聖書と日本書紀、仏教の比較 最終章

第三十五代 舒明天皇 (じょめいてんのう) 西暦629年 即位


息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)は、敏達天皇の孫、彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ)の子である。推古天皇の二十九年、聖徳太子が薨去された。けれども後の皇太子を立てられないまま、三十六年三月、天皇が崩御された。
推古天皇は後継者を定められないまま、(推古36年春三月六日。崩御される前日に、枕元に田村皇子と山背大兄(やましろのおおえ)のお二方を呼び寄せられ、皇位を引き継ぐことにふれられたものの、確たるお言葉がなかったので、遺言をめぐて群卿たちの間で、議論が分かれた・・・・・・・・・・・・・・・・・・おおくの争論・・・・山背大兄の抗議など・・・・・・・・・・・・・・・を経て・・・・・
田村の皇子に皇位は定まった。


舒明元年春一月(西暦629)四日、群卿は皇位の彌印(鏡・剣)を田村皇子に奉った。すると皇子は辞退し「天皇として国を治めることは重大な事である。自分は未熟でその任に堪えない」と言われたが、群卿の伏しての懇願により、お受けになりその日、皇位につかれた。
二年春一月十二日、宝姫皇子(後の皇極、斉明天皇)を立てて皇后とした。皇后は二男一女を生まれた。第一は葛城皇子(かずらきのみこ=天智天皇)第二は間人皇女(はしひとのひめみこ=孝徳天皇の皇后)である。
三月一日、高麗の大使宴子抜、小使若徳、と百済の大使恩率素子、小使徳卒武徳が共に朝貢した。


◆遣唐使
秋八月五日、大仁犬上君三田スキ(だいにんいぬかみのきみみたすき)、大仁薬師恵日を大唐に遣わした。
冬十月十二日、天皇は飛鳥岡のほとりにお移りになった。これを岡本宮と言う。
三年、三月一日、百済王、義慈は王子豊章を人質として送ってきた。
四年十月四日、唐の使者高表任が難波に泊まった。大伴連馬養を遣わして、江口に迎えさせた。船三十二艘をそろえ、鼓を打ち、笛を吹き、旗を飾って装いを整えた。そして「唐の天子の遣わされたお使いが、天皇の朝廷においでになったと聞きお迎えさせます」とお言葉を伝えると、高表任は「風の吹きすさぶこのような日に、船を装ってお迎え頂きましたこと、嬉しくまた恐縮に存じます」と言った。
ほうき星、日蝕が観測され長雨、ひどい干ばつなどの災害の記録あり・・・・・・
その他の記録省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


十二年五月五日、盛大な齋会(僧を招いてを催され法会、精進料理を食べ仏法を聞く会)僧恵隠を招いて無量寿経を説かせられた。
(天皇御自ら仏事の大規模な催しに携わられたように思えますのは、興味深いと思います)
十三年冬十月九日、天皇は百済の宮で崩御された。


第三十六代 皇極天皇(こうぎょくてんのう) 西暦642年即位


天豊財重日足姫皇子(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は敏達天皇の曾孫で、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の孫である。・・・・・母を吉備姫王(きびつひめのおおきみ)と言う。天皇は古来の道に基ずいて、政治を行われた。舒明天皇の二年、皇后になられた。


皇極元年・・・・・・百済・高句麗において大乱・政変の記録り。・・・・・・・
高句麗、百済からの天皇即位の祝賀と舒明天皇崩御を弔う使いの記録あり。・・・
蘇我入鹿、雨乞いのため、「寺々で大乗の経典を転読(ひろい読み)しよう、、仏の教えに従い悔過(けが=あやまちをあらためる)して、うやうやしく雨乞いしよう」と言い、百済寺で仏像を安置し、多くの僧を招き、・・・・・・大雲経などを読ませた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・五日後に大雨が降った・・・・


百済大寺・船舶・宮殿(板葺宮)の建造が始まり、国々に用材、人夫が集められる


地震の頻発、暴風雨の自然災害・・・・新嘗祭などの記録あり・・・・・・・


蘇我大臣蝦夷の専横ぶりが始まる
自家の祖廟を建て八つらの舞(六十四人の方形の乱舞で、天子の行事)を行った、しかも国中の百八十にも余る部曲(かきのたみ=豪族の私有民)を召し使って双墓(ならびのはか=大小二つの墓を隣接したもの)を造り入鹿の墓とした。死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。このため上宮大娘姫王子(聖徳太子の女)が無礼の極みと激怒された。・・・・・・・・・・・・・・・このことが後に恨みを買って滅ぼされる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


二年、高麗から、使者の来朝。・・・・・百済の朝貢船が難波津に着く。・・・


蘇我の蝦夷、無断で入鹿を大臣に任ずる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
蘇我入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して,古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。
十一月一日、入鹿は部下に命じて山背大兄皇子を斑鳩に襲わせた・・・・・・・山背大兄皇子は・・「自分のために軍を起こし人民を死傷させることは忍びない」と言われ、自ら自決された。子弟妃妾もろともに自決して亡くなられた・・・・・・・・入鹿は人民の大きな怒りを買う・・・・・・・・・・・・・・
三年春一月、・・・・・・・・・・・この頃から中大兄皇子と中臣鎌子(中臣鎌足、後の藤原鎌足)が接近し、ともに信頼しあう絆が生まれ、その出会いから曽我一族の暗殺、大化の改新へ(今は乙巳の変と学校では教えられている)と向かういきさつが書かれている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆蘇我蝦夷・入鹿の滅亡
四年六月八日、中大兄は倉山田麻呂臣に語って、「三韓の御調を奉る日に、お前にその上表文を読んでほしい」と言い、ついに入鹿を斬ろうと言う謀を述べた。麻呂臣は承諾した。
十二日、大極殿において天皇のおられる場所で・・・・・・・・・・・入鹿が暗殺される様子が詳細に記録されている。
十三日、蘇我蝦夷は戦をあきらめ、殺される前に、全ての天皇記・国記・珍宝を焼いた、船史恵尺はその時素早く、焼かれる国記を取り出して、中大兄にたてまつった。この日、蝦夷と入鹿の屍を葬ることを赦した。・・・・・・・・
十四日、皇極帝は、位を軽皇子に譲られ、中大兄を立てて皇太子とされた。


第三十七代天皇 孝徳天皇(こうとくてんのう)西暦645年即位


天万豊日天皇(あめのよろずとよひめのすめらみこと)は皇極天皇の同母弟である。 仏法を尊んで神々の祭りを軽んじられた。    生国魂神社(大阪市天王寺区生玉町)の木を切ったことなどがこれである。
人となりは情け深く、学者を好まれた。貴賤にかかわりなく、しきりに恵みぶかい詔を下されることがおおかっや。
皇極天皇の四年六月十四日、皇極天皇が位を中大兄に伝えようと思われ、詔して云々と言われた。中大兄は退出して中臣鎌子に相談された。中臣鎌子連は意見を述べて、「古人大江(舒明天皇の第一皇子、母は蘇我馬子の妹)は殿下の兄上です。軽皇子(孝徳天皇)は殿下の叔父上です。古人大兄がおいでになる今、殿下が皇位を継がれたら、人の弟として兄に従うと言う人の道にそむくでしょう。しばらく叔父上を立てられて、人々の望みに叶うなら良いでは有りませんか」と言った。中大兄は深くその意見を褒められて、密かに天王に奏上された。皇極天皇は神器を軽皇子に授けて位を譲った。軽皇子は幾度も固辞され、ますます古人大兄に譲って「大兄皇子は舒明天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理由で天位にお着きになるべきです」と言われた。古人大兄は座を去り、退いて手を胸の前で重ねて、「天皇の仰せのままに従いましょう、どうして無理をして私に譲られることがありましょうか。私は出家して吉野に入ります・・・・その場で太刀を解き地に投げ舎人も同じようにした・・・・・・・・・・・。このため軽皇子も辞退することが出来なくなり、檀(たかみくら)に上がって即位された。その時大伴野長徳連馬飼は金の矢筒を付けて檀の右に立った。犬上建部君は金の矢筒を付けて檀の左に立った。百官の臣・連・国造・あまたの伴緒が連なり並んで拝礼した。


◆新政権の発足
この日号を皇極天皇に奉って皇祖母尊と呼んだ。中大兄を皇太子とした。阿部内麻呂臣を左大臣とした。蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とした。大錦の官位を中臣鎌子連に授け、内臣とした。・・・・・・・・・・・
皇極天皇の四年を改めて大化元年とした。(孝徳)
大化元年秋七月二日、舒明天皇の娘、間人皇女を立てて皇后とした。・・・・・・
十日、高麗・百済・新羅が使いを遣わし、御調を奉った。・・・・・・・・・・・


◆東国国司の発遣
八月五日、東国の国司を召された。国士らに詔して「天つ神の命ぜられるままに、今初めて日本国内のすべての国々を治めようと思う。およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍を作り、田畑の大きさを調べよ。又国司らはその国の裁判権を持たない。他人からの賂を取って、民を貧苦におとしいれてはならぬ。・・・・・・・・その他役人に対する法の取り決め・・・・・・省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


◆鐘櫃および男女の法
この日鐘と櫃を朝廷に設ける。・・・・・・・・・・・・民からの訴えごとについての取り決め、・・・・・もし役人が訴えた事にえこひいきをして審理を曲げたなら訴えた者は鐘を撞くがよい。そのために朝廷に鐘と櫃をもうけてく。・・・・
男女の法は、良男と良女の間に生まれた子はその父につけよ。良男が婢(めのこやっこ=女性の使用人、身分の低い下女、はしため)、に産ませた子はその母につけよ。もし良女が奴(やっこ=男の家来、下僕、使用人)に嫁いで生んだ子はその父につけよ。その他寺院で生まれた子についての取り決め・・・・・。
八日、使いを大寺(飛鳥寺)に遣わして、僧侶を召し集めて詔し「・・・・・それまでの仏法の広がりについて述べ・・・・・・・・・・・・各地に建てた寺の営みについて、営むことが難しい場合は自分が助けると言い、寺司(寺院の役人)と寺主を任命し、「諸寺をめぐって僧尼、奴婢、田地の実情を調べてことごとく明らかにして報告せよ」と言われた。


◆古人大兄の死
九月一日、使者を諸国に遣わして武器を管理した。
十二日、吉備笠臣が中大兄に自首して「吉野の古人皇子は、蘇我田口臣川堀らと共謀して謀反を企てています。私もその仲間でありました」と言った。
中大兄は兎田朴室古と高麗宮知の二人に命じて兵若干率いて古人大兄を討たせた・・・・・その他諸設あり・・・
十九日、使者を国々に遣わして、人民の総数を記録さた。・・・・・・・・臣・連・伴造・国造など地方の権力者や役人の横暴を禁じ・・・・・・今人民は貧しい。ところが勢力有る者は、田や畑を分割して私有地とし、人民に貸し与え年々地代を取る。今後そのような事を禁ずる。みだりに主になって力の弱いものを併呑してはならない」と言われた。人民は大いに喜んだ。


◆改新の詔
二年春一月一日、賀正の礼が終わって、改新の詔を発せられた。
その第一・昔の天皇たちの立てられた子代の民・各地の屯倉と臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民・豪族の所有する各所の土地を廃止する。・・・土地は全て天皇に帰属し天皇から身分に応じて賜る。・・・・・・・・・・(唐の法制に習い律令制を取り入れ、律令国家となり、中央集権体制を目指す。)


その第二・・・・・・・・・・・・・・土地の区画を定める・・・・・・・
その第三・戸籍・計帳(律令制のもとで作られた公文書)・班田収受の法を作る(農地の支給、収受に関する法体系)・・・・・・・・・・・・・
その第四・ 従来の賦役(小作人の労働)はやめて、他の調べを行う。・・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・・


◆鐘櫃の反応
二月十五日、天皇は先に取り決めた鐘櫃の取り決めに対する、民衆の訴えについて、その趣旨を聞き、改めて民意を治世に反映させるよう指示する。・・・・


◆各地に朝集使(国使)を派遣し、法の施行状況を調べさせる。・・・・・・・


◆死者の葬儀に関する新たな取り決めをもうけ、身分に応じて墓の大きさ、埋葬の仕方などを取り決める・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下多くの改革在り。‥‥‥‥‥省略・・・・・・・・・・・・・・・・


大化五年十月十日、天皇は正殿で崩御された。


十二月八日、大阪、磯長陵(大阪府太子町)に葬った。


蘇我蝦夷、入鹿が討たれた、時の天皇、皇極天皇(女帝)の四年を大化元年とし、翌二年「改新の詔」が出され、「大化の改新」が始まった、この「大化」が日本初の元号と言われる。 これによって日本は唐の法制に影響を受けた律令国家となり、その後に出された大宝律令(701)、それを改めた養老律令(718)によって、一応の完成を見た。「改新の詔」には地方行政の整備、(国郡制度)なども含まれているが、その中心となるものは「公地公民制」であった。これは私有財産の廃止と言う事でもある。つまり、全ての土地と人民は公有化する、すなわち天皇に帰属するものとした。  それ以前は天皇も豪族もそれぞれ私的に、土地、公民を所有し支配していた。「改新の詔」第一条はこれを禁止し、私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものでした。  ところがこの制度はうまくいかなかった。  「公地公民制」の基本であり、律令制の根幹でもある「班田収授法」は天皇の物である、公地を公民に貸し与えると言う形を取った。そのために戸籍を作り、細かい規定に従って農民に土地を分け与えたが、その土地は六年後には返還しなければならなかった。これは猛烈な反対お,うんだようだ。苦労して育てた田畑が六年後に取り上げられることが分かっていたら、熱心に耕し、土地の改良などするわけがない。農業は社会主義ではうまくいかないようだ。奈良時代前期の723年には「三世一身法」が発布された。これは溝や池(灌漑施設)を新たに作って開墾した土地は、三世(本人・子・孫あるいは子・孫・曾孫)まで所有を赦す。ただし既存の灌漑施設を再利用して墾田した場合は、一代限りとする。と言うものであった。しかしそのわずか弐十年後の743年、聖武天皇の時代には、「墾田永年私財法」が出され、新たに開墾した土地は、すべて私有が認められた。ただし身分によってその広さは異なり、十町から五百町までと言う開きがあったから、貴族や寺院は広大な土地を所有することが出来た。こうして結局「改新の詔」から始まった土地政策は失敗した。大化の改新に始まった土地国有化は、およそ百年後には実質的に廃止されたことになる。     とは言え、一旦豪族の土地もすべて公地化したのだから、旧来の豪族の勢力は衰退した。そして律令制度による中央集権国家の官僚たちが、変わって力を持つようになった。彼らは自分たちやその一族に便宜を図って土地を私有し、かつ広げるようになった。こうして新しい貴族たちが生まれ、気が付いてみたら、中臣鎌足を始祖とする、藤原氏が圧倒的に多くの土地を所有し、力を持っていた。これも歴史の流れと言うものか。(渡部昇一先生著「読む年表、日本の歴史32P」より引用)

第三十八代天皇 斉明天皇(さいめいてんのう) 西暦655年即位


◆斉明天皇重祚(重祚(ちょうそ)とは退位された天皇が再度即位される事)
斉明天皇=雨豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしめひめのみこと)は、初め用明天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生まれた。後に舒明天皇に嫁して、二男一女(天智天皇・間人皇女・天武天皇)を生まれた。舒明二年、皇女となられた。十三年冬十月、舒明天皇が崩御された。翌年十一月、皇后は即位されて、皇極天皇となられた。大化と改元した四年の六月、位を孝徳天皇に譲られた。皇極天皇を呼んで、皇祖母尊と言った。孝徳天皇は白雉五年十月に崩御された。
孝徳天皇は白雉五年十月に崩御された。


白雉元年一月三日、皇祖母尊は飛鳥板蓋宮で即位された。(重祚 斉明天皇)
秋七月、難波の朝で(みかど(朝)とは天子がまつりごとをするところ)で北の蝦夷(えみし=関東以北の人々)九十九人、東の蝦夷九十五人に饗応された。同時に百済の御調の使い百五十人にも饗された。
冬、高麗・百済・新羅・がそろって使いを遣わし御調を奉った。・・・・百済の大使、西部達卒余宜受、副使東部恩卒調信仁らすべて百余人である。


◆岡本宮の造営。・・飛鳥の岡本(明日香村雷岡たり)にさらに宮地を定め、天皇は宮殿が出来ると、お移りになった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほかにも工事を進め民衆の不評を買う・・・・・。


三年秋七月三日、都貨羅国(タイのメコン川下流にあった国と考えられる)の男二人、女四人が漂着した。都へ召される。
十五日、須弥山を像ずくったものを飛鳥寺の西に造った。また盂蘭盆会を行われた。夕方に都貨羅人に饗を賜った。(須弥山とはインド仏教の世界観をあらわす何らかの造形物。盂蘭盆会とは日本ではお盆の仏教行事の事)
四年夏四月、阿部臣、船軍八十艘を率いて蝦夷を討った。秋田、能代の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞った。
五月、皇孫健の命は八歳で亡くなられた。
十一月十一日、有馬皇子、あに蘇我赤兄の差sぴに乗り謀反の疑いで、中大兄の命により殺される。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他の記録省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六年九月百済、唐によって滅ぼされる。百済の要請により援軍を派遣すべく筑紫に出向き準備を進める・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
七年春一月天皇は船で西へ向かう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秋七月二十四日、天皇は朝倉宮に崩御された。


第三十九代天皇 天智天皇(てんちてんのう)西暦663年即位


天明開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと)は舒明天皇の皇太子である。母を天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)(皇極天皇)と言う。
斉明七年七月二十四日、斉明天皇がおかくれになった。皇太子は白の麻衣をお召しになって、即位式は挙げないで、政務をとられた。
七月~翌年六月まで高麗が唐の攻撃に始まり半島の内乱に巻き込まれ援軍を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・


◆白村江の会戦
二年春二月二日、新羅人百済へ侵入し、百済南部四州を焼き討ちにする。・・・
三月、・・・・・・兵二万七千人を率いて新羅を討たせた。・・・・・
八月二十日七日 大唐の水軍と、先着の日本の水軍が合戦し、日本軍は負けて退いた。(日本は百済救援に失敗した、古代の中国大陸との最大の戦いではないかと思う。)・・・・・・・・・・・・・・・・
九月七日、百済は唐に降伏した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
闘いのいきさつ省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本の水軍は百済の人々(百済の亡命貴族と思われる)を乗せて日本に向かう。


◆西海防備
三年、対馬、壱岐、筑紫の国(現在の福岡県地方)などに防人(大陸からの侵略に備えた防衛に当たる兵士)、のろし台、を置いた。また筑紫に大堤を築いて水を蓄えた。これを水木と名つけた。
四年春二月二十五日、間人大后(はしひとのおおきさき=天智天皇の妹、孝徳天皇后)が薨去された。
この月、百済国の官位の階級を検討した(百済滅亡後、多数渡来した百済人に官位を授けるため)。佐平副信の功績によって、鬼室集斯(副信の子?)に、小錦下の位を授けた。  また百済の民、男女四百人余りを近江の国、神崎郡に住ませた。・・・・・・三月、これらの百済人に田を給せられた。
九月二十三日、唐からの使いあり。全部で二百五十四人。・・・・・・・
・・・・その他の記録省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆近江遷都と天智天皇即位
六年三月十九日、都を近江に移した。・・・・・民衆の不満多し・・・・・
(恐らく国防上の理由で飛鳥から近江に都を移したと思はれる。)
冬十月、高麗に内乱あり、高麗の大兄(高麗の官位)男生が城を出て国を巡り歩いていた。その時城内の二人の弟が、側近の士大夫にそそのかされ、男生を再び入城させなかった。このため男生は大唐に至り、高麗を滅ぼそうと謀った・・。
七年春一月三日、皇太子は天皇に即位された。
二月二十三日、古人大兄皇子の娘、倭姫王を立てて皇后とした。全部で四人の御目を持たれた。(御目(みめ=高貴な女性に対する尊称と思える)みめうるわしいなどと言う言葉もある?)蘇我山田石川麻呂大臣の娘を遠智娘(おちのいらつめ)と言う一男二女を生んだ第一を大田皇女、第二を鵜野皇女(うののひめみこ)(天武天皇の皇后、持統天皇)  ・・・・・・・以下省略・・・・・
冬十月大唐の大将軍、英公は、高麗を討ち滅ぼした。


◆藤原鎌足の死
八年冬十月十日、天皇は藤原内大臣(鎌足)の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。しかし衰弱がはなはだしかった。。それで詔して「天道が仁者を助けると言うことに偽りがあろうか。積善の家に余慶があると言うのに、そのしるしがない筈はない。もし望むことがあれば何でも言うがよい」と言われた。鎌足は「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にしていただきたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗をさすのかもしれない)、死に当たってどうして御厄介を掛けることが出来ましょうか」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十五日、天皇は東宮太皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授けられた。姓を賜って藤原氏とされた。
十六日、藤原内大臣は(鎌足)死んだ。五十歳とも五十六歳とも言われている。


◆天智天皇崩御
十年十月七日、かねてより病の床にあった、天皇の病状重く、東宮(大海人皇子)を呼ばれた。寝所に呼ばれ詔して、「私の病は重いので、後事をお前に任せたい」云々と言われた。東宮(大海人皇子)は病と称して、何度も固辞して受けられず、「どうか大業は大后(皇后)にお授けください。そして大友皇子に諸政を行わせてください。わたしは天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います。」と言われた。天皇はこれを許された。(天武天皇の項にも同記述あり) 


第四十代 天武天皇 (てんむてんのう) 西暦672年即位


天淳中原燠真人天皇(天武天皇=あまのぬなはらおきのまひろのすめらみこと)は天智天皇の同母弟である。  幼児には大海人皇子と言った。生来優れた素質を持たれ、立派なお方であった。成人してからは雄々しく、武徳に勝れていた。天文や占星の術をよくされた。
天智天皇の女(むすめ)兎野皇女(うののひめみこ)を迎えて、正妃とされた。天智天皇の元年に(天智天皇が即位された年)、立って東宮(皇太子)となられた。


四年冬十月十七日、天智天皇は病臥され重体であった。蘇我臣安麻呂を遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。安麻呂は元から東宮に好かれていた。密かに東宮を顧みて、「よく注意してお答えください」と言った。東宮は隠された謀があるかもしれないと疑って、用心された。天皇は東宮に皇位を譲りたいとと言われた。そこで辞退して「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことは出来ません。願わくば陛下は、皇后に天下を託してください。そして大友皇子を立てて皇太子としてください。私は今日にも出家して、陛下のために仏事を修行することを望みます」と言われた。天皇はそれを許された。即日出家して法服に着替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。   


十九日、吉野に入られることになった。左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連及び大納言蘇賀果安臣らが見送りし、宇治まで行き、そこから引き返した。ある人が言った。「虎に翼を付けて野に放つようなものだ」と。


十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。・・・・・・・・・・・・
東宮(大海皇子=天智天皇の弟)が吉野へ入られた事は、結果として近江の朝廷と、吉野の東宮との間に戦乱を引き起こすこととなり、古代最大の戦乱と言われる、壬申の乱を引き起こすことになる。壬申とは年号ではなく、みずのえさるのことで干支の一つ、ひのえうまのとしみたいな感じ,知らなかったのは私だけかも。)
天武元年五月、吉野の東宮は近江朝廷の画策で命の危険を感じ、いち早く軍を起こし、挙兵を決意し、すばやく近隣の豪族を味方につけ、戦に向け東国へ出発する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


◆近江朝の対応
このことを聞いた近江の朝廷では、群臣がことごとく恐れをなし。・・・・・
ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れた。大友皇子群臣に語って「どのようにすべきか」と言われた。
大友皇子の即位の記録は日本書紀には見当たらない。しかし平安時代以降のいくつかの資料には、皇子の即位を記している。諡号は弘文天応である。


(弘文天皇の在位期間は八カ月にも満たなかった。天皇として認められ、弘文天皇として諡号されたのは明治三年(1870年)になってからのことである。(よむ年表、日本の歴史、渡部昇一著より引用))。


七月、近江軍は敗北し、二十三日、大友皇子は逃げ場を失い、自ら自決する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下省略・・・・・・
天武二年二月二十七日、天皇は飛鳥浄御原宮で即位する。・・・・・。
正妃(菟野皇女)を立てて皇后とされた。皇后は草壁皇子(文武・元正両天皇の父)を生まれた。このほかに三人の妃と、三人の夫人(おおとじ=天皇のおそばに仕えた女性の尊称)、三人の女性を召して、十人の皇子と七人の皇女をもうけられた。・・・・・・・・・・・・・・
三月十七日、・・・・・・・・・写経生を集め、川原寺で初めて一切経の写経を始められた。(一切経の書写事業の始めての記述なるも、川原寺の創建については記述がないため、諸説あり。明日香村に跡地があるとされている。)
夏四月十四日、大来皇女を伊勢神宮の斎王(さいおうとは伊勢神宮又は賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王つまり天皇の皇女)にされるため、まず泊瀬の斎の宮にお住ませになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近ずくところである。


(このような記述を見ると天武天皇は仏教にも神道にも篤い信仰のあった方ではないかと思はれます。現代でも家には神棚を祀り、仏壇を備えて拝む宗教観はこのような時代から受け継がれたものと思われます。)


十二月五日、大嘗祭(即位後最初の新穀感謝祭)が行われ、・・・・奉仕した人々に賜りものがあった。・・・・・・・・
この年百済・新羅・高麗・との交流多し・・・・・・・・・・・省略・・・・・
三年秋八月三日、忍壁皇子を石上神社に遣わして、膏油で神宝の武器を磨かせた
冬十月九日、大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた。
四年夏四月五日、僧尼二千四百余を召して、盛大に齋会(仏教の行事)を行われた。この年様々な法令の制定、高麗・新羅の交流の記録あり・・・・・・・
五年五月、下野の国司が、「国内の百姓は凶作のため飢えて、子を売ろうとするものがあります」と言ったが許されなかった。・・・・・・・・・・・・・。
六月・・・・・・・・・大旱魃あり。使いを各地に遣わし、捧げものを捧げあらゆる神々に祈らせになり、また多くの僧尼を招いて三宝に祈らせられた。しかし雨は降らず、百姓は飢えた。・・・・・・・・・・・・・・・・
六年五月、旱魃あり・・・京や畿内で雨乞いをする。六月十四日大地震あり。・・・・・・・・・・・・・・・
八月十五日、飛鳥寺で盛大な齋会をもうけ、一切経を読ませた。天皇は寺の南門にお出ましになり、仏を拝礼された。


◆吉野の会盟
八年五月五日、吉野宮に行幸された。六日天皇は皇后及び草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河島皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して、「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで、継承の争いを起こすことの無いように図りたいと思うがどうか」と言われた。皇子たちはともに答えて、「ごもっともでございます」と言った。・・・・・・・・・・・・皇子たちは、天智の神々と天皇に誓い・・・・・・・・同母であろうとなかろうと、天王のお言葉に従って助けあって争いをいたしますまい。もし今後この盟にそむいたならば、命は滅び子孫も絶えるでしょう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その他の記述省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
九年十一月十日、皇后が病気になられた。皇后のため誓願をたて薬師寺を建立することとなり、百人の僧を得度させたところ、病気は平癒した。
・・・・・・・・・・・その他の記録省略・・・・・・・・・・・・


十四年三月二十七日、詔して「国々で、家ごとに仏舎を作り、仏像と経典を置いて、礼拝供養せよ」と言われた。
薬師寺の建立、また伊勢神宮の式年遷宮も天武天皇の発案で、持統天皇の御代に第一回の式年遷宮が行われて以来、戦国時代におよそ百年の中断もあったものの、今日まで千三百年以上にわたって行われているのは、世界史上の奇跡と言ってもいいと言われています。
式年遷宮とは20年に一度宮処を改め、古例のままに社殿や、御装束神宝をはじめすべてを新しくして、大御神に新宮へお遷り頂く神宮最大
のお祭りです。平成25年に62回目が古式のまま行われました。おおよそ8年の歳月をかけて、内宮、外宮の二つの正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、等計65の殿舎のほか、714種1576点の御装束神宝(装束や須賀利御太刀などの神宝)などが造り替えられる。


朱鳥元年(天武十五年)九月九日、天皇の病ついに癒えず、正宮で崩御された。

第四十一代  持統天皇(じとうてんのう) 西暦690年即位


高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)は、幼名を鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と言い、天智天皇の第二女である。・・・・・・天皇は落ち着きのある、広い度量のお人柄であった。・・
斉明天皇の三年に、天武天皇の妃となられた。天子の御子ながら、まろやかな心でへりくだり、礼を好まれて国母の徳をお持ちであった。
天智天皇の元年に草壁皇子尊を大津宮で産まれた。
十年十月、沙門(出家者)となられた天武天皇に従って、吉野に入り近江朝からの嫌疑を避けられた。(天智天皇の巻参照)
天武二年、立って皇后となられた。皇后は、終始天皇を助けて、天下を安定させ、常に良き助言で政治の面でも輔弼の任を果たされた。
朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩御された。皇后は即位の式も上げられぬまま、政務を執られた。
冬十月二日、皇子大津の謀反が発覚した。皇子と皇子に加担した臣下、三十余人が捕らえられ、皇子は三日、訳語田の舎で死を賜った。時に年二十四歳、妃の山辺皇女は髪を乱して裸足で走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元年三月十五日、自ら帰化してきた高麗人五十六人を、日立の国に居らせ、土地と食料を賜り、生活ができるようにされた。二十二日にも新羅人八十四人が自ら帰化し、下毛野国に居らせ、土地と食料を賜い生活できるようにされた。
秋七月二日、詔して「およそ負債を持つ者に関して、天武十四年以前のものについては、利息を取ってはならぬ。もしすでに労働で償っている者については、利息分まで労働させてはならぬ」と言われた。
天武天皇の追悼の行事が延々と続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆持統天皇の即位
四年春一月一日、物部麻呂朝臣は大盾をたて、神祇伯中臣大嶋朝臣は天つ神の寿詞を読み上げた。終わって忌部宿禰色夫知が神爾の剣・鏡を皇后にたてまつり、皇后は皇位を継がれた。・・・・・・・・途中省略・・・・
身寄りのない者・重病の者・貧しくて生計の立たぬもの・に目を止めて援助の手を差し伸べる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この年仏教に関する記述が非常に多く、また神を祀る事にも注意が払われている事が目立つ気がします・・・・・・・・・・・・・・・・


◆捕虜となった大伴部博麻の帰国
九月二十三日、大唐に学んだ学問僧知宗、義徳・浄願は兵士の筑紫の国上妻群(八女郡)の大伴部博麻が新羅の送使大奈末金高訓らに従って、筑紫に帰国した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


冬十月二十二日、天皇は大伴部博麻に詔して「斉明天皇の七年百済救援の役で、お前は唐の捕虜とされた。(白村江の戦い)天智天皇の三年になって、土師連富杼、氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の子の四人が、唐人の計画を帝に奏上しようと思ったが衣食もないために、京師(帝王の都京都)まで行けない事を憂えた。その時、博麻は土師野富忬らに語って、『自分は皆と一緒に朝のもとへ行きたいが、衣食もない身で叶わないので、どうかわたしを奴隷に売り、その金を衣食にあててくれ。」と言った。富忬らは、博麻の計に従って、日本へ帰ることが出来た。お前は一人他国に三十年も留まった。自分は、お前が朝廷を尊び国を思い、己を売ってまで、忠誠を示したことを喜ぶ。それゆえ務大肆の位に合わせて、ふとぎぬ五匹、綿十屯、布三十端、稲千束、水田四町を与える。その水田は曽孫まで引き継げ。課役は三代まで免じて、その功を顕彰する」と言われた。


この他持統天皇の御代には、第一回目の式年遷宮が行われた事、何度も吉野へ行かれていることなどがある。・・・・・・・・・・・その他の事績は省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

ここまで長々と書いてまいりましたが、この辺で一区切りにしたい思います。
「聖書と日本書紀と仏教の比較」と言うテーマでここまで書いてきました。初めは「エホバの証人の断絶」と言う自分の宗教上の決断を機会に、自分の真理だと思っていたものがいとも簡単に覆ってしまい、その事に対する自分自身の言い訳のような感情が混ざっていたかもしれません。最初に「ある断絶した元エホバの証人の独り言」を投稿してから、四年半が経ちました、その間たくさんの本を読みました。今まで書いてきたことで多分間違いも多々あると思いますが、でもそれはそれとして、私の思いですので、あえて訂正することは致しません。
終えるにあたって少し、感じたことを述べさせていただきたいと思います。
◆ 仏教の考え方は常に自分とは何か、この世に生まれた瞬間から死に向かって、命と言われるものをい一秒ずつ切り売りして自分なりに懸命に生きています。(ちなみに人生100年として、秒に直すと、31億5千3百60万秒です、一日は8万6千4百秒、です、これを長いと思うか短いと思うか人それぞれですが、)どうせ死ぬのに自分は何のためにそんなに一生懸命に生きるのか、死とは何なのか。また私たちは生まれた瞬間から自分の意思とは関係なく心臓が動き、血液が全身を駆け巡り(母の胎内にいるときから、とも言える)呼吸をしています。しばらくすると自我、自分と言うものを認識させられています。そして、自分を中心にして他を区別していきます。自分にとって都合の良いものを善とし自分にとって都合の悪いものを悪として自分と他との間に差別をもうけて生きていきます。 話は少しそれるかもしれませんが、
近代の分子科学では、DNA(遺伝子)に生物の設計図がすべて書かれており、しかもそのDNAが、すべて解読されるようになり、遺伝子治療、遺伝子組み換え食品、遺伝子検査と言った様々な分野の開発が行われています。それが将来結果として人類の生存にどんな影響が出るかは、時がたってみないと分かりません。科学の発展は人類の幸福に寄与する、正しいことだと考えられ巨額の資金を投入して開発された物が、多くの場合戦争と言う残虐な殺人の兵器に使われてきたのは誰もが知る通りです。その時には全く正しいとされた事が、のちにまちがっていた、悪だとされたものは人類史上山ほどあるのではないでしょうか。
そうやって人間は、個人でも、集団でも、自分と他、自分たちと他の人たちの間に垣根を設けて差別してきたのかもしれません。
勿論グレーゾーン、中間はありますがそれは自分にとってどちらでもよいもの、あっても無くてもどうでもよいものです。そして自分にとって都合の良いものを愛し、都合の悪いものを憎み、どうでも良いものに対しては冷淡です。但しこれは人間の本質について述べたもので、本質をさらけ出して誰も生きていけません。私は自分の心の中がもし他人に見えたら、生きてはいけません。又他人の心の中も見たくはありません。ですから倫理や道徳を説き、愛や平和を求め、その衣服に身を包んで人生を精いっぱい、懸命に生きているのではないでしょうか。
その歴史は人が生きるために備えられた自然からの恩恵、自然の摂理は全く平等であるにもかかわらず、その生きざまは、迷い、苦悩、苦痛、絶望の叫び、等、の積み重ねであり、苦しみからの脱出であるはずが、苦しみの積み重ねのように思えるのです。笑い、楽しみ、幸福感、喜び、と言った人に良いものをもたらす事でさえ、それがあればあるほど、失う事えの恐怖が襲います、それで争いが生じるのです。そして必死に努力して得た者は、死によって完全に失われます。わたしのような年になれば否が応でもその事を毎日考えさせられます。しかし歳に関係なく何となくみな知っていると思います。そのことを知らされる最も大事な機会が、自分の愛する人の死です。私は葬式の最大の役割は、人が自分の死の現実としっかり向き合う機会となる、と言うことではないかと思います。死んだ人はどんな死に方であれ、自分の死と引き換えにそのことを訴えているように思います。ですからどんな死に方にも、人間社会全体への大切なメッセージを伝えている、と考えられて仕方がありません。宗教にはその大切な意味を伝える役割があります。自分の死としっかり向き合い、今の命をどう生きるか宗教にはその大切なメッセージが含まれていると思います。その点で現代はウェブ上で、U-tyubu  を検索すれば仏教の法話が沢山配信されていますので私などが話さなくても好きなだけ視聴することが出来ます。
「聖書と日本書紀と仏教の比較」と言うテーマでここまで書いてきましたが最終的に私なりの答えは、全ての国民には誇るべき歴史があると言うことです。そして祖先が残した生き様、貴重な歴史の財産は、全部現代に生きる私たちの血となり肉となって生きていると言うことです。その上で、日本の歴史を考えると外国から学ぶことに積極的なことが分かります。しかし日本の国情に合わないものは切り捨て、良いと思われる物だけを取り入れてきたように思えます。
世界は激動的な変化の時期を迎えているのかもしれません。そうではあっても多くの日本を愛する人々によって、日本の本質は保たれていくことを願ってやみません。

 

「肉体は、永遠の宇宙の旅人、命の仮の宿です。宇宙の旅の途中で立ち寄った、ほんの数秒の憩いの場所、お寺❓、です。そのお寺を清潔できよらかな、過ごしやすい場所として、旅人をもてなすのは、自分もまた喜びに満たされる存在であることの証しです。

 

私のお客様である命は、私の全人生を、共に暮らし、私を励まし、私を慰め、私の傍にいていつもそっと寄り添い、つらい時は共になき、楽しい時には全力で私を喜ばせ、苦しい時には共に苦しみ、将にこの体が滅び尽きるまで、私を見守り、いつも・・・・

お前ひとりじゃないよ・・と言ってくれ、・・・・・また会おうねと言って・・・そしてそっと離れてくれた・・・・・・・私の命よ、本当に私の所に立ち寄ってくれてありがとう、と私は言いたい。」

 

                                                          2021年9月6日

                                                          

                                                          ryuji takayama