カプサイシン日記

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三度の飯より読書をしていたい!どんなにアルバイトが忙しくても、どんなに就活が氷河期でも本を読む事だけはやめられない。そんな読書依存症の書評、そしてつぶやき。

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mabuta
『まぶた』 著:小川洋子 新潮文庫

静かで、囁くような美しい文章と
文章からは想像できないような不思議で、時に残酷な内容が魅力の
小川洋子さんの作品の中で今回は
『まぶた』のなかから「バックストローク」という作品を紹介します。


「今まで自分は何個のプールと出会ってきたのだろう、と考えることがある。」
この一文からこの物語は始まる。
たいていの人がそんなことを考えたことなどないであろうにも関わらず
小川さんのこの一文がさっと私達の頭の中に入ってくると
あたかもそれが当然の思考かのごとく私達はこの主人公の考えている事を
受け止めることになる。
最初の一文を読んだ時点から私達はこの世界に入っているのだ。

物語は社会人である主人公が出張で訪れた強制収容所のプールで
弟の思い出を回想する、というものである。

この物語は静かに、そしてこっそりと展開していく。

水泳選手としてお母さんの期待を一身に背負い
崩壊寸前の家庭をどうにかつなげている弟。
隅っこを好み、水泳以外の時は家のあらゆる隅でじっとしている物知りな弟。
期待にこたえるために必死に水泳スクールに通う弟。
物静かな弟。

そんな弟がある日突然左腕を伸ばしたまま生活するようになる。

弟のそんな行動は異様であり、母、家族への弟なりの反抗なのかもしれない。
だが、主人公は、そして我々読者はそんな弟の行動がとても美しく
ある意味で芸術的な姿であると感じる。
けっして反抗や怒りといった激しい感情は弟からは感じられない。
冷静に、物静かに、なんの違和感もなく、彼は左腕を伸ばしている。

文章一つ一つがまるで詩になっていくようにささやかれ
そして、弟のように静かで冷静である。
決して当り前のことをつづっておる文章ではないのに
小川さんの文章はその言葉を私達に自然に受け止めさせる。

弟の腕が伸びたままになって5年がたつころ、主人公は弟に
泳いでほしいをお願いする。弟がそれに承知し主人公の前で
5年ぶりに泳ぎを見せるシーンの文章がこの作品の中で私の一番のお気に入りである

「その時左腕が、何の前触れもなく付け根から抜けた。朽ちた枝が折れるように、腐った果実が落ちるように、彼から離れていった。わたしは「あっ」と声を上げそうになり、口をおさえた。弟の背泳ぎに変化はなかった。」

なんでこんなに綺麗な文章が生まれてくるんだろう
さっとプールの中で弟の腕が抜け、そして漂っている
芸術品とみているような気持ちで私達はこの情景を想像することが出来る

私はこの世界がお気に入りである