宗教学者笠井正弘(KASAI Masahiro)のブログ

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日蓮研究 宗教社会学 /大嘗祭の本義を再考する 折口信夫の論考に関する批判的検討 Religious studies scholar KASAI Masahiro

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宗教社会学から見た日蓮及び日蓮系諸教団の宗教性について

 

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宗教社会学から見た日蓮及び日蓮系諸教団の宗教性について

はじめに

 第二次世界大戦後、アカデミックな日蓮研究は日蓮宗系の立正大学を中心として細々と行われている状態で、それから70年以上を経た現在でも、日本宗教学会での日蓮関係の発表者の9割はこの大学の出身者で占められている。しかし明治後期以後第二次世界大戦期までは、日蓮は日本の思想界での花形であって、東京帝国大学における宗教学主任教授、姉崎正治も熱心な日蓮信者であり、『法華経の行者日蓮』を出版するほどの力の入れ様であった。しかし彼は太平洋戦争敗戦後は、日蓮研究をやめてしまったのである。この激変の経緯はどのように発生したのであろうか。

 明治以前、室町期から江戸期にかけては、日蓮系教団は京都や江戸の商工層を信者とする教団で、人口比では5%に満たない状態だった(農民はほぼ90%で関東以西は浄土真宗信者がその大半を占めた)。しかし明治二十年代以降、文明開化により都市が拡大し始めると、他宗の仏教教団が逼塞状態だったのとは対照的に、日蓮系教団の動きが活発となり、その中で日蓮宗からは、田中智学が俗人主体の<日蓮主義>運動(田中は<国柱会>を組織した)を開始した。この行動は、開設されたばかりの帝国大学の知識人たちにも注目されるようになった。 

 

 他方でこの時期に西欧からキリスト教が伝播してきて、士族層を中心に受容されるようになった。彼らは、日蓮がキリスト教で言う真の宗教者、すなわち<預言者>である、と言い始めたのである。それが切掛けで、その説の当否をめぐって日蓮論が活発化した。プロテスタント系で<無教会主義キリスト教>を唱えた内村鑑三は、日蓮=預言者説の立場から、<謎の仏教僧>として日蓮を海外に紹介している(Enigmatic Person of Japan)。

 鎌倉時代後期に活躍した日蓮は、国主(鎌倉幕府の執権)を法華経に改宗させようとする政治的布教(折伏:しゃくぶく)を行った人物で、強い<政治指向性>をその宗教性の中核に持っていた。江戸期には幕府の統制により、そのような行動は厳禁されていたので、江戸期以来の伝統的な日蓮系教団は、真言宗や天台真言宗と同様に、まったく政治運動をしない<呪術的現世利益信仰>の教団となっていたが、上記の田中智学による日蓮主義の呼びかけにより、日蓮宗以外の、たとえば顕本法華宗などの日蓮系宗派から、積極的に日蓮主義を名乗る団体が現れ、日蓮主義者たちは積極的な政治運動を展開するようになった。その結果軍関係者も日蓮に関心を持つようになり、たとえば日露戦争の海戦で勝利した東郷平八郎も、戦勝のお礼として、福岡市箱崎の日蓮宗寺院に感謝状を献呈している。昭和期になると、石原莞爾などの職業軍人のように国柱会の熱心な信者となるものが現れ、また超国家主義のイデオローグ、北一機なども、日蓮主義の立場から国政批判を行い、昭和維新運動の指導理念となった。さらにその影響を受けた大川周明や井上日召らによって五・一五事件や二・二六事件などが起こされ、日蓮主義者=国粋主義的テロリストのイメージが出来上がった。

 その結果、太平洋戦争に敗戦したあと、日本の学術的思想界に日蓮主義アレルギーが発生し、それまで日蓮研究を発展させてきたキリスト教徒は一斉に日蓮から手を引くことになった。GHQも日蓮主義団体を危険視し、アカデミックな日蓮研究は、思想的研究部分が排除されて、歴史学の範囲でしか行えなくした。東京帝国大学の教授だった姉崎正治も退職し、日蓮とは無関係の天理大学に迎え入れられ、日蓮研究を辞めてしまった。ただ民間にあっては、戦後民主主義に対応した俗人主体の日蓮系俗人教団が形成され、創価学会や霊友会、立正佼成会などの巨大団体が発展し活躍している。しかしそれらが学術的思想界に与えている影響は無いに等しい。 

 

 日蓮に特有の宗教性を把握する困難さは、仏教文化に内在する宗教性からは捉えられないことにある。そこから見ると、日蓮は天台密教系の呪術師以外の何物でもない。一般の日蓮系信者にとっては、「弘法太師以上のご利益がある真正の法力保持者」なのであって、思想と関連付けて考えることなどない。歴史学者の家永三郎が、日蓮をまったく評価しないのは、まさに彼を天台密教系の呪術師としか見ていないからであって、そのこと自体は決して間違ってはいない。

 しかるに日蓮に天台密教文化という枠ではまったく<見えない部分>があることを発見したのは、明治期のキリスト教徒たちであった。彼らはユダヤ・キリスト教文化の最も神聖な基底に、<悪の世の滅び>と<神の国の出現>を求める<使命的預言者信仰>があることを知った。それはヒンドゥー系仏教文化や中国儒教系文化には全くない文化因子で、江戸期までの日本人には想像もできない文化因子であった。しかるにこの部分に非常に大きな思想的意味があるのである。それは、日蓮を<仏教文化の継承>という視点から歴史学的<実証主義>的方法を用いて研究しても、まったく把握できない部分なのである。日蓮の思想史的意味は、日本文化の内部論理からは死角に入っている<外部からの視点>、つまり<虚>の部分への眼差しを通してしか捉えられない所にある。実証主義のみでは、思想的には、全く不毛な結果しか得られない、ということを現在の日蓮研究は示している。 

 

 1960年代に、世界の学問に絶大な影響を与えたアメリカの社会学者、ロバート・マートンは、「人間社会の研究をする際に、当該対象者の主観的意図と社会的客観的結果を明確に分離して研究しなければならない」、と研究基準を示している。日蓮研究の要点は、この基準を守ることにある。

 日蓮の<主観的意図>(天台山門の最も正統な継承者という意識)と、彼が結果として創造した宗教的世界像(本門戒壇の世界)、および、日蓮系教団の特殊な個性、都市的世界の宗教という側面、つまり<客観的結果>を明確に分離しないまま、日蓮を論じても得るものはない。<日蓮さんの法力だけがほんもの>というのは、信者だけが信じれば良いので、思想問題とは関係ない。日蓮の存在は明らかに日本の思想界の可能性に重要な示唆を与えるものであり、その意味で研究する価値は大きい。ただし研究するにあたって、研究者は客観的な(外部世界:たとえばユダヤ・キリスト教やイスラム教、あるいは発展途上世界の宗教などからの)視点を身につけなければならない。つまり自文化の枠にとらわれず、宗教の全体像を身につける必要がある、ということである。天台論理学で、<絶対開会(完全なる普遍的論理のこと)>ということを言うが、日蓮研究に必要なのは、まさに世界規模の<絶対開会>の精神である。研究の具体的スタイルとしては、内部論理である従来の<実証主義的研究>に加えて、外部論理であり直接に見えない部分に関する<虚証主義的視点>を付加する必要がある、ということである。その両面を総合した<複素空間論>的研究によって初めて、日蓮が構築した宗教的意味世界が見え始めるのである。

 

 

 

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折口信夫の『大嘗祭の本義』における《たま(魂)》解釈への批判的検討

 

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折口信夫の『大嘗祭の本義』における《たま(魂)》解釈への批判的検討

はじめに 問題の所在

 2019年4月30日に平成天皇が退位し、翌日5月1日に、徳仁皇太子が三種の神器を平成天皇から受け継ぐ《剣璽等承継の儀》が執り行われて正統に皇位を継ぎ(践祚という)、直ちに天皇としての公務に就くことになった。ところで、新天皇の即位関連祭祀の中で伝統的に最も重要とされてきたのが、本論考の検討対象、《大嘗祭》である。この式典は他の即位関連式典とは桁違いの規模で行われ、平成度ではおよそ25億円の費用が投じられたという。伝統的に《悠紀殿》と《主基殿》という二棟の中心拝殿からなる木造の新御殿群が建設され、祭の終了後すぐに解体、廃棄されていた。今回は式典後御殿が一般公開されることになり、約一か月間国民が敷地内にまで入ることが許された。また資源保護の視点から、使用された木材は廃棄されず、再利用されるという。なお、一年近く準備して挙行される大嘗祭は、大正天皇即位時や昭和天皇即位の際には、桁違いの天文学的巨費が充てられたi

 

 

 大嘗祭は、いわば践祚(せんそ:新天皇の即位)時の《新嘗祭》であり、毎年恒例として行われる新嘗祭(現在の《勤労感謝の日》は、戦前までは新嘗祭という神道祭祀の祭日だった)と本質は一緒なのだが、新嘗祭が宮廷内の皇室祭祀であるのに対して、大嘗祭は国家規模の祭とされてきた。新嘗祭は毎年霜月(11月)末に皇居内の神嘉殿で執り行われる祭祀で、天皇のみ(世話係の賞典は入室する)が内陣に入り、皇室の祖先神に日本各地の特産物や神米を捧げ、共食する儀礼である。この大嘗祭に対して民俗学者折口信夫は、1930年に学位論文の中で「大嘗祭の本義」を発表し、科学者の立場から、伝統的な神道家の説を批判して、次のような理論を発表した。

 

大嘗祭は、先帝が<崩御>した際に行われる《服喪》期間の後の《喪明けのための祭儀》であり、この祭儀に際して、<崩御した先帝>の身体に鎮まっていた《天皇魂》を新天皇に移す儀礼が行われるとした。大嘗祭本祭の前日には《鎮魂祭》が行われるが、折口は、この祭りは、本来は<大嘗祭後>に行われるものだったのである、と言う。また、大嘗祭の時に移される《魂(たま)》に関して、《たま》とは、天皇のみが身に佩びている<特別な霊魂>であって、その中核は天照大神(あまてらすおおみかみ)が息子の《瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)》に託して地上にもたらした聖なる霊魂であり、さらに太古の大和王国において、その霊魂に王国の全臣民がそれぞれの体内に持っている小さな《たましひ》(折口は、天皇の《たま》とちがって、その霊力が<弑(し)ひ>た状態の、低いレベルの霊体である、とした)を捧げたことで立ち現われた巨大な集合的霊的総体である、と折口は主張した。

 

 以上のような折口の説は、間接的に日本臣民は天皇に絶対服従し、命(たま弑ひ)を天皇に捧げるべきだ、というメッセージを伝えており、発表当時(1930年代)、議会政治が論難され、天皇親政が望まれようになった、いわゆる《昭和維新運動》が吹き荒れていた時期であったので、デモクラシーを敵視する政府やジャーナリズムに歓迎される内容であった。天皇が現人神であり、大和臣民は天皇に命を捧げるべきだ、ということが、《科学的》に証明されたからである。折口説は神道界のみならず、政財界においても権威的理論と見なされるようになった。

 

 

しかしながら折口説には根本的な誤謬が多々ある。まず、彼の<科学理論?>の中核をなす《たま》概念であるが、その論拠は《鎮魂祭》の存在である。大嘗祭自体には《たま》に関する儀礼は一切ない。大嘗祭の本祭(伝統的には霜月末の卯の日の深夜に《悠紀殿》で一回目の儀礼祭祀が行われ、その後数時間後の早朝に《主基殿》で二度目の儀礼祭祀が繰り返される)の前日に《鎮魂祭》が行われるのだが、その名称に<鎮魂>なる概念が用いられていることが、大嘗祭解釈の混乱の要因となったのである。この《鎮魂祭》という存在は、現存する最古の法典である養老令ですでに「大嘗祭の前日に行うべし」と規定されている。折口の主張する、「鎮魂祭は大嘗祭の翌日に行われた」ということは、その痕跡すらない。

 

また崩御した先帝から新帝に《魂移し》するのであれば、祭殿は一棟であるほうが合目的的であり、二棟で全く同じ食事儀礼を行う理由がさっぱりわからない。また歴史的に見て、新天皇即位の半年以上、場合によっては数年後に大嘗祭をしてきた、という慣行は、崩御した天皇の身体を保存せねばならないことになるが、その必然性が全く分からない。現存する最古の文献は『日本書紀』、『古事記』(本稿では両者を『記紀』とよぶ)および『養老律令』、それに『風土記』の断片しかない。その『記紀』には大嘗祭という言葉は散見されるが、新嘗祭と区別して使われておらず、国家祭祀としての大嘗祭の記載はない。また「皇極天皇記」にも見られるごとく、両祭が天皇に独占された祭祀ではなく、親王や群臣の館でもおこなわれた、とある。この祭祀は、天平期以前は、多分一般の氏族の間でも行われていた収穫感謝と来年の豊作を願う《豊穣儀礼》であった、と言うことが分かる。天武天皇までは、少なくとも新天皇の即位儀礼と大嘗祭は全く無関係であった。折口が大前提としている、「大嘗祭は服喪儀礼明けの祝祭である」、という根拠は『記紀』や『律令』には存在しない

 

 大嘗祭を国家祭祀とし、新嘗祭や大嘗祭を天皇の儀礼として独占したのは持統―聖武天皇の時期であるのだが、天武―持統天皇系の天平王朝においては、天皇位は《死に譲り》ではなく、《生前譲位》を基本とした王朝であった。平安期以降も多くの天皇が生前譲位し、上皇や法皇となった。思うに、折口の言う《服喪説》は、明治期に創られた『皇室典範』の規定から類推されたものであり、そこでは天皇位は先帝の死後皇太子が継承する、と規定されていた。

先に述べたように大嘗祭には《悠紀殿》と《主基殿》の二棟が新たに建設され、祭式終了後に速やかに解体された。現在の大嘗祭解釈は、平安期以降に神道関係者によって伝えられた《魂移し》説と、折口によって付加された《服喪明け儀礼》説が主流であるが、いずれにしても二棟を建設する理由を説明できていない。抜本的な理論の見直しが必要である。本稿では、大嘗祭儀礼、特に前日に行われる《鎮魂祭》の儀礼に注目し、さらにこの儀礼の中核となっている《たま》概念を取り上げて、新たな大嘗祭解釈を提示して見ようと思う。

 

 

i 大正度の大嘗祭には当時の通貨で900万円以上が投入されたという(予算は800万円)。当時の小学校教員の初任給が20円程度であったことを考えると、数千倍と換算されるので、現在の価値では数100億円だったと言えよう。昭和度は小中学生までが田んぼの管理に動員されるなど見えない費用を入れると、天文学的費用となったと推定される。

 

 

 

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折口信夫の『大嘗祭の本義』における《たま(魂)》解釈への批判的検討

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大嘗祭の本義を再考する 折口信夫の論考に関する批判的検討

(PDFファイル全167ページ)

 

 

折口信夫の『大嘗祭の本義』における《たま(魂)》解釈への批判的検討

(PDFファイル全18ページ)

 

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DaijoSai What is it

Chapter one Daijo-Sai (大嘗祭) ceremony and Shinjo-Sai (新嘗祭) ceremony

Chapter two: Socio-political change in ancient Japan

 

 

 

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DaijoSai What is it

Chapter one Daijo-Sai (大嘗祭) ceremony and Shinjo-Sai (新嘗祭) ceremony

Chapter two: Socio-political change in ancient Japan

 

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KASAI, Masahiro

Profile: Graduate from the Literature College of Kyushu University.  Degree; MA.  Major in “Comparative Study of Religions”, especially Japanese religions.  Councilor of “Japanese Association for Religious Studies”

Lecture Carrier: A part time instructor of seminars at Kyushu University.  A part time instructor of normal lecture at Tokyo University of Foreign Studies. A part time instructor of normal lecture at the University of the Air.  Lecturer at Seinan-Gakuin University.  A part time instructor of normal lecture at Fukuoka University.

 

Introduction:

1. About the abdication of Tenno’s throne in 2019

On April 30 of this year (2019), the former Tenno, Akihito, abdicated his throne to his Crown Prince, Naruhito, according to the requirement of the Tenno, Akihito.  In 2017 Akihito suddenly publicized his will of abdication through TV broadcast.  The Cabinet of Prime Minister, Abe Shinzo at first objected Akihito’s requirement, because under the stipulation of the Imperial Household Law, Tenno’s throne should be taken over by his first son, after the former Tenno was dead.  The advisory committee of Abe cabinet insisted that the stipulation had based on the tradition of Tenno’s family through history.  The law had been established and publicized in 1889 during Meiji era, and after WWII, minor modification was made.  So, most of the contents were remained untouched. That stipulation is among them.  In the broadcast, Akihito suggested reviewing the contents of the going Imperial Household Law.  Contrary to the Abe government’s speculation, more than 80 percent of Japanese supported Akihito’s requirement.  Abe cabinet compromised to Akihito’s requirement, and it admitted the abdication as an extraordinary case because of the high age and anxiety of the health of Tenno.  However, this attitude was very impolite, because we can commonly see the abdication case while the former Tenno was still alive through history.  It is the stipulation of the Imperial Household Law that has broken the traditional custom of Tenno’s family.  Anyway Tenno’s throne was abdicated to Crown Prince, Naruhito, and he became the 126th Tenno on May 1 in 2019.  

    By the way, there have been three important ceremony concerning the succession of the Tenno’s throne: ① 朝見の儀 (Choken-no Gi; Rite of the first morning greeting), which was already held on May 1. ② 即位の礼 (Sokui no Rei; Publicizing event of the New Tenno to the world) ③ 大嘗祭 (Daijo-Sai: first divine-rice-eating ceremony for the New Tenno).

    The first two ceremonies are simply political ones.  For example, after Choken-no Gi, the new Tenno can carry out his normal tasks.  In this ceremony, the three symbols (a sword, a bronze mirror and a comma shaped bead)of Tenno’s throne are taken over from the former Tenno to the new Tenno.  As soon as the new Tenno takes over the symbols, he is able to conduct Tenno’s normal tasks. This ceremony has little religious meaning. Sokui-no Rei also has no religious meaning.  It is merely a publicizing event.

    However, the third ceremony, Daijo-Sai, is a very religious and enigmatic one.  This ceremony has an essential implication of the existence of Tenno.

 

2.About Daijo-Sai (大嘗祭)

Sai means ceremony.  Daijo-Sai has been regarded as the most important ceremony in Tenno’s Court since ancient period.  This ceremony first appeared in the existent oldest lexicon named “Taiho-ritsu-Ryo (大宝律令: Lexicon compiled in Taiho years, publicized in 701)”.  This means that Daijo-Sai was created during the reign of Jito Tenno (持統天王: 645-702, reign 690-697) and Monmu Tenno (文武天王: 683-707, reign 607-707 ).

       Daijo-Sai is held in November.  It is a three-day set ceremony.  Before Meiji Revolution (1868), it had been held from Tiger’s day (寅の日: Tora-no-Hi) to Dragon’s day (辰の日: Tatsu-no-Hi) in November in Japanese classical calendar.  The first ceremony is called “Chinkon-Sai (鎮魂祭: Spirit or Soul appeasing ceremony)”.  Please remember that Tenno never participates in Chinkon-Sai.  Only the staffs of Imperial Household Agency attend the ceremony.  It is a kind of preparation ceremony.

 The contents of the rituals in the main ceremony are rather simple.  The main rituals are divine-rice-eating feasts.  Tenno eats divine rice in two palaces respectively with a few hours’ interval. One is called “悠紀殿 (Yuki-den)”.  Den means a palace.  The other is “主基殿 (Suki-den)”.   Tenno gets into the Yuki-den by himself in order to eat divine rice, late in the evening of Rabbit day (卯の日: U-no-Hi, the next day of Chinkon-Sai).  And very early in the morning of the next day(Dragon’s Day)Tenno again eats divine rice by himself in Suki-den.

    Concerning Daijo-Sai, there have been two riddles.  One riddle is why Daijo-Sai has required two palaces?  Yuki-den and Suki-den have been built, every time Daijo-Sai has been held.  Soon after Daijo-Sai is over, these palaces are demolished.  It is said that about $ 25 million was spent, in order to carry out Daijo-Sai in the time of Heisei.

    The other is why Chinkon-Sai is held on the previous day of the main Daijo-Sai ceremonies. 

 

3.The most enigmatic existence: Chinkon-Sai (鎮魂祭)

Most of scholars who have studied Tenno’s court rituals have explained since Heian period (794-about 1180) that Daijo-Sai has been held for the purpose of transplanting Tenno-Soul (Tama: 魂) from the former Tenno to the new Tenno.  They have insisted that every Tenno has inherited an extraordinary great soul called Tenno-Rei (天皇霊) in his body since the first Tenno, Jinmu (神武).  The Tenno-Rei has been called Tama (魂) as well.  The Tama was given to the first ancestor of Jinmu Tenno, named Ninigi-no Mikoto (瓊瓊杵尊) by the highest deity, Amaterasu-oh-mi-Kami (天照大神).  Every Tenno has inherited the Tama in his body.  This has meant to Tenno’s attendants that every Tenno has been an avatar of Amaterasu-oh-mi-Kami, and so a living God.  This traditional interpretation has relied on the literal meaning of the idiom, 鎮魂(Chinkon).  Chinese letter 鎮 (chin) can be understood ‘sink’ or “bury”.  Tenno’s Court staffs and Shinto ideologues have maintained the theory that Daijo-Sai has been a ceremony in which Tama (魂) has been removed from the former Tenno’s body and “buried (鎮)” into the body of the new Tenno. I’d like to call this theory “Tama transplant theory”.  However, if you see the rituals of Chinkon-Sai, you cannot find any evidence that Chinkon-Sai rituals have a connection with the Tama transplant theory.

 

4.The most authorized theory concerning Daijo-Sai now: Origuchi, Shinobu’s “大嘗祭の本義: Essential Meaning of Daijo-Sai”

In 1930, Keio-gijuku University professor, Origuchi, Shinobu published his thesis, “古代研究 (Study of Ancient Japan)”.  “大嘗祭の本義” was one of the chapters in this paper.  He added his new view to the traditional interpretation of Daijo-Sai.  At the time, under the strong influence of newly established Soviet Russia, National Socialism began to prevail among Japanese intellectuals.  Young officers in Imperial Japan military supported the ideology as well.  Political priority of military took over parliamentary politics.  Under the ideology of National Socialism, a charismatic political dictator gained control over people directly, and destroyed old fashioned parliament system and capitalism as seen in the USSR or Nazis.  In Japan National Socialists regarded Tenno as a living God, and tried to destroy parliament system and capitalism.  They hoped that Tenno grasped the direct power to rule over Japanese people. They insisted that all Japanese should sacrificed their lives to Tenno.

    When Origuchi wrote “Daijo-Sai no Hongi”, he added his peculiar theory to the traditional “Tama Transplant Theory”.  He discriminated “Tenno’s Tama (魂)” from common people’s tamashi-hi (霊魂).  Origuchi insisted that in the early stage of Yamato kingdom, people had directly offered their tamashi-hi to Tenno.  As a result Tenno’s Tama became a huge, supreme godly existence.  According to Origuchi’s theory, Japanese people should offer their lives, and obey absolutely to Tenno.  His theory had the similar structure as National Socialists’ political world view.  He was welcomed by them, and became an authority of Shinto world.

    However, his theory also could not cover the theoretical defect: why Daijo-Sai requires two newly built palaces, and needs to hold Chinkon-San on the previous day of Daijo-Sai?

  

5.     In order to grasp the answer to these riddles, please read my paper attached on this blog.  By clarifying the riddles, you can find out the essence of Tenno, and the historical characteristics of Japanese political system.

 

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DaijoSai What is it

Chapter one Daijo-Sai (大嘗祭) ceremony and Shinjo-Sai (新嘗祭) ceremony

Chapter two: Socio-political change in ancient Japan

 

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大嘗祭の本義を再考する 折口信夫の論考に関する批判的検討

 

今上天皇(2019年5月1日からは平成天皇)の譲位発言を巡って

 本年(2019)5月1日に今上天皇が譲位し、新天皇が即位します。現行の『皇室典範』では、天皇位(天皇という名称は天平期に成立し、それ以前の《大王:おおきみ》とも中国で確立した《皇帝》とも違う天武・持統新政治支配体制下の最高権力者の尊称。王位とも皇帝位とも区別するために天皇位を用いる)は、天皇の死後長男が新天皇として継承するという規定になっているので、現内閣は生前譲位に強い抵抗を示しました。しかし民意が譲位に親和性を示したので仕方なく一代限りという条件付きで了承したという次第です。つまり現天皇が《伝統》を無視してわがままを通したという形にしたわけです。安倍政権が恐れたのは、譲位問題を『皇室典範』改正論議へと持ち込みたくなかったからで、そうなると天皇体制を議論しなければならなくなり、天皇という存在を巡る《伝統》という名の様々な虚偽が国民の目にあからさまになるのを恐れたからです。大日本帝国が崩壊したときに大日本帝国憲法は停止され、日本国憲法が最後の帝国議会で承認されて戦後政治が始まりました。しかし大日本帝国憲法を踏まえて成立した『皇室典範』はごく一部の改編で、戦前体制を引き継いでいます。つまり『皇室典範』は安倍首相ら自主憲法主義者の心の支えとなっているのです。

 

多くの《伝統》は明治政権下で創造された

歴史的にみると、天皇は死後継承を伝統として規定してはおらず、死後継承は明治新政権が創造した新規定でしかありません。これはほんの氷山の一角です。伝統的と思われている規定の多くが明治新体制下で創造されたのです。その結果は《伝統》を根拠とする嘘が生まれることになりました。このブログで紹介しようと思っている《大嘗祭》についても、それが実は何なのか、ということに対する解釈も、いわゆる識者と称する人物たちが「日本の太古からの伝統だ」とする荒唐無稽な解釈をテレビやネットその他のメディアを通して、ばらまくことになると思われます。その最たるものは、《大嘗祭》は天皇の死後、その偉大なる霊魂、すなわち初代神武天皇以来受け継がれた天皇霊(タマと呼ばれる)、を亡くなった先帝から次の天皇が受けつく儀礼をおこなう祭りだ、とするものです。この天皇霊は天上界の最高神天照大神が息子の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に託して天皇の祖先の身体に沈め(鎮魂し)たもので、それゆえ天皇自体が神である、という天皇霊論です。

 

折口信夫は天皇霊論で何を伝えたかったのか

天皇霊論の極限の解釈は、1930年代に《昭和維新運動》が過激化する世相下で、折口信夫によって主張された、「天皇霊はすべての国民の個々の小さな霊魂が天皇にささげられたものであり、それゆえにすべての国民は天皇に絶対服従すべきだ」という理論で、この理論はその後の神社神道界での正統理論とみなされるようになりました。それは発表直後から始まった満州事変以降の戦時体制、国家総動員令体制にとって極めて好都合な理論で、明らかに日本国民に「天皇のために命を捧げよ」と檄を飛ばす強烈なメッセージが込められていました。発表後すぐに折口理論は神道界のみならず、政界や宗教系の学会で正統理論として受け入れられてしまいました。歴史学者を中心に神道界を含めて一部の批判はありましたが、ほぼ無視されています。

 

なぜ折口説が正統性を持てたのか

 折口の成功を支えたのは、彼が民俗学者で慶応大学教授であり、客観的な科学に基づいた知見だと公的学会で受け止められたことが背景としてあります。この科学というのが曲者で、これこそ研究者の主観によって構築された虚構以外の何でもありません。部外者がわからないことを良いことに、ヨーロッパでは17世紀に科学者たちは学会という組織を立ち上げて権力をを持つに至っており、学会の中心メンバーは組織の公認を背景に《識者》という権力者となっているだけです。折口が神社の一神官の立場で発表しておれば、彼の大嘗祭論は珍説として退けられ、神道界に影響力を持つことはなかったと思われます。フランシス・ベーコンが、人間が陥りやすい妄想をイドラと呼び、その中で最も質(たち)の悪いイドラを《劇場のイドラ》と呼びましたが、これはまさに識者と称する人々が世界にばらまく迷信を指していました。折口説の学会のみならず政界や経済界への支配的な影響は、彼が一流大学教授で、民俗学会という世界的に公認された科学的学会の中心メンバーであったという事実に基づいているのです。

 

折口信夫が『大嘗祭の本義』で伝えたかったもの

 折口は《書かれていない歴史を再構築する》という《民俗学》の方法的特性をうまく利用して、天平王朝以前の太古における文字なき時代を設定し、そこでの天皇家の祭儀を復元する、という手法を用いました。まさに《伝統中の最古の伝統》の再構築という権威付けの方法です。しかし冷静に考えると、文字的記録が全くないので、歴史学者の埒外となり、言いたい放題になる危険性をはらんでいた、といえます。折口は、《天皇は天照大神の地上での分身である》とした平安期以来の公家名望家による伝統的?解釈に、《太古には天照大神の現世での現人神たる天皇に大和国民全員が自分の小さな《魂》を捧げていた》、という科学的知見を強引に付加したのです。そしてその見解は《科学的》あるがゆえの真実とされてしまいました。それは明治期以来築き上げてきた《議会制民主主義》を圧殺し、天皇親政を基軸に民心を一つに統合して《国家総動員令体制》を築こうとしていた《昭和維新》体制下の政府や、その法令を支持して国民を扇動したジャーナリズムにとって極めて好都合な天皇論でした。なお、この独自の天皇論を成立させるための大前提として、折口は天皇の位の本質は、天皇の身体に《天皇霊:タマ》が鎮められていることであり、先帝の死後新天皇はその天皇霊を自分の身体に移し、鎮めなければならない、という《タマ死に譲り》説を提唱していました。そしてこの《タマ死に譲り説》を証明するものが《大嘗祭》だったのです。折口自説の正統性を主張するために1930年に『大嘗祭の本義』を発表しました。

 

天皇家に死後譲位という伝統はない

しかし歴史的事実を伝統と称するのであれば、天皇位に関しては、長男一括相続を基盤とした《死後譲位》という伝統はありません。それは徳川家康が家訓として徳川家に作った規定で、天皇家とは無縁です。文献的にわかることは、大嘗祭は新天皇が初めて行う《新嘗祭》であり、そこには天皇霊の譲渡を示す儀礼など全く存在しません。新嘗祭は毎年11月に行われる祭りで、天皇が神田で収穫した神米を神殿に降臨した神と共食する儀礼です。大嘗祭は新天皇が最初に神の降臨を願う特別の祭りですから、新御殿を建立する特別な祭りとなったのです。この祭りの中心儀礼は、天皇以外は何人も全く行ってはならないものです。退位した天皇(院や上皇となった)にも許されない厳格なものです。しかしながら、この祭りは、平安期以来全く理解されないままに現在までひたすら儀礼を遵守してこられたのです。筆者は、論文大嘗祭の本義を再考する 折口信夫の論考に関する批判的検討において、なぜ大嘗祭の諸儀礼が理解不能になったのか折口が理解不能なのを逆手にとって、それを国民の天皇への絶対服従を命ずる祭りである、などと主張できたのか、といった問題を解明したいと思っています

 

 

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大嘗祭の本義を再考する 折口信夫の論考に関する批判的検討