人を育てるってなんだろう。
近年、働き方改革をはじめとするコンプライアンスなどがどの会社、社会で認識改革が行われている。
でもその弊害なのか相手への伝え方、伝わり方、受け取り方が捻じ曲がってしまうというような光景も見受けられる。
どの時代も、人間関係の構築に誰しもが悩み、もがいているとは思うが昨今の人間関係の悩みはきっと認識改革のアップデート中に引き起こされる弊害だと思う。
ところで貴方は誰からどんな育てられ方をして欲しいですか?

きっとこんな風に尋ねられることは無いかもしれませんが、あるとすれば厳しくして欲しいや優しくして欲しい、褒めて欲しい…など受け取り方次第のやり方や感覚に委ねた回答にならざるを得ないでしょう。
これらが悪いって話ではないのですが、
相手とコミュニケーションとっていく中でぶつかった時、親でも上司でも一度は言われたことがある言葉「もう、過去(学校)じゃないんだよ、大人(現在)なのだから甘えないの」みたいな言葉を一度は言われた事があるはず、
この言葉、きっと言う方は思ってた、伝えてた事
つまり期待を相手にしていたのに相手(私)が期待に応えられてないと感じて出る言葉だと思う。
だから感情は理解できるんです。
でも、だからこそ思う事があります。

世間一般、今の世の中の人々は、
信頼と信用という言葉、行動を一緒くたにして認識している。
これって何が違うかって、
信頼はキャッチボールで例えると
相手が自分とキャッチボールをしてくれるという相手と自分の間にある間(ま)のような、
信じてボールを投げてキャッチしてくれると頼る事。
信用はキャッチボールでいうところの
相手が自分に向けて投げ返してくれるかどうかの話
相手がどんな球で投げかえしてくれるのか
キャッチできる球をきちんと投げ返してくれるかという相手がミットに投げ入れられる人間だと期待とミスはしないという自分の慢心さがみえる
要は自分が手を出さずして用(役立つ)立つ人間として相手を見ている事
だから信頼は人間関係を構築する上で大切にするべき事だけど、
信用はしてはいけないと大人になればなるほど思うし痛感する。
自分より大人(社会)は賢くて、ずるくて、卑怯な敵が多く蔓延っていて私には理解が追いつかなかったり、私たちの気持ちをお座なりに置いていくから戦う前に太刀打ち出来ないけど、
そういう大人(社会)にはなりたくないな、飲み込まれたくないなと思う。
今感じているこの気持ち、「ん?」とか「納得できないな」を大事にしたいなって思う今日この頃。
最後に、私が新卒で入社した上司に言われた言葉、
「俺のことはいくらでも頼って信頼してくれて構わない。だけどな、俺の事は絶対信用するな、俺も人間でミスをする。だから、信用してなあなあにしてほしくないし、ミスそのものを怖がらないでいい、その分何度も確認する事、俺もruby(私)の事は信用しないから、何度も確認するが意地悪とかではなくそうゆう風に仕事をして欲しい」と
つまり、【信頼しても信用するな】という事
これを聞いた時私は、ズドーンと雷を打たれたような感覚になった。
社会人なりたてで右も左もわからないガキでも理解できる分かりやすい上司との関わり方をその方から教えられた。
運良く私は、その上司の元で仕事をさせてもらって沢山迷惑かけたけど、職場変えて色々な人と出会うけどまだその人以上の教育の人格者にで会えないくらいな人を新卒で引き当てた。
未だに記憶に残る言葉をくれた元上司に大感謝。
私もいつか教育者になったら、『学校』じゃなくて『社会』を下の子達に教えて育てられる人になりたい。