現代音楽・音楽の未来のために | Ruby☆リュクスDays

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芸術の世界で生きる私。極上の芸術・美しい音楽・魅力的な人・リュクスな時間に触れて、日々審美眼に磨きをかけます。

「現代音楽」のコンサートの客入りは良くない。

「現代音楽はとっつきにくい」…よく耳にします。
ええ、実験的音楽でもありますし、実験は成功もすれば失敗も多いしね。

「とっつきにくい」…それどころかクラシック音楽界の中で新しく生み出される「現代音楽」があることさえ知らない人も多い。クラシック音楽会は「クラシックな音楽だけを演奏する世界」というのが多くの認識なんでしょう。

これは『クラシック音楽』というジャンルの名称に問題がある。
「クラシック音楽」は、本来「西洋を根源とする学術的音楽」という意味。
そうすればここから「現代音楽」=「現代曲」が生まれるのも理解しやすいのでは。

かつてはモーツァルトもベートーヴェンもその時代には「現代曲」でした。しかし現代の「現代曲」とは立ち位置がちょっと違うかも。
モーツァルトの「現代曲」は「時代の最先端を行くかっこいい流行の音楽」として大人気でした。
そう、今で言うところの「ポピュラー音楽」だったのです。

しかし今や「クラシック音楽」と「ポピュラー音楽」は対語として扱われるほどにかけ離れ、「クラシック音楽」はまるで骨董品のよう。この距離を埋めないと「クラシック音楽」はますます古色蒼然としたものとして扱われてしまうのじゃなかろうか。

ベルリンフィルでもメトロポリタン歌劇場でも日本でも、客層の高年齢化が問題になっています。若い人にはなかなか受け入れられない。
小中学生を対象としたオーケストラの音楽鑑賞教室に於いては、担当の先生(=ほぼ音大出身)が「子供達にとってはきょうはナマのクラシック音楽を聴く一生で最初で最後の機会になるかもしれないので、心して聴くようにと事前学習してきました。」とおっしゃる。
いやいや、音楽の先生がそんなんでどうしますか。

クラシック音楽がこんな扱われ方で、さらに「クラシック音楽の現代曲」はいちだんと難しいと言われるけれど、言い換えれば「西洋を根源とする学術的音楽(=クラシック音楽)の最近作られた曲」は、皆さんテレビから毎日のように耳にしていますよ。

コマーシャル音楽もドラマの挿入曲も映画音楽も「クラシック音楽」を勉強した作曲家が作っています。
たとえばサントリーウーロン茶のCMで有名な中川俊郎さんは桐朋音楽大学作曲家出身の現代音楽界の鬼才。楽譜も存在の意味を成さないほどの実験的で偶然性な音楽を作り上げます。ハリウッド映画「レッドクリフ」の岩代太郎さんは東京芸大作曲科出身。

こうして「クラシック音楽」を学んだ彼らの生み出す音楽は意識しなくても私たちの周りにあふれ、自然に耳に残っているのです。ほら、そうすれば「クラシック音楽の現代曲」もとっつきにくいものじゃないでしょう?
クラシックの作曲家達はこうして現代曲をどんどん生み出し、あるときは需要に応じ聴きやすく、あるときは自発的に実験音楽にしたり。そして現代曲は時間の経過とともにいずれ近代曲となり、古典音楽へとなる(残っていけば)。

このように現代音楽を生み出そうと作曲家の卵達は音楽大学で切磋琢磨しております。
しかし私は音楽大学に言いたい!
音楽大学は音楽の演奏現場を知り、彼らに生きていく術を教えよう。

学術的なことばかりではなく、現代社会が求めているものと応え方を教えよう。
たとえば楽譜を手書きだけでなく、パソコン(Finale)で作る術を身につけよう。PCを自在に扱える人間はどこでも重宝される。
各自バラバラの奏法指示の国際標準統一も考えて欲しい。作曲家が言葉で補足説明しないと奏法がわからない作品は未来へは残らない。

音楽家だって社会情勢とスピードと、コスト意識を認識しないとやっていけませんよ。
それからコミュニケーション能力もとても大事。モーツァルトなんてこのあたりが長けていたと思いますよ。

たとえ卵さんたちが天才であったとしても、創造物は殻から発信しないと陽の目を見ないし、未来へ残っていかないのだ。