”戦後の偏差値教育の弊害!!!” | のんびりバラ育て

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リブログさせて頂きました。

【一部抜粋】

困っている人がいれば、手を差し伸べ、助けてあげる事が当たり前であった。

お国の為に、命を捧げる事も厭わなかった。

これが、日本人であり、国が強くなった理由でもありました。

 

しかし、欧米列強は、そのような日本人を脅威に感じ、潰しにかかってきたのであります。

戦後は、偏差値の高い学校へ行く事が、良い教育だと思わされ、お金さえ稼げれば、それが全てだと思わされてきたのです。

今の国会議員を見れば分かりますが、日本人ではない人ばかりが蔓延っているせいで、自分のお金儲けの事しか考えておりません。

他人の事などはお構いなしにです。

 

 

 

*****
【思う事】
わたしの姉は3人兄妹の真ん中のせいか、一人で何でも出来る子だったようです。
母は後になって、「姉が小学生の時に授業参観に行くと、いつも姉の100点のテストが教室に貼ってあるので行くのが楽しかった」と言いました。
両親は、成績に関係なく「うちの子はみんないい子だ」って言って育てていたので、それぞれの成績でも氣にする事無く育ちました。


時は流れて、わたしが結婚し娘が生まれ五体満足に産まれたと思っていました。
仙台の小児科医にも1歳児健診で、「上手に育っていますよ。」と言われていたのです。
それが1歳半になっても歩いていないので、そこからが大変な道のりになってしまいました。


首都圏に戻り、幼稚園の先生の勧めもあり小学校は通常学級でスタートしました。
そして、1年生の授業参観がありました。

娘のランドセルを置くロッカーを見ると、金魚鉢が置いてありました。
授業参観が終わると、娘はクラスメートの女子のランドセルを3,4個持って手渡ししているではありませんか。


本来ならば、授業が終わったら自分のランドセルだけ持って来れば良かった筈です。
(娘のランドセルはどこに置いてあったのか?)


そこには、担任の先生が居て、参観に来たお母さんたちが居て
そして、打ちのめされてしまった愚かなわたしがいました。

それぞれの立場で、何事もなかったかのように眺める傍観者でした。

 

全員が悪魔の手先かのようでした。

 

*娘はその後、ランドセルの鍵も閉めないで逆さまに背負ってしまい、教科書、ノート、鉛筆箱、全て床に落ちたのも思い出しました。
一人だけ、上着を着たまま授業を受けていたのです。

 

夫が勝手に選んで仙台から引っ越した先は、本来の日本人が住んでいなかったのでしょうか?

 

わたしが子どもの頃も1クラスに2人位は遅れている子もいたと思うのです。

中学校でもやはり遅れていそうな子がいました。

わたしの友達が「あの子大丈夫かな」と心配する程でしたが、当時は頭が悪いとかIQが低いからと言って虐める子はいなかったのです。

わたしが育った公立小中学校が良かったとも言えますが、自分たちが育った状況とあまりにもかけ離れた状況でした。

 

 

 

*義姉の「うちは、みんなダメなんだ」という発言について
 

明治以降、名前の無い人に日本人名を付けて、同化させていった弊害でしょう。

IQが低くても生活できたのに、その人たちを連れて来て日本人と同じ勉強をさせても

小学校2~3年生までの勉強しか出来なかったそうです。(ア〇ヌ文献資料による)

 

*同化政策も、「日本人の振りをした政府が」行った事であり、日本人のパワーを同化する事で弱めることが出来ると考えたのだろうか。

日本人が起こしたと言われる戦争というのも、正確には「日本人の振りをした政府」に置き換えねばならない。

残虐な事件も、調べてみれば「日本名を名乗っただけの外国人」。

風俗で遊ぶのも日本人の振りをした人達で、そこで働く人も日本人の振りをした人達ではないだろうか。

 

そのIQの低さを克服するには、日本人と結婚するしかなかった?

日本人と結婚できなければ、日本人に似た人と結婚するしかなかったのか?

 

義姉の夫は、日本国籍のある外国系やーさんである。

義姉は優しい良い人なのに、ア〇ヌ系で酒乱の父、文盲の母を持ったばかりにそういう人と結婚したのでしょう。(文盲の母というのも、日本国籍のある日本人に似た外国人なのかも知れない。)
 

 

「日本名が付いているから日本人」だなんて、騙されてはいけない。

 

これから、日本はどうなって行くのだろう。

本来の日本人が、立ち上がる事が出来るだろうか。

捏造された嘘の歴史を塗り替えることが出来るだろうか。

 

 

 

+++7/7+++

娘が中学生になった頃、私が働いていたお店に先生はやって来た。

わたしに氣づいて、小学生の子どもさんと一緒に近づいてきた。

「こんにちは」と、わたしの方からにっこり笑ってあげた。

自分でも驚いたが、時は流れていたのだ。

 

申し訳ないけれど、娘のようにぼんやりした女の子だった。

先生もわたしと同じ苦悩を背負って生きて行くのだろう。

そういえば、親子とも日本人の顔付きではないし体形も違う氣がした。

日本語を話すから、分からないのです。

 

溺れている犬を助けるのが日本人で、溺れている犬をさらに蹴落とすのが

あの人達なのか。