今から35年前のNHKラジオの圓生師匠の追悼で、先代圓楽が語った、圓生師匠の想い出話、カセットに録音して何度も聴いた良い話なんだな~

私の友人だった佐伯君が文字にしたのが未だにHPに残っていた、彼は私と全く同じ日に生まれた方で、星座も血液型も同じだったが7年前の2008年6月16日に亡くなった。この音をもう一度聞きたくて部屋中探したが出てこない。持っていそうな奴は皆、死んであらゆる落語の音源を集めているK氏は「圓楽大嫌い」で持っていない。誰も持っていないかな!!

http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/のページの圓生→想い出 に入るとこの速記に出会えます


総領弟子が語る「我が師我が道」/三遊亭円楽(1980.8.9)

私は寄席というものがだいたい秋から冬、この時期の寄席というのがとても好きなんです。
昭和29年の秋でした。いまの浅草の田原町、国際通りですね、
田原町駅から国際劇場へこうまっつぐ向かいますと約300メートルばかり行った左側に
浅草末広という、これはまあ下がストリップ上が落語という。ま当時はまだそういうところへその、
人が立ち止まってもなんかこう回りの人があの人はなんつって、
白い目で見るような感じの時でしたから..

で私はそのじぶんは結核を煩っておりました。まあいつ死ぬかというような状態でした。
血も吐きましたしですからなんとなくこの陰々滅々としたメロドラマですとかそういうものは
あんまり好みませんのでどちらかというとこの噺、
落語でもって自分のなんとなくその沈みがちな気持ちを慰めていた。
とー、そのちょいちょい行っておりますと、だんだんだんだんとこの落語というのは、
その馬鹿馬鹿しいお笑いじゃないんだなっていうことがわかってまいりましてね。

で特に多くの明治生まれの素晴らしい大家の方々が、お客様が5人多くて10人、
まその後日、解ったんですが寄席ではこの10人以上お客様をツばなれとこう言うんです。
1つから9つまでは9つといいますね10になるとトツとはいいません。
従って10人以上はつばなれ..
このいつ行っても寄席はつばなれしないんですね、
もうお客様が本当に2、3人というような具合
で、そこで長年練って練って練りぬいた全く素晴らしいその話芸をですねえ私が聞く事が出来た。
でそのなかで、亡くなりました故六代目円生、まあ私が後に弟子を入りして師匠と仰いだんですが
んー、始めはさほどこう私は惹かれなかったんです。
ところが聞くたびにそのー、レパートリーの広さといい
そして滑稽噺もよければ芝居話もよければ人情噺もいい、まあその音曲噺もできるという
そしてたまにすっと踊りもいたしますし、なんとまあこのおそらく日本の持つ邦楽、邦舞、
んー、それからまあ日本の話術とでもいいますか、
邦話なんていうとまるでお寺みたいになりますが、
そういう全てのものが渾然一体となってもう素晴らしい芸なんですね。
はー、もう私の師と仰ぐのはこの人しかいないと
思いつめて、もうどんどんどんどん通いつめておりました。

そうしますと、あのー、入り口におりました、これはくりからもんもんのお兄ちゃんでした。
その方が「坊や、落語が好きだね」「ええっ」
「んー、いっそのこと噺家になったらどう」「はあ」
「まあま、気持ちが定まるまでここはもう木戸御免だ入場料なんか
払わなくていいからどんどん来てね。
もう私がいる限り、こんちわって言って、すっと中に入っちゃいなさい」
もう入場料払わないでどんどん入れたわけですね。

そしていきますとね、いくら入場料払わなくていいとはいってもこんなにお客様が少ない。
それなのに私がまた只で入っては申し訳ないという気持ちがありましてね、
んーでちょっと足も遠のきがちなんです。すると、しばらくたって行きますとこのお兄ちゃんが
心配しましてね「どっか具合でもわるかったのか」って
「いや具合が悪いわけじゃないんですが、とにかくいくら只でいいといっても申し訳なくて」
「なんだそんな気兼ねするんなら、いっそのこときみ噺家になっちまえ、
噺家になれば別にその誰に気兼ねなしで、もっとも客席へは回れないけど
こんどは楽屋で聞けるんだから」
あっ、そうだなと思いましてね。

そして、あのー私は噺家になろうとまあ覚悟を決めたんです。
で、その頃私は21でしたから、したがって或る程度冷静さもありましたし、
ただその衝動的な弟子入りではなかったですね。
少なくとも自分自身をこう主張できなかったらつまらない、そして資本もなく、
大した学歴もない、そういう者がこの自己を主張できるっていうのは
このスタイルが一番いいということで
ましてや滑稽落語だけだったら自分の本当の主張というものはできませんけども、
人情噺という形を借りれば、その人物を通して自分の考え方をお客様に訴えることが出来る
とそれならばこれに限るというようなことでですね、

えーそして師匠に、ま師匠が降りて来ましてね、
んー、あのちょうど田原町の交番がありますそこらあたりまで
当時はつむぎの地味な着物にでグレーの角ガイトウを着まして、そしてソフトを被っていました、
えー足は紺足袋にそして柾の通った桐の下駄ですね。
で、そのー師匠をつかまえてですね「師匠、弟子にして下さい」っていいますと、
しばらく私の顔を見ておりましてね、「きみはお生まれは何処?」っていいますから
「ええ、あの浅草です」
「ふーん、で親代々?」
「そうです」「えー、家はなにやってんの」
「お寺なんです、日照山不退寺、易行院、まあそのたいてい当時の江戸っ子は
みんな俗称で呼んでおりました助六寺というんです」
「ほう、あそう、お寺の息子さん、はあ、よしたほうがいいですよ、やめなさい、
ん、噺家なんてねそのー楽をしてきた人にはとても辛抱できないからやめなさい」
「いえ、そんな師匠がお思いになるほど僕はあの楽な人生を送ってきたわけじゃないんですよ、
学校行きたくても学費がない、病気になっても病院にもいけない、
というような今は極貧のどん底なんです」
「んーそれだったらなおさら私も君のことを養うことは出来ないし、えーだから無理だね」
ってどっち転んだってだめなんですね。

で「まあ、そんなことおっしゃらずに師匠なんとか、もうとにかく無論もう苦労なんてものは
戦争中からしつくしてます、食べ物なんていうものは、うどんこでこしらえた
すいとんなんていうのが最高のご馳走で、糠を食べて1週間すごしたことだって
ありますから大丈夫なんです。」
「私は食べなくたって割りに生きていけるんです」
「んー、そう、それじゃ、ねえ、じゃあ、まっ、それほどまで決意してるんなら、
んー私のほうで通知をするから、きみんとこ電話は?」
「はっ、ございます」「何番?」で、これこれ、家の電話番号教えまして...
と、待てど暮らせど電話こない、そりゃあ来ませんよね、
電話師匠の方からかけさすなんてな失礼千万な話で、これはいけないなと思って、
私はすぐにちょいとしたお土産を持ちましてね、

で、師匠のお宅に伺ったんです。でまあとにかく会って話してみますと
「それじゃあ、君の両親がどう思ってんだか、両親の意向を聞きたいから」
それから私はおやじに話したらもうこの話はこわれちまうと思うから、
おふくろに「たのむからおかあさん師匠の家に行ってください」でおふくろをつれてって、
まあおふくろのこってすから「ひとつまあ、いたらない子供ですけどよろしくお願いします。
びしびし鍛えてやってください」ってなことでやっと許されまして...

で、私があのー、竹ノ塚という所に住んでいましたから、と師匠の家が三田のぎょらん坂ですね
えー弟子になりますと通うわけです。でどうしてもほぼトータルしますとね
電車待ちやなんかありましていまのように頻繁に電車が出ておりませんから、
したがって約2時間かかるわけです。

で朝、私は大体5時に起きてそしてま6時ちょっと前に家を出まして、で8時ちょっと前に師匠の家
につくわけですね、まあ遅れても8時にはつくわけです。とその頃はまだ師匠は寝ております。
で私が行く、まもなく師匠が起きる、顔を洗いはじめますと、布団をたたみまして部屋の掃除をして
そして庭の、庭がかなり広かったんです。で庭を掃除しましてねもう秋から冬にかけては落ち葉が
ばらばら、で裏がお寺ですから、もうそりゃもういいように葉っぱが落ちてくるわけですね、
それをまあ掃除などして、ですっかり9時ごろなって奇麗になりますと御膳を出す、
でまあおかみさんが全部支度をしてありまして、この御膳の上に載せます。
そうすと、まあまあご飯食べようってなことになって一緒にご飯食べて、...

そしてなかなか稽古つけてくれませんでした。
で名前もくれませんでした。どうしたわけかその後にだだだっと私の後に弟子が入って来たんです
がその弟子たちにはすぐ名前を付け、してすぐ稽古をしておりましたが私にはなんだかしらないけ
ど話を教えてくれない、でも僕はこういうもんだと思っておりましたからやっておりました。

で、ひと月、二月くらいしましたらやっと教えてくれました。そして八九升という小噺なんです。
「せがれ、いま向こうを通ったのは横丁の源兵衛さんじゃあねえかい?」
「え っ?ええーあれ横丁の源兵衛さんだよ」
「そうか、おらあまた横丁の源兵衛さんかと思った」
ってこれだけのもんなんですよね。
そういうもの、こういう小噺がいくつかありましてそれをまあ羅列するわけなんですが
そういう八九升という小噺集を教わりました。
で、小噺というものがもう無駄を省いて、そしてお客様にポーンと分からなければいけないんだ、
明けても暮れてもそればっかりやらされました。
その稽古はつけてもらえばもらうほど、実にその師匠の芸の奥行きっていいますかそういうものを
私感じましてねえ、はあー客で聞いているときには、何気なく聞いていたことをこんなにまで
配慮してやってんのかと、こんな部分まで深くその解釈して、そして演じてんのかと、
とにかくただただ驚きましたね。

ところが当時は、そのーなんといっても落語界では小さん、三木助というこの2人の新鋭がですね
どんどんどんどん出てきたわけですね。そして当時の落語評論の最高峰であった
久保田万太郎、安藤鶴夫、これらの人々がなにかにつけてその小さん、
三木助をこうもう誉めるわけですね。
さあ、私の師匠はちょうど中間にあってそれを、..
それは小さん、三木助よりもはるかな先輩なんですけれども、
この人たちがこう追い越してきてしまう、ずいぶんあせっておりましたですね。
しかし偉いところはぐずぐずぐずぐずそのぐちをこぼさなかったです。

それで独演会をやろうということで上野の本牧亭、
というのは当時はもっともっと広い会場はたくさんあったんです。
しかし当時の師匠とすればそのいっぱいにする自信がなかったんですね、
ですから本牧亭であれば、ざっと100人も入ればほぼいっぱい150人入ったらもう
超満員という、そのぐらいの寄席ですから、したがってそのぐらいは
自分で動員できる自信があったんでしょう、
独演会はやってもお客様さんが来なかったなんていったら、このくらいみじめなことはないんです、
世間の物笑い、世間というのはつまり楽屋仲間の物笑いになっちまうわけですね、
それがためにそういう小さなとこを選んでやったんです。

私はそのときの噺をはっきりこの耳で覚えております、とくに「らくだ」、
この噺などは師匠は生涯を通じて何回もやってないでしょう。
にもかかわらず、ものすごい出来でしたね、
私が時計を計っておりまして1時間12分くらいありました、すばらしいもんでしたね。
それから梅若禮三ですとか、ともかくも今、既成の噺家のやらないようなものをどんどんどんどん
ネタおろしをして、そのどれもこれもが水準以上なんですね、それでもう独演会の前日からむろん
私どもを含めまして口きかなかったです。ピリピリしておりましたね。
独演会のときなんか本牧亭なんていうのは楽屋でちょっとしゃべってもそれが客席に
聞こえちまいますから、もうシーンと水をうったようになっておりました、
もう楽屋でカタンと湯飲みを落としても
音が高座に響きますから気をつかいました。

で、やがて、そのどんどんどんどんお客が来る、お客がもう入りきれない、
それで円生は凄い、円生は凄い、となってきました。
そうしますと、世間の評価が高まりますと、評論家も取り上げざるをえなくなってくるわけですね、
で、晩やむを得ず、いやいやだったんでしょう、安藤さんていうかたは、生理的にまあ私の師匠が
嫌いだったんですから、昭和34年だと思います、東横ホールで「文七元結」を師匠がかけました
でめずらしく「円楽お前あのー聞いてなさい」とこういうんですね、
まっ当時昭和34年はまだ僕は円楽じゃありません、三遊亭全生といったんですが、
しかし話が混乱するために円楽で通しますが
「円楽、聞いておきなさい」で、めったにねえ自分の噺を聞いとけなんていうような
師匠じゃないんです。で私は聞いておりました、その文七元結の
出来の良さといったらありませんでしたね。
すばらしいもんでした。
でそれが芸術祭参加なんですよね、「今年の芸術祭は私が頂きましたよ」なんて
言って降りてにっこり笑ってたんですからよっぽど自分でも自信があった、
ところがそれが見送りなんです、新聞評やなんかは当日円生の文七元結は
素晴らしかったとほめてんですよ、ですけれども音沙汰なしなんです。

で、師匠はがっかりしましてね、その翌年「もうあんな芸術祭なんていいかげんだよあんなものは
だからもう私はもう今年から捨てます」今年から捨てますっていうわけでその年は首提灯、
これはね、師匠はあまり自信のある出し物じゃなかったんですよね、で首提灯を出しました。
しかも、その日にもう仕事をどんどん採っちゃっいましてね、
本来ならばうちの師匠はそういう芸術祭参加とかなんとかというと
その日にそなえて仕事は絶対断るんです、どんないい仕事がきても、
なのに仕事みんな引き受けちゃいましてね、もう東横は本当は受け持ちが30分以上
あるんですけどこの首提灯を18分ちょっとでやっちゃいましてね、
ぱぱぱーとやって、でスーとさよならっていっちゃたんです。
したら、その首提灯でその年の芸術祭大賞なんですね。
ですから、師匠が「あああっ、んーこんなものだねー」なんてね、
それはもらったから決してうれしくないってことはないんですけども
かなりショックを受けておりました。

それで「円楽、私はもうこの噺は寄席でやりませんよ」つまり芸術祭大賞をとったその首提灯、
円生の首提灯てのはどんなもんだろうって聞いた人に失望を与えてしまうと
これは私の親父つまり五代目の円生も、そしてその師匠である品川の円蔵も大変得意にしてて、
特に品川の首提灯なんていったら...
師匠は常に言っていましたが、うちの師匠の品川の首提灯をお前に聞かせたかった、
そりゃあ素晴らしいもんだった、あれからみれば私の首提灯なんか下の下だと
こんなもので芸術祭大賞貰ったんじゃ、もうめんぼくなくてしょうがない。
でその後はあんまり高座にはかけませんでした。
たまにごくごくお客様に注文されてポツンとやるくらい、
それまでは寄席で自分が得意でないとは言って
いながらも非常に好きではあったんですね、やってはいたんですよ寄席ではちょいちょい、
10日に一遍は必ずこの首提灯はやってたんです、
それなのにその後はやんなくなってしまいました。

まあそういうようなことがありましてね、その後にどんどんどんどん円生、円生
ってもてはやされるようになって、その後にNHKで「おはなはん」っていいましたか、
あれに師匠が出たんですね、そうしますと
たまたま東京駅、私と一緒、旅へ行くんで電車を待っておりますと
女学生の修学旅行車がこう地方から東京駅に着いたわけですね、
でその女学生たちが、わぁーっと師匠のところへ押しかけていきまして、
そして「円生師匠あのーサインして下さいおはなはんで見ました、」大変なんですね、
で、まあとにかく電車くるまでちゃんと筆でサインして、で電車乗ってから
「お前さんねー、テレビというものは恐いもんですね、
あたしは明治38年、日露戦争のときからづーっと寄席の高座へは出ているんだ」と
それだけど、こんなにサインなんてね、そりゃ楽屋へひとりふたりの方が色紙をお持になって
ちょっと師匠サインして下さいっていうのは有り得るけど、しかしこんな
駅頭でですねサインをせがまれたなんというのは生まれて初めてだと、
してみると、わたしが60年間寄席へ出てたのは一体何なんだ。
たったテレビにポーンと何回か出ただけでこれだけの人気、
だから若い人がテレビへ出て人気者になったら世の中を誤ってしまうね、
お前もそのうちの一人なんだよって、今度は小言がきましてね。
「はぁ、よくわかります、いずれテレビは自粛して、だんだん出ないようにいたします」
ってその頃言いましたですんがね。そお言われましたね。

私が振り返ってみますと、わりに通いの弟子でしたし、そんなに師匠と密着してません。
ですから逆に師匠をよく観察出来たかもしれないんです。
稽古なんといいますとね、そりゃーうちの師匠はわたしと稽古するときは
まーなんとその惨忍性をおびているというか、凄いもんでしたよ、
とにかく想像を絶するものがありましたね、一緒に稽古しにきていた
仲間たちが「どうしてあんたにはあんなに厳しいんだろう」ってなことを言っていました。
一言半句「だめ、やり直し、今日はおしまい、お前なんかに教えられない、明日おいで」
ってな調子なんですね。誰に会たって、そんな口調でしゃべる師匠じゃないんですよ、
でその直後に、よそのお弟子さんが来ると
「あっ、結構ですね、ああーその調子、それでどうぞ寄席でおやりなさい」
なんてなことを言うんですね、でわたしにはこう....

で思うにやっぱり「大声で叱るは真の親子なり」で自分の総領弟子だし、
こいつにはあたしの本当の気持ちを植え付けておこう、そういう気持ちがあったんでしょうね。
だったって、弟子がね、どれほどかわいいかと言うのは、あたしがお七という、
かつぎやのお七ですね、これをやったんです。
そうしますとね、長尾という高校の教師をやってた人、いまでも存命です。
その長尾さんが私を評して「全生、円生の物まね」と書いたんですね、
で次ぎのときに、私が蒟蒻問答を出しましたそしたら「全生、噺家の素質なし」、
それが東京新聞へでたわけですね、で私の師匠はその
新聞とっておりますんで見たわけですね、
私はその新聞とってなかったからみなかったんですが..
大変に私が行ったら怒ってましてね「なんだこれは批評じゃないじゃないか、
こうこうこういうところが悪い、こういうところをもうすこし直せばもうちょっと良くなる
と前向きな、少なくともこれから一所懸命勉強して
伸びていこうという若手の噺家の希望を持たせるようなものならともかく、
なんだこれは、ただ憎悪とか悪意とかいう以外の何者でもないじゃないか、
こんなもの論評になるか、ふざけんじゃない」
ってわたし以上に怒ってるんですね、それであくる日、東横ホールへ行きました、
そこで高座に出て開口一番、「私の弟子の全生を長尾という人はこういうような評を、...
これはもう評になっていないと、こんな無礼な話があるか、
私はいままで文筆で生業をしている人達には逆らったことはなかった
何故ならば、あとでもってこういう方達は、非常に執念深いからなんかあだをしてくる、
それを恐れて私は今までこの弟子にも文筆を業とする人に逆らうんじゃないと私は言ってきた、
しかし、今日ばかりは黙ってはいられない、もしもこのうちの全生がいっぱしの
噺家になったらあんたはどうするんだ、
あなたは、勝手気ままに自分の嗜好でもって、好みで書いたんだからいいとしても、
これによっていっぱしの噺家になった時にこの子がどう思うか、
またなってくれりゃあいいけどこのまんま
こういう人にこういうこと言われるんじゃ本当にだめなんだと思って、やめたり
あるいはやめないまでも、絶望して噺家としてだめんなったら一体あんたはどういう
言い訳をしたり、どういう謝罪をするのか。」
まあそういうようなことを言ってですね約5分ばかり、ですからあとの噺は
受けやしませんよね、そんなこと言っちゃうと。
そこまで言ってかばってくれました。
だから、師匠というものはそういうような、いざというときには
バシッと弟子を保護してくれるんだなと..
ですからそのときに私はこの師匠とならば一緒に死ねるなと思いましたですね。

ですから後日、三遊協会というものを、結成して、あれはまあいろいろ長い間の私どもの
預かり知らぬ古くからの怨念みたいなものがあるんです
昭和の時代になってから落語協会、芸術協会と2つの協会がまとまったわけですがね、
それも昭和の10年ちょっと前、にそれまではもう落語界は離央集散は常なんですからね
会なんてものは出来たりつぶれたり、出来たりつぶれたりしてるわけです。
そのたんびに若手というものはみんな喜んだわけです、ていうことは、
出来るときに必ず若手が抜擢される訳ですね、ですから亡くなった桂文楽、
亡くなった春風亭柳橋、この両看板がともども
大正6年に、五代目の左楽さんが会をつくってなんとか自分の手ごまを作らないといけない
というんで当時駆け出しの2人を無理矢理真打にしてしまったんですからね。

ですから若手にとってはこれは喜びなんです、しかし幹部にとっては
自分の会が崩壊したりなんかするんですからこれは大変なことですね、
死活問題になってくる、それでまあそういうもんがからんではいたんですけれども、
いずれにしても私は理論的にはこと真打問題、とかその他に関しても
師匠とはずいぶん見解を異にしていたんですけど、師匠がどうしても辞めるということになれば
これはしかたがない、随分師匠に辞めちゃいけない、辞めちゃいけない、絶対やめちゃいけない
師匠はもしものことがあれば落語協会だけじゃなくて、落語界上げての宝物なんだからいずれは
お葬式でもなんでも立派なものになるんだから、だからここでもって変な反逆を起こして
晩年を汚しては、晩節を汚してはいけないと、どれほど言ったかわかりません。
でも、いや人間というものはどんなに非難を浴びようが自分の説を曲げて生きてるっていうのは、
これは生きているんじゃないんだ、そういうところは非常に頑固なところがありましたから、
結構です、それならば、じゃっていうんで行動をともにしたわけです。

おかげで、亡くなるまでほとんど1年間にそうですね150日から200日一緒に旅をしました。
つねに落語界の将来のこと、そして噺家をどう育てていかなければいけないか、そのことについて
ものすごく気をつかっておりましたね。
おそらく、今現在、こういうような、私が過去落語協会の会長というのはづっと三代見てますが
みなさんそれぞれ芸は立派な人でしたけども落語の将来とか噺家をどう育てなくてはいけない
とかそういうような、大所高所に立った未来への展望っていうのはお持ちでなかった。
うちの師匠はちゃんと持ってました。そういう点で小学校もろくに出てない師匠がどうしてこんな
大所的な見地から物をみることができるんだろうと驚いたことがあります。

亡くなりまして、もうそろそろ1周忌なんですが1979年9月3日、この日も私はちょうどお昼に
師匠の誕生日ですから、師匠は1900年の9月3日生まれなんです、で誕生日なもんですから
靴を弟子一同でプレゼントしよう、ということになりまして、私がまいりまして師匠どんな靴が
いいですかっていったら、茶の靴がいい。梅生という弟子に買いにやらしました、
そうしますと、これがちょっと履いてみたら重いって言うんですね、
いままで師匠が履いていたのと同じ靴なんですよ、なのに重い...
もう少し軽いのがいい、じゃ、梅生にそれ今買ったばかりなんだからもう一遍
ご足労だけど、いって買いなおして来なさい、で買い直してきました、
しかしとうとうそれは履かずじまいだったんですけど。

その日も私がこれから用事があるんで帰ろうとしますと、いやお前帰らなくったっていい、
もうちょっと話しといで、とうとう2時まで2時間ばかり、それも例によって芸談でした。
鰍沢という噺、好事家の方がなんぞていと鰍沢っていう噺は明治の末期に亡くなった
名人といわれた円喬がうまかった。
その後もデブの円生もやった、そしていま三遊亭円生、林家正蔵そういう方々がやる
がしかし、鰍沢という噺は世間の人が、なにかっていうと鰍沢っていうけど、わたしは鰍沢なんて
あんな内容のくだらない噺はないと思います、師匠に率直に言ったわけですね、
そしたら師匠が「キミねー、それが違うんだ、内容がない、それを聞かすことができるのは
芸人の腕しかないんだと、だから内容のあるものはストーリーを語っていっただけだって
お客さんはついてきてくれる。
内容のない話をあるかのごとく聞かせられるのは、もう素晴らしい芸以外のなにものでもない。
だから芸人というものは、常に自分がどれほどの芸になったかっていうのを、お客様に問うために
この鰍沢という噺をやるだ、というようなことを言っておりました。
それが芸談をやりそして、私は最後の別れになってしまったんです、
その日の夜8時40分に駆けつけた時にはもう呼吸はしておりませんでした。

ただ私は、師匠に常々、これは師匠が言ったわけじゃないんですけど、学びましたのは、
天才っていうものは決して、そのー天性のものじゃないんだ、
天才というものは、努力の持続なんだということですね、
それを師匠の日ごろの言動から私は学びました。
まさにうちの師匠は、天賦の才に恵まれた人じゃなかったと思います。
だけど、その熱心さ、これは私はなにも噺家だけにどどまらず、どんな職業にたずさわっても
自分がその道のプロならば、誇りをもって死ぬまで自分のたずさわっている仕事の
究極を究めるだけの努力を死ぬまでづっと、持続させなきゃいけないんじゃないか、
そういう気がいまでもします。
だから、私はなにも仮に、もしもですよ、噺家をやめても円生の、亡くなった師匠の、あの生き方を
きちっと自分が把握して行動していけば、どんな商売をやっても、決して私は人に後れはとらない
ちゃんと一人前の人間として、大通りを闊歩できると確信しています。