最初は聞き違いかと思った。
でも、間違いなくそれは人の声だった。男性だろう。だけどどうして無人のはずの上の階から声が聞こえてくるのかわからなかった。けれどあきらかに誰かがいるのなら見に行くべきだと思った。
ただ私のような非力な人間が一人で見に行くのは自殺行為だというのも事実だった。こんなことなら普段から護身用の武器でも持っていればよかったと後悔した。そんなわけでこの部屋で一番の武器である果物ナイフと懐中電灯を持って私は上の階を目指して部屋をでた。
廊下にでてすぐに思ったのはやはりあの不快な臭いだった。本当に臭い。やはり誰か亡くなっているのではないのだろうか? そんなことを考えながら私は軋む廊下をゆっくりと歩いた。
臭いの後に気づいたのは誰かの“視線”だった。
誰かに見られている? 後ろ? 前? 何度も後ろを振り返ったけれども誰も見当たらない。勿論前方にもいない。どういうことなのか意味がわからなかった。
木製の階段はしっかりとした造りをしていたし、あきらかに軋む床やクモの巣だらけの天井よりも綺麗だった。もしかすると最近になって新しく作り直したのかもしれなかった。
二階に上がってすぐに少し離れた部屋から灯りが漏れているのに気がついた。声はそこからしていた。
「誰か助けてくれぇ」
罠かもしれない。助けを呼ぶ声に勿論心配したけれど私は音をたてないように慎重にその部屋を目指した。
その部屋の前にはその人物のものと思われる鞄が置かれていた。よく使いこまれた肩から掛けるタイプの革製の黒い鞄だ。
その人物は床に倒れた状態だった。そして男性の腰から下にかけて巨大な本棚が乗っかるように倒れている。
とても大きな本棚で私一人ではとても助けられるものではななかった。
「良かった! 助けてくれ。急に倒れてきて困っていたんだ」
その外国人の男性は顔を真っ赤にしながらそう言った。罠をしかける為の演技などではなく、本当に苦しそうだった。勿論すぐに助けてあげなければならないと思ったけれど、古い木製の本棚は私が試しに持ち上げようとしてみたけれどやはりびくともしなかった。
「鞄だ! 俺の鞄をとってくれ」
本棚を動かすのが難しいとわかった男性は部屋の前に置いてあった鞄を指さしてそう言った。
私が鞄を渡すと男性は鞄から取り出した携帯電話でどこかにかけだした。
早口で聞き取りずらかったけれど「Police please」と聞こえたので、どうやらダイヤル911に連絡したようだった。
「久しぶりだね。夜野さん(私の名前)」
電話をきった男性が急に私の名前を口にしたので驚いた。そしてよくその中年の男性を見てみると見覚えのある顔だと思った。
「※※の旦那だよ。忘れてしまったのかい?」
「ごめんなさい。動揺していて気づきませんでした」
男性は叔母の旦那さんだった。数年前に叔母が再婚した時に日本で一度だけ会ったことがあった。すっかり忘れてしまっていたけれど、確かに言われてみるとその男性は叔母の旦那さんだった。
その後、旦那さんは叔母にも電話して、警察官と一緒に叔母も来た。無事に旦那さんは救助された。その時叔母が旦那さんに「どうしてこんな時間に探していたのよ。もっと考えなさいよ!」と私が廊下にいる時に言っているのが聞こえてきた。
旦那さんが怪我をしていなかったのは良かったけれど、叔母の言っていた探し物の件が気になってしまった。
私は叔母に先ほどのテレビ番組の取材は受けないと言った。
頭痛や始めたばかりの海外生活の影響でテレビの取材を受ける気持ちにはなれないからだと説明した。叔母はしつこく一緒に立ち会うから大丈夫だと言ってきたけれど私はきっぱりと断った。
結局叔母は旦那さんと二人で明後日取材を受けると話していた。「もし気が変わったら合流しても大丈夫だからね」と言われたけれど私は返事をしなかった。
叔母が帰る時に気になっていた“不快な臭い”のことを聞いてみた。
「臭い? 私は別に気になったことはないけれど、古い建物だからね。やっぱりそれなりに傷む部分があるのかもしれないわね」
叔母の口振りは私の感じている“不快な臭い”を感じてはいない感じだった。なので私が建物自体の臭いではなく、もっとどぎつい臭いがしない?と聞いてみたら「わかったわよ! 私が無理に取材を受けるように言ったのが嫌だったんでしょ? でも私は素敵な経験だから一緒にできたら良いと思っただけなのよ。悪かったわね」叔母はそういうと悲しそうな顔をして帰ってしまった。
私がテレビの取材が嫌で嫌がらせで言い出したのだと思ったのだろう。勿論そんなつもりはなかった。本当に臭いので聞いてみたのだ。
窓の外はいつの間にか暗くなっていた。
私はベッドに横になり、このままこの家で生活していて大丈夫なのだろうか? と考えていた。叔母の旦那さんや警察官も帰っており、上の階は確実に無人のはずだった。なのに上の階からまた物音がしていた。そういえば、あんな巨大な本棚が倒れたのにどうしてその時に物音がしなかったのだろう? もしかすると、あの部屋だけ防音されているのだろうか? あれこれ考えているうちに私は眠ってしまった。
次の日の早朝、急に呼び鈴が鳴りだした。
私があわてて玄関に向かうと以前見かけたお隣の家に住んでいる高齢の女性とウサギの仮面を被った人物が立っていた。