんとにすまなかった。・・・ごめんな・・。」
そういい残すと、その3人は、わたしたちの前を去っていった。
何が起きたのか一瞬把握できなくなっている。時間にしてほんのわずかのはずなのに…。
あたりを静寂が包んだ。
わたしは、やっと我に返る。急に、足が、がくがくと震え始める。
たっていられずに、わたしはその場に座り込んだ。
その24
正男は、わたしに向き直って言った。
「あき姉さん・・ごめんね。」
「どうして・・?」
「すごく怖い思い・・したでしょう。
ぼくが・・・おまつりなんかに・・・誘ったせいだ。」
正男は、泣いていた。たしかにわたしは、怖かった。
だけど正男だって、どれほどに怖かったことだろう。それなのに…わたしのことを気遣ってくれているのだ。
「ううん・・ぜんぜん怖くなかったよ。
まさおくん・・・いてくれたから・・・。」
わたしは正男を思い切り抱きしめた。正男が照れたように言った。
「ほんとに…ごめんなさい!」
正男のせいじゃない。。正男の頬に涙のあとがある。
まだまだ怖くて泣きたいだろうに必死でそれをこらえている。
わたしは、思わず、正男にキスをしてしまった。
――初めてのキス・・鉄の味が・・した。
唇を離し、正男に尋ねる。
「まさおくん・・口の中、切れてる?」
まさおが、こっくりと頷く。
「うん・・切れてるみたい」(このこ・・ほんとのバカだ・・・)
がまんできずに、わたしは、また正男を抱きしめる。(死んじゃうかもしれなかったのに・・)
勢いでしてしまった初めてのキス。初めてのときは、絶対に好きな人とするんだ。
一生ついていってもいいくらい大好きな人とするんだ・・。そう思ってたのに、自分でも考えるより先に・・・してしまった。
(う~ん・・・まあ、いっか)
その25
普通じゃない状況のせい?考えても始まらない。
嫌な思いもしたけれど、なんだか片がついたようですっきりもしていた。
そう思えたのも・・正男がいてくれたからだ。
こんなに小さいのに・・まだ小6だというのに・・。やばい・・もしかして、わたし正男のことを・・?
(いや・・ありえない)
だって、虫や蜘蛛を喜んで見せるような子なのよ。
(でも・・それもわたしを喜ばせようと?)
いやいやだめだめ・・こいつの術中にはまってる。
「あき姉さん・・」正男が心配そうにのぞきこむ。
「う・・うん?」わたしは、すぐに返事する。
「立てる?」
「うん、もう大丈夫」
足の震えは止まっていた。身体は、ところどころ痛むが
恐怖が過ぎ去ったことで、気持ちはだいぶ落ち着いていた。正男の口元についていた血をぬぐった。
「いてて・・」
「それくらい、がまんよ。おとこのこでしょ!」
シャツやズボンについた泥も落とせるだけ落とした。
わたしはといえば、浴衣が乱れ帯もほどけそうになっている。
ついた泥を落とそうにも汚れがひどく綺麗にならない。帯を締めなおそうとしたが、やり方がよくわからない。
(まあ、適当でいいかな)
正男の懐中電灯が地面に落ちているヨーヨーを見つけた。
「あっ! ぼくのヨーヨーが・・・」
丈夫なはずの青いヨーヨーが破裂していた。
「これ・・父さんに見せたかったのになあ」
(それどころじゃなかったでしょ!)と思いつつも
「じゃあ、わたしのあげるから!」
と、無事だった赤いヨーヨーを渡そうとすると
「赤じゃいやだし・・・」 (こいつ、わがまますぎ!)
その26
でも・・・ついさっきまで、あれほど怖い思いをしたというのに
正男と話していると、心が楽になってくる。
あのとき、覚悟は決めたけれど、ほんとうにされていたら今頃は、とてもこうして笑ってはいられなかったろう。
脳天気な正男にはちがいないけれど
わたしの心に傷をつくらせたくないって・・頑張ってくれたんだよね。
心の中で何度もありがとうを繰り返しながら、わたしは正男の手を握った。
「じゃあ、帰ろうか」
正男も、握り返してくれる。それが嬉しくて・・わたしも、強く握り返した。
家では、芳江おばさまが出迎えてくださった。
浴衣の泥や正男の様子を見て、おばさまの顔色がかわった。
「いったい・・何があったの・・」
おばさまは、わたしと正男を交互にみた。
すぐに、おじさまと母のいる大広間に連れて行かれた。
わたしは、事情を話した。
怖いはずの体験だったのに、正男のおかげで、そうではなくなっていることも
きちんと、付け加えながら・・・。
「怖かったでしょうに・・」
「痛いところはないの?」
矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「うん、正男が頑張ってくれたから。」
「うん・・痛いところなんて・・ないから!」
それでもおじさまは、納得できない。
「許せない・・!」
「警察にすぐに届ける・・」
(やめて・・そんな大げさにしないで)
もちろん、わたしにとっていい体験ではなかった。
怖かったし、恥ずかしかったし、いったんは、もうだめだって思ったくらいだもの。
でも・・・確かに、ひどい人たちだったけれど、心底悪い人たちではなかった。
最後は、きちんと謝って帰っていったのだから。
その27
(きっと・・もうあんなこと、しないよねっ)
最後に見せてくれたあの人たちの笑顔を思い出しながら、わたしは言った。
「大丈夫なの。
ほんとに・・ほんとに、大丈夫だから!!」
「そう言えって、言われたんじゃないの?」
母がわたしの顔を覗きこむ。
一瞬、意味がわからなかったが、すぐにピンときた。
母は、わたしが脅されて口止めされているのではと思ったのだ。
思わずおかしくなって、わたしは笑った。
「まっさかー。
そんなんだったら、わたし、明日東京にかえるっていうもん。」
その言葉を聞いて、母たちはやっと安心したようだった。
わたしの懸命の努力により、どうにかおじさまや母の怒りは収まった。
(おなかを蹴られたことは・・内緒にしとかなくちゃ)
わたしが話している間、正男は何をしていたかというと、ただ、うんうんって、うなずいていただけだ。
そして、あげくには・・
「おなか・・すいた!」とだけ。(あんた、なにかんがえてんのよ)
でも、めっちゃ頑張ってくれたんだし正男のおかげで、こうして何事もなかったんだし・・。
ということでその後は、正男がいかに勇敢に守ってくれたかだけを話すことにした。
「おまえがなあ・・」
信じられないと言いながら、おじさまは嬉しそうに目を細めた。
喜ぶおじさまに対して、おばさまの怒りが爆発した。
「あんた、ばかじゃないの!
そんなこといって、相手が、また怒り出したら
このこたち、どうなってたか・・・わからないのよ!!」
その28
おばさまが、おじさまを睨みつける。
「そう言われれば、そうだな・・・。」
「まあまあ・・なんともなかったんだし・・」
母が助け舟を出す。
「京子さんが、そう言われるんだったら・・」
おばさまは、わたしに向き直って言った。
「ほんとは、すごく怖かったでしょうに。 あきちゃんって、優しいのね・・。」
「いえいえ・・そんなこと・・・。」
おばさまの言い方のほうが、すごく優しかった。
わたしは照れてしまって・・多分、顔が赤くなってたと思う。
「でも、大事にならなくて、ほんとによかった。」
そう言うと、今度は、芳江おばさまは、泣きはじめた。
「おまえが泣いてどうするんだ。 それより、風呂沸かしてあるだろ。」
「ああ、そうだった。 すぐ入れるから、あきちゃん、先にね。」
おばさまは涙をぬぐい、お風呂場に案内してくれた。
「ぼくも入りたいのに・・」
一緒についてきた正男が文句をいう。
「じゃあ、一緒に入る?」と、私がからかうと
「はいる、はいる、はいるーーっ!」
「あきちゃん、ほんとにいいの?」
うっ!
おばさままで、冗談、真に受けるなんて・・・。
『なにバカなこと言ってるの!』ってたしなめるでしょうに。
わたしは、返事に詰まった。おばさまは、にこやかに笑っているだけなのだ。
こうなると、いまさら、冗談だとも言いにくい。
正男は、すでにその気になっている。(おいおい・・まじ?)
「まさおくん、おなかすいたんじゃなかったの?」
わたしは、焦って切り返す。
「ううん・・・ぜんぜん!」(やばい・・こいつ確信犯だ)
その29
わたしは小4になると同時に、ひとりで、お風呂に入るようになった。
誰かに言われたわけでもないけれど、はだかを見られることに抵抗を覚え始めたのだった。
それ以来、一度も誰かと一緒に入ったことはない。
あっ!
移動教室とかは、別よっ。あれは、しかたないでしょ?
でも・・このシチュエーションは、なあに?
相手は、いくら小学生とはいえ男の子だし
わたしだって、これでも、いちおうは、花も恥らう乙女なのだ。
(自分でいうか?)
一緒に入るなんて、絶対ありえない。
でもここまできて、やっぱ嫌とも言いにくい。
わたしって変なところで引けない性格なの(またも涙目)
だけど、このときだけは、まじであせってた。
自分でも、身体が大人に近づいているのがわかる。
それ見られるのって、やっぱ恥ずかしすぎるもん・・・。
というわけで、わたしは、一人で入れる口実を必死で考えようとした。
(だめだ・・ぜんぜん浮かばない)
今思うに、そのときのわたしの目、きっと宙を泳いでいたはず。
と、そのとき無神経な正男が、またわたしに言った。
「ねっ! 早く入ろう!!」
「では、ごゆっくり・・・」
そう言うと、おばさまは、わたしたちに背を向ける。
ああぁ、おばさま、行かないで!!
わたしは、目で、おばさまを引きとめようとする。
おばさまが、振り返った。(やった・・念力通じた!)
さすがは、おばさまだ。
思いなおして、正男に話してくれるなんて。
でもその思いは、次の一言で、もろくも崩れた。
「あっ、必要なものやバスタオルの場所は
正男が全部知ってるから、わからなかったら聞いてね。」
その30
それだけ言い残すと、おばさまは戻っていかれた。
見ると正男は、もう全部脱いでいる。(あんた、はやすぎ)
「先に入るから、すぐにきてねっ」
「う・・うん」
こいつ、恥じらいというものはないのか。
というか、こいつにデリカシーを求めるわたしが間違っている?
さっきの出来事。
正男のおかげで気持ちは楽になれたけれど・・
でも、はやく、全部を洗い流したい気持ちもあった。
(しかたないか)
わたしは、浴衣の帯をといた。
タオルで前を隠しながら、おずおずとドアをあける。
(ひろい!)
その浴室は広かった。
大人が3人くらい同時に入れそうな湯船。洗い場も大きく、わたしのうちの2倍はある。
正男が、湯船からお湯をくみ出し身体にかけている。
そして、身体を洗いもせずに、そのまま湯船に飛び込む。
「なんで、ちゃんと洗ってから入らないの?」
「あったまってから洗うんだよ。」
正男は悪びれずに答える。
「だってお湯が汚れちゃうでしょ?」
「うん? そういうの気にしたことない!」
ありえない。このうちって、いったいどうなってるのよん。
わたしは、前を隠したタオルを
しっかりと抑えながら、洗い桶に腰掛けた。
正男が嬉しそうに、湯船のふちにあごを乗せてわたしの方を見ている。
(やばい・・あらえない)
どうしよう・・。
わたし、危機的状況に陥ってるよね・・。
このままじゃ、はだかを見られてしまう・・・。
そ・・そっか!
郷に入れば郷にしたがえだ。
「わたしも入る!」
わたしも身体を洗わず湯船に入ることにした。
その31
もちろんタオルは離さない。熱すぎると、わたしは入れない。
片手を入れて、湯加減をみた。(ちょうどいい感じ)
「ちょっと向こうみててね。」
さすがに入る瞬間は見られたくない。正男は頷いて後ろを向いてくれた。
わたしは平静を装い湯船をまたいだ。(あったかい)
お湯がからだを優しく包んでくれる。
「もう・・こっち見てもいいよ」
正男が、すぐに振り向く。目と目があった。
まさか出会ったその日に、こうして一緒にお風呂はいるなんて・・。
正男を見ながら思った。
小6くらいの男の子って女の子の身体に興味が出てくるころだよね?
わたし?わたしは小5くらいから、すでに意識してたような・・。
まあ個人差は確かにあるとは思うけど!
正男・・このこの成長具合は、どうなんだろう。
(あっ! あくまでも精神の方のよっ。)
そんなことを考えながら、もう一度、正男をじっと見つめた。
ただ、嬉しそうに笑っているだけだ。邪気が感じられない。
これって・・もしや、わたしを女とは思ってないのでは?(それはそれで、ちょっと屈辱)
どうみても一緒に入れたことだけを嬉しがっているようにしか見えない。
さっきの学生たちみたいに、じろじろ見られるのは嫌だけど
ちょっとくらいは、照れてくれたっていいのになあ・・・。
(もしや、わたしって、自意識過剰?)
なんてことまで、ちょっとだけ考えた。
(この間・・ほんの10秒足らず)
やっぱり、わたしだけが意識しすぎてるのかしら?
と、そう思ったときだった。 正男が、とんでもないことを言い出した。
その32
「あき姉さん?」
「うん?」
「湯船には、タオル持ち込んじゃだめなんだよ。」
「なんでよっ」
わたしはタオルをしっかり前に当てながら聞き返した。
「お湯が汚れるからタオルはだめだって、お父さん言ってたよ。」
(なんなんだ・・このいえは!!)
「だってタオルがないと・・・見えちゃうでしょ。」
「なにが?」
正男が、きょとんとした感じで答える。
「なにって・・」
わたしは、返事につまった。
「ねえねぇ、なにが見えちゃうの?」
正男は、畳み掛けてくる。
子供っぽいふりをしながら逆にわたしがからかわれている?
(だったら負けられない)
わたしの負けず嫌いが顔をだした。よし! ここは、本音を言わせなくっちゃ・・。
「まさおくん?」
「うん・・?」
「あなた、わざと言ってるんでしょ?」
「うん!」
正男は、わたしの目を真っ直ぐに見ながら嬉しそうに返事をした。
あっけなさすぎる。
「もしかして、このタオルの下、見たいの?」
「うん、みたいっ!!」
「ほんとに・・見たいの?」
「うん、みたい、みたい、みたいっ!!!」
(こ・・こいつって)
見られても減るもんじゃないと思ってたけど、こいつに見られたら・・絶対に、減る!!
「タオルを持ち込んじゃだめだっていうのは嘘だったの?」
「ううん、それは、ほんとだよ。」
「そっかあ・・タオルは湯船に入れちゃだめなのね。」
「うん、だめなんだよ。それやると、父さんに怒られる。」
あの温和そうなおじさまが怒るってどんなときなんだろう。わたしは、ちょっと興味が出てきた。
その33
「ねえねぇ、どんなときに怒られるの?」
「悪いことしたときだよ。」
(あたりまえじゃん)
「ちがう・・もっと具体的にきかせて。」
「ひとつ・・・嘘をついたとき。
ひとつ・・・ずるいことをしたとき。
ひとつ・・・人を傷つけるようなことをしたとき。」
「人を傷つけるって?」
「自分がされて嫌なことは、絶対に人にしてはならないんだよ。」
「それ、お父さんから言われてるの?」
「うん、この3つだけ守ってれば、大丈夫なんだって!」
雄一おじさまって偉すぎる。ちゃんとしつけもできてるのね・・・。
「じゃあ、一番、最近で怒られたことは?」
「カエル・・・。」
「カエルって?」
「お風呂に、カエル入れて、そのまま・・お湯沸かした。」
「な・・・なんですって!!!!!!」
「そのカエル出すのを忘れてたら、母さんがお風呂に入った。」
「そのカエルって・・大きさは?」
「10センチくらい・・・かな。」
このお風呂に・・10センチのカエル?わたしは一瞬、パニックを起こしそうになった。
「母さんがね・・大声を出したんだ」
(あたりまえでしょ・・わたしなら心臓が止まる!)
「それで、ぼく、カエルのこと思い出して・・すぐにお風呂場に行ったの。」
「・・・・」
「お湯の中みたら、白いおなかを上にして・・浮いてた。」
わたしは、絶句した。想像もしたくない光景だ。
「このお風呂に・・浮いてたの?」
「うん・・・。」
(あ・・ありえない)
「それって、いつごろの話なの?」
「3日まえだよ。」
(つい・・最近じゃん・・)
その34
白いおなかを見せて浮いている・・大きなカエル。
そんなものが入ってるなんて、絶対に、あるはずがない。
考えただけで鳥肌が立ってくる・・というか想像もしたくない。
想像だけで青くなるのに、全くの無防備で湯船のふたを持ち上げた・・芳江おばさま。
(ぷるぷるぷる・・)
気の毒なんて言葉では、とても言い表せない。
よくぞ、ご無事でいらしたものだと、わたしは尊敬した。
「怒られた?」
「うん、思いっきり、殴られた。」
「その日のご飯は?」
「もちろん、食べた!」
よく、殴られるだけで、すんだわね。
家を追い出されたっておかしくないいたずらなのよ。
というか、いたずらの域を超えてるじゃん。
それにしても、信じられないようなことをする。
この年頃の男の子って・・みんな、そうなんだろうか。
そういえば、つい3日前だって言ったわよね。もしや・・破片とかが、残っているのでは・・。
きれいに片付けられた正男の部屋を思い出した。
あのおばさまのことだから、きっと消毒までされてる・・よね?
でも・・・もしかして、まだ浮いていたらどうしよう。
わたしは、お湯を食い入るように凝視した。
お湯以外の、生物がいたら・・。もう、タオルどころじゃない。
即座に飛び出すつもりで目を皿のようにしてみた。(だ・・だいじょうぶそうだ)
「きょうは、お湯だけみたいね。」
「うん・・普通は、お湯だけだよ!」(あたりまえだっ!)
それにしても、なんてやつ。
こんなやつにキスをしてしまったなんて・・。しかも、わたしの大事なファーストキスを・・・。
その35
「他にも、怒られたことあるの?」
「うん・・あるよ。」
「それも、お風呂でのこと?」 わたしは、恐る恐る、確認する。
「ううん・・ちがうよ。」 わたしは、ちょっとホッとした。
「でも、あのときも殴られたんだよな・・。」
確かに、かわった子だと思う。
でも、全然、悪気を感じない。驚くような話だったのに、なぜか笑っていられる。
まあ・・目の前にカエルがいないからかも知れないが・・。
正男が話し始めた。
「この近くって、田んぼばかりなんだ。」
「うん、くるとき、そう思った。」
車窓に広がる景色。片側は山の斜面。
そして反対側には、ずっと田畑が広がっていた。
家は少なく、コンビニなども、ほとんど見かけなかった。
「田んぼの、あぜ道には水が張ってあるんだ。
「うんうん」
「その水路には、小さい魚や水生の虫たちがいてね。」
「水生の虫?」
嫌な予感・・。
「うん、ゲンゴロウや水カマキリ、たまにタガメもいるんだ。」
「あ、きいたことある。おたまじゃくしとか・・食べちゃうんでしょ」
「すごい、お姉ちゃん、よく知ってるね。」
いつの間にか、あき姉さんから、お姉ちゃんになってる。
まあ、どっちでも気にしないけど。
「テレビとかで見たことあるから!」
わたしの知識は、ほとんどがテレビや図鑑で知ったものばかりだ。
正男のように、実際に目にしたことは、ほとんどない。目や耳からの知識。
実際に触れてわかっていく知識。同じ知識でも、後者の方が、絶対、記憶として残るだろうな・・。
正男を見ながら、そんなことを・・ふと考えたりもした。
「でね・・・よく、そのあぜ道で、遊んでたんだよ。」
その36
泥だらけになりながら、楽しそうに遊んでいる正男が見える気がした。
わたしの住んでいるところは、ほとんどがコンクリートだらけ。
公園や道路の脇の植え込みには緑も土もあるけれど、それって・・・つくられた自然だと思う。
その田んぼで一緒に遊んでみたいって・・わたしは思った。
「遊んでるだけだったら良かったんだけど。」
「なにか・・やっちゃったの?!」 (このさい、なんでも聞いとこうっと)
「うん、5年になったばかりの頃なんだ。」
何があったのか、聞くのが怖いくせに、それでも興味を覚えた。
正男って、わけがわからないような・・魅力がある。
「あぜ道には、小さなカエルとかも一杯いるでしょ。」
またも、カエル?
でも・・・小さいのだったら、まだ許せる。
それに、いるでしょって言われても、そんなの知らないし!
「そのカエルを狙う奴がいるんだよ。」
「それって鳥のこと?」
「いや、鳥じゃなくって・・・蛇!」
「・・・・今度は・・蛇なの?」
もう、矢でも鉄砲でも、もってこいだ!
ここまできたら、多少のことでは驚かない。
それに、お風呂もいい湯加減で、気持ちよかったのもある。
「うん! でね・・その蛇、捕まえようと思ったんだ。」
「どうやって?」
「あっ・・お姉ちゃんも蛇をつかまえてみたいの?」
「ううん・・・それは、絶対いや!」
「だよね…母さんも、すごく怒ったし・・」
正男は、ちょっと残念そうだ。
でも、こればかりは気の毒にならない。
気持ちのいい話ではないが、でも・・確かに続きが気になった。
「蛇・・・って、どんな蛇なの?」
「ええとね! 赤地に黒の縞模様・・・たまに真っ黒いのもいるよ。」
その37
うわっ・・これも、やばそうな話だ。
「正式名称は、シマヘビ。
真っ黒いのは珍しくって、カラスヘビって言うんだよ。」
正男は、自慢げに話してくれる。
でも・・・こんな説明を聞いて
――『すごいねっ!』
なんて言ってくれる女の子なんて、日本中探したっていないよね?
わたしは蜘蛛や虫も苦手だけど、蛇は、もっと苦手だ。
だいたい、足がない段階で、恐ろしすぎる。
しかも足がないくせに、シュルルルって動き回れる。
ちらっと正男の顔を見た。
すごく、嬉しそうに話している・・。
しかたないか・・・日本で唯一の女の子になってあげよう・・。
「すごいねっ!」
「うん、ぼく、蛇にも詳しいんだ。 図鑑も、いっぱいもってるし!!!」
褒めていいやら、けなしていいやら・・・。
(まあ、ここは、無難な質問でも)
「毒・・もってるの?」
「ううん、毒はもってないよ。頭が丸いもん。
まむしとかは、毒もってるから、頭が三角なんだよ」
「うんうん、それは知ってる。でも、なんで、怒られたの?」
「とりすぎたんだよ・・・。」
「とりすぎた?」
「うん、シマヘビって田んぼのあぜ道にいるんだ。
タガメ探しとかしてると、ときどき見つかるんだけど、すぐ逃げていくんだよ。」
(向かってきたら・・泣いちゃう)
「でね・・1時間でどれくらい集められるか調べてみようと思ったんだ」
「ううう・・さすがね」
「でしょ?!」
「うんうん・・すごい!!」
まったく褒めていないのに、正男はすぐに勘違いする。
「バケツと青竹を用意して、あぜ道まわりを始めたんだよ。」
「・・・・・?」
その38
「バケツはシマヘビを入れるため。
青竹は、頭を叩いて気絶させるためなんだ。」
「気絶させるだけなの?」
「うん、ヘビだって生き物だもん。
木刀みたいに固いもので殴ったら、しんじゃうよ」
「まさおくんって、やさしいのね。」
「えへ・・まあ、それほどじゃないけど」
正男は、嬉しそうな顔をして照れている。(なんだか・・かわいい)
「大きさは、どのくらいなの?」
「1メートルくらいだよ。 大きくても、せいぜい・・1メートル50くらいまでかな。」
(やっぱ・・かわいくない!)
正男は、喜んで話し続ける。
「あぜ道歩きながら、青竹で、あぜ道の周りの草を叩いていくんだ。
そうすると、あせったシマヘビが、逃げ始める。
そこを狙うんだよ。 身体を叩いても逃げられちゃうから頭を狙うんだ。」
わたしは、頷くしかなかった。
「一回くらい叩いても、全然気絶しないんだよ。
だから、3~4回は、叩かないとだめなんだ。」
わたしは、返事ができずに聴いている。
「気絶すると、動かなくなるんだよ。」
「それ・・まさか、手で掴んじゃうの?」
「うん、そのまま掴んで、バケツに入れるんだ。
入れ終わったら・・・また、次のを探すんだよ」
(こいつの手・・もう触るのやめよっと)
「で、一時間で、バケツに半分以上になったんだよ。」
(単に気絶してるだけなんでしょ?・・だったら)
「その、ヘビさんたち・・息を吹き返すんじゃないの?」
「うん、ときどきね・・中には、手に絡みつくやつもいるんだ」
(うっ・・・しぬ・・・・)
わたしは、恐る恐るたずねる。
「そういうときは、どうするの?」
その39
「逃げないように、また、頭を叩くんだよ!」
正男は、こともなげに話す。わたし、なんで、こんなやつといとこなんだろ(><)
「それで、なんで怒られたの?」
「たくさん取れたから自慢したかったんだ。」
「で・・おばさまに、見せたの?」
「うん・・・」
「そしたら、すっごく怒られて・・捨てて来いって言われた。」
「・・・・・」 (おばさまの気持ちなら、めっちゃわかる)
「でもね・・なんだか、もったいなくって・・・。」
「もったいなくて?」
「うん、ふたをして、床下に隠しておいたんだよ。」
(ううう・・ありえない)
「それで?」
「そしたら、ふたがはずれて、ヘビが逃げ出した・・」
信じられない話だけど、なにしろ正男だ・・・。
しばらくは、もう何があっても、驚かなくてすむかも。
「そしたら、父さんが仕事から帰ってきてね。」
「うん!」
「母さんが泣きながら、父さんにヘビのことを話したの」
(芳江おばさま、気の毒すぎ)
「そしたら、いきなりげんこつで、殴られた。」
「それ、あたりまえよ」
「いま思えば、わかるんだけど
そのときは、見せたかったんだよ・・」
(わたし、見たくないから!)
「で、そのヘビたちは?」
「集められるだけ集めて、すぐ河に捨てに行ったよ。」
「もう、ヘビさん・・集めてこないでね」
「うん、もう集めない!」
「絶対だからねっ!」
「うん! 絶対!!」
正男って、かわいいと思うのだが
なにしろ話がすごすぎる。
聴いてるだけで、どっと疲れが出てきた。
ずっと湯船につかったままだし、少しのぼせてきたみたい。
そろそろ、髪とからだ、洗いたいな・・・。
その40
「ねえ・・?」
「なあに、おねえちゃん?」
「まさおくんは、からだ、洗わないの?」
「あらうよっ!
でも、ぼく、あとでいい。 お姉ちゃんから洗うといいよ。」
だめだ・・ほんとに上せてきたみたい。
このままじゃ、湯あたりしちゃう・・。
わたしは、冷たいシャワーをあびたいくらいになっていた。
「うん・・じゃあ、わたし、先に洗うね。」
からだがつらくってタオルで隠すどころではなくなっていた。
やっとの思いで湯船を出ると、洗い桶に腰掛けた。自分でも血の気が引いていくのがわかる。
(だめ・・ふらふらする)
「お姉ちゃん!」
正男の声が遠くに聴こえた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!!!」
正男が、湯船を飛び出して、わたしを支えようとしている・・気がする。
タオル・・・どうなってるんだろう・・・。
(だめよ・・・恥ずかしい・・・)
でも、言葉が出ない・・。
返事をしたいのに、意識が遠のいていく。
気がつくと、わたしは布団に寝かされていた。
横に、母と正男がいた。
「やっと気がついたわね」
「おかあさん・・」
「湯あたりしたみたい。 ずっと湯船に入ってたんでしょ?」
「ごめんね・・お姉ちゃん」
正男の目が赤い。
「ぼくが、夢中になって、話してばかりいたから・・・」
(このこ、わたしが気づくまで、ずっといてくれたんだ・・)
「もう、大丈夫よ!」わたしが言う。
「だって・・だって・・・」まさおが言う。
「ううん、・・まさおくんのせいじゃないから!」と、またわたしが言う。
母が、口を開いた。
「朝から飛行機にのったりしたし
他にも色々あったから、ちょっと疲れただけよね」
「うん・・そうなの・・だから心配しないで・・」
正男は、自分のせいだと思いこみ
自分自身を責めていたのだろう・・ほんとうに泣いている。
そんな正男が愛しくて、わたしは正男を抱きしめたくなっていた。
でも、母の目の前では、やはり恥ずかしい。
母がいなかったら・・・きっと・・・(照れ照れ)
わたしは、抱きしめるかわりに別のことを言っていた。
その41
「ねえ、あした、また一緒にお風呂入ろう。」
母がびっくりしたように、わたしを見る。
なにか言いたげな表情を見せたが、すぐに笑顔にかわった。
「あなたたち、たった一日で、そこまで仲良くなったの?」
「えへ・・秘密よねっ!」
わたしはそう言って、正男にウインクをした。
次の朝、みんなで朝ごはんを食べた。
たった一日しかたってないのに、ずっとここにいるような気がする。
「あきちゃん、身体は大丈夫か」
雄一おじさまが、心配そうに尋ねる。
「うん、ちょっと湯あたりしただけなの」
「正男のやつが、わがまま言ったんだってな」
そう言うと、おじさまは正男を睨んだ。
「あきちゃんと一緒に風呂に入ったんだって?
おまえ、何、考えてるんだ!!」
「お姉ちゃんが、一緒にって言ってくれたんだ。」
怖いもの知らずの正男も、このおじさまだけは怖いようだ。
半分、涙目になっている。
(いい気味だ・・もっと叱られちゃえ)
なんてことをわたしが思ったと思う?
(ここまで読んでる人には、言わなくたってわかるでしょ?)
自分で言うのもなんだけど、わたしだって年頃の娘なんだよ!!
その42
たとえ間違ったって、
男の子と一緒にお風呂になんて入るわけがない。
どんなに頼まれたって、変態扱いするだけよっ!
でも昨日は、なぜだかちがったの。
色々あって、正男との距離が、すごく縮まっていたし
ずっと、正男と一緒にいたかったから・・・。
だからわたしは、おじさまに言った。
「おじさま?」
「うん・・・どうした、あきちゃん?」
「まさおくんの言うとおりなんです。
わたしが、一緒に入りたかったんです。」
「まさか・・」
「ううん、ほんとです。
まさおくん、すごく・・かわいくて・・・」
わたしは、それ以上は、
恥ずかしくなって言葉が続けられなかった。
きっと、顔も、真っ赤になっていたと思う・・・。
「芳江が言ってたこと、ほんとだったのか・・。」
おじさまが、驚いたような顔をした。
「だから、言ったでしょうに」
おばさまが、わたしを援護する。
もとはといえば、おばさまのせいよっ!
一言『冗談よね?』って、言ってくださってればよかったのに。
でも、一緒にお風呂入ったおかげで
楽しい話もたくさん聴けたし、正男のこと・・もっと好きになったかも。
虫が好き
蜘蛛も好き
それに・・蛇まですき
考えれば、ほんとにとんでもないやつなのに全然憎めない。
憎めないどころか、どんどん可愛くなってくる。
(わたし、どうしちゃったんだろう)
「そうよ、お兄さん、子猫がじゃれあってると思えばいいのよ。」
「あは、そうか! まあ、うちのやつはドラ猫だがな。」
大人3人が大笑いをした。
その43
そんなこんなで、楽しい朝ごはんが終わった。
東京にいたときは、母とふたりだけの食事が多かった。
こうして、全員がそろって食事できるのは、ほんとにいいなって思った。
食事の後片付けを手伝いたいと言ったのだが
おばさまは、わたしの仕事を取らないでと笑われた。
「あっ! だったら、正男の勉強を
ちょっとでいいから、見てくださる?」
「まさおくんの勉強?!」
「このこ、国語も算数も全然だめなのよ。
この前のテストなんて40点だったし、漢字も全然かけないの。」
「塾には行ってないんですか。」
「この辺には、学習塾がないの。
まあ、あったとしても、この子が行くとは思えないけど。」
そういうと、おばさまは、正男を困ったような顔でみる。
「勉強なんて、しなくていいよ。 ぼく、昆虫学者になるんだから!」
「また、ばかなことを言ってる。 勉強しないでなれるわけないでしょ。」
昆虫学者とは、大きくでたわねっ。
――だけど・・・
正男だったら、なれちゃうかもって、どこかで思えるから不思議。
それにしても、算数40点は、いくらなんでも・・・。
「このこね・・5年生まで、80点は、いつでも取れてたの。
それが、6年の分数が始まってから、さっぱりわからないみたい。」
「あっ! 分母がちがう分数の計算ですよね。
それ、わたしも苦手だったんです。
塾で習った方法、覚えてるので、わたしでよかったら・・。」
「まあ、あきちゃん、頼もしい。
それじゃ、お願いしちゃおうかしら!」
「ううう・・ぼく、勉強きらいなのに・・。」
「なにいってんの! せっかく、あきちゃんに教えてもらえるのよ。」
その44
「そうだ、そうだ! ちゃんと感謝しながら教えてもらうんだぞ。」
おじさまが、またもや、正男を睨んだ。
「し・・しかたないか。 じゃあ、先に、裏山に、遊びにいってからね。」
まさおは、とことん勉強が嫌いなようだ。
「まさお!!!」
おじさまの声が、低くなった。
「わかったよ。ちゃんとやるよ。」
こんなやつに、教えられるんだろうか。
前途多難って、きっとこういう状態を言うんだと思う。
「じゃあ、行きましょう。
問題がすいすい解けるまでは 午前も午後も、ずっと勉強だからねっ」
「う・・うん」
「こら、まさお! お願いします・・だろうが!」
「あき姉ちゃん・・お願いします。」
「うん、一緒に、頑張ろうね!」
「じゃあ、あきちゃん、
大変だろうけど、よろしく頼む。
まじめにやらなかったら、いくらでも殴っていいから!」
「はい、そうします」
わたしは、つい受け狙いの返事をした。
案の定、大人3人は、またも大爆笑。(わたしって、やっぱ演技派?)
わたしは、正男の手を引いて彼の部屋までつれていった。
机の上を見る。
あいかわらず、汚すぎる。これじゃ、ノートを広げられない。
「ちょっと待っててね。」
正男を座らせると、わたしは机の上を片付け始めた。
「畳の上でもいいのに・・。」
「なに、ばか言ってるの。 勉強は机の上でするものなのよ」
散らばった本やノートを本箱にしまっていく。
ずっと片付けたことがないのだろう。
なんと4年次のプリントまである。かたづけるたびに・・ほこりが舞ってしまうのだ。
その45
「ねえ・・おばさまから水で濡らした雑巾をもらってきてね。
それと、乾いた雑巾も一枚もらってきて!」
「うん、わかった。すぐもどってくるね。」
それにしても、こんなにものすごい机・・初めてみた。
昨日見たときは、単に、ものが乱雑に置かれているだけで
すぐに整理できると思ったのだが・・・これはそんなレベルではない。
それに、ただ、しまっていくだけでは、本棚まで埃まみれになってしまう。
正男が戻ってきた。
水の入ったばけつと2枚の雑巾。
それと、わたし用の椅子も一緒にもってきてくれた。(あら! 意外と気がきくのね)
「じゃあ、はじめるわよ
・・まずは掃除。 一枚は、濡らして、よく絞ってね。」
「うん」
わたしは、きつく絞った雑巾を受け取ると
本やノートの表面を拭きながら、本棚に並べていく。
からぶきもしようと2枚用意してもらったが、一枚ではとても足りない。
仕方ないか、もう一枚も濡らしちゃおう。
正男を見ると、ただ、ぼけっと眺めているだけだ。
まったく手伝おうという気が感じられない。(だれの机だと思ってるのよ!)
「ねえ、もう一枚も、濡らして、きつく絞ってくれる。」
「うん」
「これと交換ね。 この雑巾ちゃんと洗って、また絞っておいてね。」
「うん、わかった。」
雑巾を水につけただけで、そのまま絞ろうとする正男。
「それはダメ!ちゃんと、ごしごし!」(なんでここまで言わせるわけ?!)
あっという間に本棚がいっぱいになった。
入りきれないものは机にしまうしかない。わたしは机の引き出しを、あけた。
わたしの目に、どんでもないものが飛び込んできた。
思わず、息がとまった。
その46
そこには、干からびた・・とかげの死骸が入っていた。
しかも・・色んな種類のとかげが・・・。
「なんなの・・これは!!」
「それは、トカゲとヤモリだよ。」
「だから、なんで、こんなもの机に入ってるの?」
「なんとなく・・・」
「なんとなくじゃないでしょ。 はやく、捨ててきてっ!!!」
ありえない。
こいつ、何、考えてるんだろう。
まだ、動いてなかったから良かったけれど
これが、生きて、うねうね動いてたら、わたしはショックで死んでいる。
さすがに正男も、わたしの剣幕に焦ったようだ。
「わかった・・すぐ、捨てるから」
正男は、そのトカゲの死骸たちを集めると袋に入れ始める。
いったい、何匹いるんだろう・・。
2分ほどかけて、その机の中のトカゲたちは全部、袋の中に納まってしまった。
正男の机は、正面に大きな引き出しがひとつ。
右サイドに、小さな引き出しが4段になってついている。
わたしが悲鳴をあげたのは、その正面の大きな引き出しのほうだ。
「待って・・右の4つにも・・何か入ってるの?」
「う~ん・・・しばらく開けてないから覚えてない!」
(もういやだ)
「わたし、開けるの怖いから、自分であけてね。
・・・で、虫とかいるんだったら それも全部・・・捨ててね。」
「わかった。」
わたしは、机から、ちょっと離れて見ていることにした。
正男が、右側の引き出しを、引っ張った。
袋の中に、また・・何匹もの・・虫たちの死骸が入れられていく。
袋が、いっぱいになったが、引き出しは、まだふたつも残っている。
「袋、また持ってくるね」
正男がにこやかに、わたしに笑いかける。
その47
わたしも笑い返したが、表情は引きつっていたと思う。
(お化け屋敷より・・怖い)
正男が、別の袋をもって帰ってきた。
残った二つの引き出しをあける。
そこからも、さまざまな昆虫の死骸が引き出され、袋の中に詰められていく。
「おわったよ。たぶん、これで全部だと思う。」
「たぶん・・?」
「うん」
「たぶんじゃ嫌よ。もっぺん、ちゃんと調べてね」
わたしは、もう完全に涙目になっている。
「うん、ちゃんと調べる」
正男は、無造作に、引き出しの中をかき回す。
かき回すがさごそという音も・・こわい。
また、いくつかの虫の死骸が、袋の中に収められた。
「たぶん、もう・・いないと思う。」
(だから・・・たぶんじゃ、いやなの。)
「だめ、もっと、よく調べて!
全部、全部、見つけないとだめよ。」
正男は、引き出しを引き抜いて畳の上に並べた。
必要なもの・・が、ほとんど入っていない。ごみ同然のものしか見当たらなかった。
「ね? この中身って、必要なの?」
「ううん、別に、いるものなんて、ないけど・・・」
「だったら、全部、捨てましょう。 もっと大きな袋をもらってきてね!」
「わかった。すぐもらってくる。」
もどってきた正男は、引き出しの中身をすべて袋にいれていく。
その様子をみながら、わたしは思った。
もしかしたら、この中身って、正男には、大事なものかも知れない。
それを、こうして、全部捨てさせていいんだろうか・・。
少しだけ気の毒な気もしたが、でも、わたしのほうが耐えられない。
虫やとかげの死骸が入っている机の上での勉強だよ。
そんなこと、絶対できっこないよね ?!
その48
正男が、ぽつんと口を開いた。
「やっぱ、生きてる方がいいもんね。
死んだのは、動かないから、つまんないし。」
(動いても嫌だけど)と答えようとして、わたしは、その言葉を飲み込んだ。
だって、正男の言い方って、
わたしのことを気にして言ってくれてるように聞こえたから。
そうじゃないかも知れないけれど、わたしの気持ちを察して、
そして・・・気遣ってくれてるように聞こえたから。
中身がからになった5つの引き出しが残された。
わたしは、それを、雑巾で綺麗に拭き上げていく。
小さな羽根のようなものが残っていたので、それも取り除く。
虫やとかげ・・痕跡も残らないくらいに・・ぴかぴかにしなくっちゃ。
拭き上げながら突然思った。
(そういえば・・机の下は?下や下の奥の方とかにも・・何か落ちてるのでは?)
でも怖くて、わたしには見ることはできそうもない。
「ね? まさおくん!」
「なあに?」
「机の下も見てくれないかしら。
せっかくだから、そこも綺麗にしたいよね?」
「うん、わかった。」
正男が机の下に、ごそごそともぐりこむ。
「いろいろ、落ちてるよ。」
(やっぱりだ><)
「それも、全部、拾ってね。
拾い終わったら、掃除機かけてくれる?」
「うん、わかった。」
机の下に正男がもぐりこんでいる間に
わたしは、引き出しを何度拭きなおしたかわからない。
たぶん、買ったときと同じくらいに綺麗になったと思う。
正男が、机の下から這い出てきた。
「拾えるものは、全部、ゴミ袋にいれたよ。」
「えらいわね・・」
その49
そのゴミ袋も、ほぼいっぱいになっている。
何が入っているのか気になったが、間違っても見たくはない。
「じゃあ、掃除機をとってくる。」
正男が、部屋を出て行った。
わたしは、本棚に入りきれなかった本やノートを
一個ずつ、拭きながら、机にしまっていった。
不必要そうなプリント類は、そのままゴミ袋に放り込む。
勉強用のノート一冊だけを残し、机は完全にかたづいた。
机の上が、急に、広々となった。というか、これが、普通の机よねっ。
その広々とした、机の上にも、雑巾がけをする。つくえのうえも、ぴかぴかになった。
正男が、掃除機を持って部屋にもどってきた。
机の下にもぐりこみ、掃除機をかけ始める。
「終わったよ・・下も綺麗になったよ。」
正男が嬉しそうに言う。あっという間に2時間がすぎていた。
勉強の予定が、大掃除にかわってしまっている。
気のせいではなく、からだじゅう、ひどく埃っぽい。
しかも単に埃っぽいだけじゃない。虫ややもりの死骸と格闘してしまったのだ。
わたしは、このまま勉強しようという気持ちになれなくなっていた。
なんだか、気持ち悪い。お風呂に入って、からだ・・きれいに洗いたい。
それに・・正男・・昨日、からだ洗ってないよね?
この子、今、虫、さわりまくってたし、この子の身体も洗いたい・・・。
(でも・・自分ちじゃないし、夜まで我慢しなきゃ・・・)
なんてことを考えていると
おばさまが、お茶とお菓子をもって部屋にやってきた。
「まあ、こんなに綺麗になって・・みちがえたわね」
そして、いっぱいになった大きなゴミ袋を見ながら言った。
「これって・・机の中にあったもの?」
その50
「はい、そうです。」
「もしかして、中身、全部捨てるってこの子が言ったの?」
「はい、そうです。捨ててくれるって」
「わたしには、絶対、さわるなって言ってたくせに・・。」
「そうなんですか。」
「うんうん、宝物だから、ダメだって言ってたのよ。」
「宝物?」
「まあ、この年頃の男の子って
しょうもないものを、大事にするからね。」
やっぱり、そうだったんだ。
内心、そうじゃないかと思いながら
わたしが、どうしても嫌だから、正男に捨てさせた。
正男・・・全然嫌がらずに、全部、捨ててくれた・・・。
正男の様子をみた。
わたしと顔が合うと、照れたように笑った。
「じゃあ、おやつ、食べよっか。」
「うん、たべる!!」
「食べ終わったら、勉強だからねっ」
「ゆっくり・・食べよっと・・・。」
おばさまが言った。
「ねえ・・あきちゃん?」
「はい?」
「お風呂、張りなおしたのよ。
片付けで、大変だったでしょ。
よかったら、勉強の前に、入れるわよ。」
「ほんとですか・・すっごく嬉しいです。」
おばさまの心使いが嬉しかった。
「よかった。京子さんが言ったとおりね。
正男のつくえのことを話したら
あきちゃんは、綺麗好きだから絶対掃除をするはずだって!」(うっ 読まれてる)
おばさまは、部屋に置いてある二つの大きなゴミ袋を見ながら続けた。
「そして、掃除のあとは 必ず、お風呂に入りたがるって聞いたの。」
「おかあさんたら・・・」
「もう、いつでも入れるわよ。 おやつでも、お風呂でも、好きな方をさきにねっ」