10月18日、木工家で書家、詩人の須甲隆重さんのギャラリーへ。
朗読とバイオリンコンサートでした。
先月、お世話になっている岐阜県可児市のカフェ、樹の萌(きのめぐみ)にお邪魔した際に、
先にお店にいらしていた須甲さんをマスターが紹介してくださり、
和紙で作った名刺とこのコンサートの案内を頂き、
そこでただならぬ雰囲気を感じ、
ちょうど仕事も休みなので、兎にも角にもお邪魔してみようと郡上市へ。
須甲さんの詩に感銘を受けた方による朗読とバイオリン演奏。
合間に須甲さんもトーク。
ご本人曰く、喋るのは苦手とのことですが、
木への想い、詩の表現への想いを、
素朴ながら、確かな手応えを感じている確信が伝わるお話。
どんなに人生の中で辛いことがあっても、
木だけは自分を裏切らなかった。
木への崇拝とも言える思い入れを語られていました。
その中で、木と会話をする。
木に話しかけると、木は応えてくれる。
といったお話がありました。
以前このブログでも書いたのですが、
自分には木と対話しているという実感はありません。
木を見て、木目を見て使い方を考えることはしますが、
木から何かを語りかけられた(ような)実感は無いのです。
朗読の中で、
お母さんの愛についての詩が読み上げられた時に、
自分の母親の生き方を心の中で掘り起こされ、
決して子育ての上手な人ではなかった母親の、
それでも自分に注がれた不器用な愛を見つめるに至り、
涙が込み上げました。
須甲さんはご自分のお母様をイメージされて書いたのだと思いますが、
「母」というキーワードにより、
聞く人たちは皆それぞれに自分の心の中にある母親を掘り起こされ、
その愛を見つめ、
それぞれの形ではあるものの、どこか深いところで共通するものを感じる。
共感の仕組みが見えた気がしました。
逆に、自分の引き出しの中に無いものには共感はし得ない。
木と対話する感覚。
コンサート後、須甲さんに挨拶させて頂いた際に、
不躾にも、木と会話するってどういう感覚なのですかと尋ねてみました。
須甲さんは困ったご様子で、
話すと長くなるので、時間を改めてと仰いました。
まぁ、そりゃそうだ。
もっともっと経験を積んで引き出しを増やしたうえで、
須甲さんにまたお尋ねしたいと思いますが、
今の時点でどう感じるものなのか、
またはまるでわからないものなのかも気になるので、
須甲さんには甚だご迷惑とは思いますが、
そう遠くないうちにまたお尋ねしてみたいと思います(笑)






