地球時間をたいせつに。

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外にあると思っていた宇宙は、自分の中にありました。

自分の中の気づきを。




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合成シャンプーについて書いてまいりましたが、

今回は石鹸シャンプーについて書いてまいります。


環境にやさしいものにと、石鹸シャンプーがもてはやされている面もありますが、わたしは疑問に感じているひとりです。


わたしも石鹸シャンプーを使用したことがあります。

これなら安全だろうと。

そしてそのときは、石鹸シャンプー以上によいものなどないと思っておりました。


けれども一カ月も持続できず、挫折してしまったのです。


その理由は、洗い上がりが悪いから。

そしてブラシの根元にまとわりついている、石鹸カスの不快さのせいでした。


石鹸シャンプーにかかわらず、家庭用住居洗剤として、粉せっけんを使ったこともありましたが、それも挫折してしまいました。


その理由は、やはり石鹸カスでした。


後でわかったのですが、石鹸カスは配管を詰まらせる弊害があるらしく、環境にやさしくしているつもりがそうではないということを知って、一体どうしたらよいか分からなくなったことがありました。


石鹸シャンプーも同様で、皮脂と石鹸がくっつくと石鹸カスとなり、頭皮の不快感がぬぐい切れなかったわけなのでした。


現在は100%インドハーブ で洗髪しておりますが、石鹸カスのストレスは全くなく、頭が軽いです。かゆみもふけもなく、頭皮のにおいもありません。嘘のように仕上がりが良いです。



我が家で石鹸シャンプーを使っているのは、ダンナただひとりです。今までダンナは合成シャンプーを使っていたのですが、わたしが合成シャンプーのにおいで吐いてしまったせいで、ダンナ用の合成シャンプーを捨ててしまったのです。


そんなことで、ダンナは仕方なく、家にあった石鹸シャンプーを使用しています。


けれどまたもやこんなことがありました。


ダンナが石鹸シャンプーで洗った後の髪をドライヤーで乾かしていたときです。ダンナの頭のにおいの風が、わたしの鼻腔に飛び込んできたとき、またしてもわたしは「おえ~っ」となったのでした。


ダンナには申し訳なかったのですが、これは石鹸カスのにおいだとすぐにわかりました。脂と石鹸の合成物のにおいだったのです。その不快さは、合成シャンプー使用後のドライヤーの風とは質が違えども、不快さに差はありません。


わたしはいつか、だんなにもインドハーブで洗髪させようとたくらんでいるのですが、その都度お湯に溶かす手間があるだけに、計画は難航しそうな気配です。


けれども一度使ってみればわかります。

もう、合成シャンプーにも、石鹸シャンプーにも戻れないはずです。



ところで長男は6歳ですが、頭の先からつま先まで一切石鹸を使っておりません。お湯洗いのみです。


けれども全くにおいません。



それに準じてわたしも体にほとんど石鹸を使わなくなりましたが、不快感はありません。むしろ石鹸を使っていたときは「粉」がふいていた脚が、まったくどうもなくなりました。



皮脂を取り除けば取り除くほど、体はせっせと分泌するようにできているようです。体にとっても石鹸はストレスだったんだと気付きました。


清潔にしようとして使っていたはずの石鹸が、不潔を招いていたなんて、何とも皮肉な話ですね。



以下に、石鹸と石鹸シャンプーについて書かれたサイトをご紹介しておきます。


石鹸や石鹸シャンプーは本当によいもの?




今回は妊婦としての体験を書いてまいります。


テーマは


「合成シャンプーを見直してみよう」です。




「清潔について再考察:シャンプー編その1」に書きましたとおり、わたしは合成シャンプーを使用しておりません。


その理由は多々ありますが、妊娠3か月目のときにこんなことがありました。



我が家で合成シャンプーを使用しているのはダンナひとりだけです。合成シャンプーの害を説明したところで聞く耳など持たないのはわかっておりましたから、ダンナ専用のシャンプーとして常備しておりました。


ある日、ダンナ専用のシャンプーがなくなりかけていたことに気づいたわたしは、つわりで弱り切った体を精神力で起き上がらせ、シャンプーの詰め替えをボトルに入れようとしていました。


そのとき。


「おえ~~~っ!!!」  *見苦しい場面をお許しください。


合成シャンプーのにおいで悶絶することになってしまったのです。


合成シャンプーといえば、ふつうはいい匂いと感じるものなのでしょうけれど、わたしの体は拒否反応を起こしたのでした。


わたしの体は「O-リングテスト」の全身版のように、すぐに反応してしまうようになっていました。


シャンプーにかかわらず、食品に対しても同様の反応が出ます。妊婦になると頭でなく本能で物の良し悪しを判断するようになるようです。



合成シャンプーについて話を戻しましょう。


合成シャンプーの成分を見れば、天然の成分でないものが多く含まれていることに気づくと思います。


わたしは薬学の専門知識はありませんので、詳しくはわかりませんが、医薬部外品はすべての成分の表示をしなくてもよいという法律があるそうです。



キャリーオーバー といいまして、原料を安定させる目的で配合された成分は、法律で表示しなくてもいいことになっているのです。それこそが、曲者なのだそうです。


このキャリーオーバーに石油が使われているというのです。石油は非常に機能性の高い界面活性剤なので使われるようです。



法律は有毒物質を規制するどころか、わざわざ法の抜け道を作っているわけです。世の中は何でもそういう風に成り立っているわけですが。


よく「モイスチャーミルク配合」なんてコマーシャルしていますが、あたかも牛乳が入っているかのようなイメージですよね。けれども実態は、石油を原料としてあの白い液体を作っているのだとある本に書いてありました。


わたしたちはイメージで商品を購入するように仕組まれています。人体の健康よりも、企業を優先するのが今の世の中です。


消費者は安価で手っ取り早く、使用感がよければ何の疑いもなくリピーターになってしまいます。企業はそれがねらいのようです。



ほとんどの食品も、薬品が使われています。

けれども人体には、肝臓というすぐれた解毒工場が備わっていますので、口から入った毒素は人体が対処できるようになっています。


ところが合成シャンプーなどの経皮的なものは、肝臓を通らずに直接皮膚から吸収し、血液へと運ばれてしまうのです。




アーユルヴェーダでは「頭と子宮はつながっている」といわれています。それはほかの伝統的医学でもそうです。



頭皮で吸収した物質は、即座に子宮へと運ばれる。そのシステムは、西洋医学では解明できません。けれどそれを裏付ける現象が現代病として起こっているのです。



若い女性の間で増え続ける女性疾患(子宮、卵巣)と合成シャンプーの因果関係を、西洋医学的見地からはとうてい解明できないでしょう。



けれども、手術で摘出した腫瘍からはなぜか合成シャンプーのにおいがするということは、現場の医師ならご存知のことと思います。



若い女性は体を清潔に保つために毎日せっせと高い合成シャンプーで髪のお手入れをしています。


コマーシャルに出てくる美しい髪になりたい一心で、トリートメントにもお金をかけることを厭いません。朝晩シャンプーする女性だっています。



わたしたちは生活全般にわたって無知のまま、企業のうたい文句をうのみにして生活しています。そのこと自体に何の疑問ももたずにいることが、どれだけ無防備なのかを知らず、また教えてくれる人もいません。



けれどたとえば、排水溝に流れる大量の(石油系の)界面活性剤の泡を見て、地球を汚しているのではないかという疑問くらいは持ってもよいのではないでしょうか。



そして地球を汚していると感じたなら、自分の体にも悪影響をあたえているかもしれないと感じてもおかしくはないのではないでしょうか。



以下、頭と子宮の関係について書かれたサイトを紹介します。

ご参考になさってください。


子宮や子宮筋腫とシャンプーの関係・生理中はシャンプーもヘナもしてはいけない?


生理前のヘナはおすすめ!生理中の洗髪をやめたら生理痛もなし!

今回は合成シャンプーについて書いてまいりたいと思います。

わたしの体験を交えて、シリーズとして書いてまいります。

健康や環境問題についても関わってまいりますのでどうぞご参考にしていただければ幸いです。




シャンプー編:その1  


「わたしがインドハーブに出合うまで」



わたしは常日頃疑問に思っていたことがありました。

なぜ、毎日毎日お風呂に入り、毎日毎日頭を洗わなければならないのだろうかと。


毎日頭を洗っているのにもかかわらず、一日頭を洗わなければ、なぜべとつきやにおいが気になるのだろうかと。


その習慣って、どこか滑稽に思いませんか。


当たり前のように毎日入浴していますが、こういう生活習慣はおそらく日本人くらいではないでしょうか。



去年の夏のことでした。

ある番組で先住民族が木の実(シカカイ)をお湯にくだき、

茶色の濁った液体にしたものを頭につけて洗っている映像を見ました。


そのシカカイという実にはサポニンという天然の石鹸成分が入っているため、彼女たちはそれをシャンプーにしているという解説だったのです。


一見、不潔に思いました。

なぜなら、まったく泡立ちがなく、むしろ泥の混じったお湯を頭に浴びせていたように見えたからです。

けれど、これこそ自然のあるべき姿なのかもしれないと考えさせられたものでした。



ちょうどそのころ、ネットで「インドハーブ100%のシャンプー粉」なるものに出合いました。成分はヘナをはじめ、いろいろなインドハーブで構成されており、その成分のひとつに、先住民族が洗髪に使っていた「シカカイ」が入っていました。



ふと、この商品を使ってみたいと思いました。


わたしは何でも体験してみたいと思う性質ですので、さっそく購入しました。



商品は茶色い粉末でして、漢方薬に近い匂いがありました。

使い方はお湯に溶き、香りづけにアロマオイルを入れて、乾いた頭皮にじかにつけるのです。


地肌を洗う、ということで泡立ちは全くないのですが、かえって頭皮のマッサージが入念にできるように感じました。


香りは想像以上によいと思いました。


あとは流すだけです。トリートメントやコンディショナーは要りません。

きしみ感が気になると思うところですが、まったくきしみません。

それどころかサラサラになっていました。

香りは子どもが気に入って「いい匂い~」と言ってくれます。

まとまらなかった髪が、驚くほど素直になってくれます。

「あほ毛」も減りました。

抜け毛もかなり減りました。

整髪剤も、一切不要になりました。



それから気に入って約7か月間、使い続けてきました。

髪は少女の頃に戻ったようで、本来の髪によみがえったようです。

わたしは先住民族の女性の素晴らしい知恵を、体験して初めて知ったのです。



何といっても、毎日洗わなくてもよいのです。

説明書きには3日に一度の洗髪でよいとありますが、まったく問題ありません。

髪を洗う行為や髪へのストレスから解放され、かなり楽になりました。

合成シャンプーを使っていた時に気になっていた頭皮のにおいがまずありません。べたつきもありません。



わたしが使っているインドハーブのシャンプーはこれです。

香る髪500g+モティア10ml 5,290円


価格は高めと思うかもしれませんが、8~10か月分くらいはあると思います。トリートメントや整髪剤が要らなくなるので、むしろ経済的です。


興味のある方はぜひどうぞ。



妊娠してからしばらくのあいだ、ネットも読書もできない日々が続いておりました。


自分では、余計な情報を受信しないように、また電磁波をキャッチしないようにという本能なのかもしれないな、と感じておりました。


そういう感覚は、やはりあると思います。


妊娠5カ月に入り、ようやくパソコンに向かう意欲が出てきたのが

1月後半でした。



そこで得た情報が、ソラゴトさん のブログでした。


『変換』Ⅰ・Ⅱ という本のご紹介をされておられまして、

わたしはこれに反応いたしました。



「本でありながら、単なる読みものではない」という説明がありましたがなるほど、「波動―受振―発信―装置」と説明されている理由がわかりました。





この本についての詳しい情報は、ソラゴトさん がすばらしくまとめていらっしゃいますので、ソラゴトさんのところへ行ってみてください。


(ソラゴトさん、この場をお借りしてリンクさせていただきましたことをお許しください。そしてありがとうございます)

古代中国の賢者、老子を

あなたはご存知だろうか。


もしも老子をご存知であるならば、

彼が語る冒頭の一章を

次のように訳したとしたら

耳を疑うことだろう。



・・・これは『タオ・コード』の冒頭部分です。

われわれの知っている老子はタオ(道)を説く思想家です。


われわれにとってタオ(道)とは宇宙そのものであり、名づけられない領域であり、わたしたちすべての存在がつながっている場所だと認識しています。



著者は20年前に、中国雲南省の奥深い森の中に存在する、

小さな村へと導かれ、そこに老子の子孫と出会ったのです。



老子の子孫が村の村長で、約2500年前に書かれた原本の『老子』を守り続けているのだというのです。


前置きはこの辺にしておいて、

著者のいうところの、「耳を疑う」訳を引用してみたい。



第一章


私は今から性の秘密について語ろう。

かといって、

あなた方がよく行なう、うつろいゆくセックスについて語りたいわけではない。


究極の性とは、この宇宙を生み出した、名前すらない本質だ。

あなた方の知るセックスは、その本質の擬似的表れにすぎない。

だから、情欲的次元を超えて、性なるものの本質を観るんだ。


あなた方が知る粗野な性の悦びを超えた、

はるかなる至福世界がその奥にはあるのだよ。


あなた方はその一時のセックスにさえ不思議なほどの魅力を感じるというのに、そこに秘められた、その何倍もの深遠世界に、どうして気づこうとしないのか。


それこそが究極の性、

すなわち、

森羅万象を抜き超えた至福の領域なのだ。



どうですか?

わたしたちの知る、「道と名づけられるものは、本当の道ではないんだ」という冒頭と全然違っていることに気づかれるでしょう。


もともと「道」と表現されていること自体が、われわれにとってはなんとなくしか理解できなかったのですが、ここでは世間でおおっぴらに表現されることをタブーとされている「セックス」だというのです。



著者の引用を続けます。


老子書の前書きとして語られたこの一章が、

世界的に知られている訳とはまったく異なることに驚かれるかもしれない。

しかし、これは誤りではない。

老子書は、世によく知られる詩文の裏に、

秘教的教えが二重写しで記述されている暗号の書であり、

その秘教は、2500年もの間、人々の目から封印されてきた。

いまや西洋社会でももっともよく知られた東洋の賢者である老子であるが、人々は表層の意味のみでTaoを理解してきたにすぎないのである。


私は、この老子が語る性とは何かを、

中国の奥地で教えられ、実体験した経験を持つ者である。

性とは、人間の幸不幸を決定的に決めてしまう力を握っているものであることを現代人は知らない。


そのTaoの真実を、

老子書の解読と私の体験の告白によって、明らかにしてゆくことにしよう。



この著者が招かれた村は、中国政府の介入されない、秘境の地。

この村には、学校も、警察も、病院もお店もない。

政治も病気も経済もない。

テレビも電話もパソコンもない。

第一、貨幣がない。


しかし人々はまったくの自然と調和しており、

皆若々しく、美しい顔立ちをしている。

衣服は彼ら自身で仕立てた手作りの織物や葉っぱ。

家は彼らの手で作られた、自然素材の小さな家。

畑を耕し、自給自足の生活をしている。

魚は、神聖な生き物なので、特別な時にしかいただかない。

それも、お祈りをしてから魚を捕る。


われわれとはまったく違った世界に彼らは住んでいる。


ただ、われわれが驚くのは性器信仰が当たり前にあるということ。

玄関や家の中心に、男子や女子の性器像がかかげられている。

彼らは玄関をくぐるたびに、性器像にお祈りをする。

彼らにとって、性器は神聖なる宇宙であり、自分自身であり、自然そのもの。

だから裸を見ていやらしいとか恥ずかしいという概念がまったくない。


彼らはすべての存在に感謝し、喜びを表現する。

花ひとつ美しいと思える自分が美しいと感じ、そんな自分と花そのものに感謝する。


彼らの文化にスポーツはない。

共存、共栄、協力が彼らにとって当たり前のことであり、

競争、勝ち負け、争いといった概念がない。


そもそも彼らには怒り、嫉妬、虚栄心というものがなく、

恥や罪の意識もない。


彼らは人間の根源が性エネルギーであることを熟知している。

だから性交渉さえも、儀式的でヨギのようだ。

それは荘厳であり、われわれの知る機械的な動きはまったくない。

そんなことだから、こどもは親の性交渉を汚いことだとはまったく思わない。


子どもが生まれても、親は子どもを所有するという概念がない。

村全体で育てるのがここでは当たり前なのだ。

だから育児ノイローゼも虐待もない。


村は毎日お祭りがある。

それも民族的な儀式としての祭りで、なおかつ皆が喜びに満ち溢れている。

彼らはすべてが神であることを知り、

すべてに畏敬の念を抱き、喜びと共に生きている・・・・。




こんな村が存在していたこと自体に、わたしは驚きと喜びを感じました。

老子の書にある、そのままの理想郷がこの地球上にあったのですから!!


村長(老子の子孫)は言います。

「子どもを学校に行かせて、長時間椅子に座らせるなんてことは人間を狂わせようとすることだ。子どもは躍動感に満ち溢れているのが当たり前なのだ」と。


考えてみれば、小中高校から大学、しかも空き時間は受験勉強に費やした果ての社会人になってもず~っと、長時間座りっぱなしの現代人は、性エネルギーそのものを鬱滞させているわけなんですね。

あらゆる欲求不満の根本が垣間見えたような気がしました。



人間の根源が性エネルギーであるということは、

われわれのような文明社会に生きるわれわれも知っています。

そのエネルギーの運用の仕方がわからないから

欲求不満になり、あらゆる犯罪が起こるのです。



そもそも、宗教が性をタブーとしたのが人類の悲劇のはじまりでした。

いにしえの信仰は、性器信仰だったのです。

それは日本においても同様でした。

それが明治維新によって、野蛮だという理由で葬られてしまったのです。



人間の善性を余すことなく発揮したのが、老子の村なのだとしたら、息苦しい世の中に生きているわれわれ現代人は、泥の中から這い出してハスの花を咲かせようとする過酷なチャレンジャーなのだろうと思います。


泥の中で窒息してしまわないようにと、懸命にあがいているのがわれわれ文明社会に生きる人間の姿であり、神性を見出す喜びは、もともと知っている人たちよりも大きいかもしれません。



老子は性エネルギーについてをそのままに書いたなら、きっと焚書扱いされただろうことを知っていたのでしょう。

だから暗号として「道」と表現したのでしょう。

それはそれでひとつの思想を2500年間も人々に伝えたという功績を残したわけです。



老子を知らなくとも、ぜひ一度は老子の真の暗号を読み解き、触れてみてほしいと切に願います。



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前回はゼロについての話を書きましたが、続きがあります。

今回はその内容を書いてまいります。


「われわれの仕事はゼロにあるところから実際にキャンバスに持ってくることなんだ」とおっしゃる画家Aさんの話は非常に奥の深いものでした。


画家は無から有を作り出すのがその役割であり、無=ゼロから宇宙共有の美を発見し、表現するのが仕事なんだとおっしゃいました。ここまでは前回の記事に書きました。



画家Aさん 

「われわれにとって、キャンバスに絵を起こす作業が『1』なのであって、『2』というものはないんだ。ひたすら『ゼロ=0』から『1』、『0』から『1』の繰り返しをしているわけなんだ」


わたし 「0と1の繰り返しですか・・・。それって、デジタルの世界と同じですね」


「そう。あの複雑なコンピュータでさえ、いたってシンプルな法則でできている。0と1の配列だけで万物を作り上げているんだ」


「はい」


「ゼロは無の世界。しかし何もないのではない。無の世界は宇宙であって、空ともいう。無の世界、ゼロの世界、空の世界は何もないのではなく、すべてを含んでいる世界という意味なんだ。それが宇宙というわけだ」


「なるほど」



わたしはAさんのおっしゃる言葉に深くうなずいた。



「0」と「1」の周波数は宇宙の創造に不可欠なエネルギーです。

画家Aさんのおっしゃる言葉とピッタリ一致します。

このことに気づいたとき、本当にゾクゾクします。



そして、われわれ一般人も、実は「0」と「1」の繰り返しによって、現実を創造しているわけなんです。ただ芸術家と一般人の違いは、創造することを意識的にしているのか、無意識的にしているのかの違いだけだということです。



どうせなら、意識的に現実を創造したいものです。





旧記事を一掃したところで、タイムリーな出来事がありました。

2009年10月6日に意味深い会話をしたので記しておきます。


仕事中での出来事。

相手は毎週火曜日に来られる美術界の重鎮。

名前はAさん、七十代後半の男性。

わたしはAさんに「魔女」と呼ばれています。

理由はわたしの鍼がよく効くからだそうです。


Aさんはわたしに個人講義をときどきしてくださいます。

今回はその内容をご紹介します。



「眠い眠い」と連呼するAさんにわたしがたずねたことが発端でした。


わたし:「昨夜は夜通し仕事でしたか?」


画家Aさん:「そうなんだ」


「芸術家は皆、夜型ですね」


「夜は無音だからね。われわれは無音の世界からイメージを引き出して表現するからね」


「なるほど」


「無音の世界はゼロの世界なんだ。昼間、どうしてもしっくり来ない素描を描いていて納得できないときは、すべてを一旦ゼロに戻すんだ。つまり、すべてを消してしまうんだ」


「なるほど・・・」


「ゼロに戻した時にパッとひらめくことがある。われわれの業界ではこれを『ゼロの起点』と言うんだが、ゼロの起点につながったときのイメージをキャンバスに起こすと、納得する絵になるんだ。これは誰が見てもしっくりくるんだ」


「はい」


「ゼロの起点では、宇宙共有の美が存在するんだ。誰もが美しいと感じるポジションというのがある。われわれは、それを発見して、表現するわけだ」


「宇宙共有の美・・・なるほど、それは黄金比のような感覚ですね」


「そのとおり。名画を見て、誰もが美しいと感じるのは、その絵が宇宙共有の美を表現しているからなんだ」


「モナリザが完璧だと感じるのもそうですね。もしもオリジナルに『ラファエロの円柱』があったなら、人類はあれほどまでにモナリザを賞賛しなかったでしょうね」


「そうなんだ。それにあれは一切の装飾をも取り払ったところにも意味がある」


「『個』を一切取り払っているから・・・」


「そう。モナリザに指輪のひとつでもつけていたなら、誰か特定の個人となっていた。それではただの肖像画となっていたはずだ」


「宇宙共有の美に『個=エゴ』はないはずですもんね。個性を取払ってこそ、美があるんですね」


「そうだ。これはゼロに戻すということでもあるんだ。現実社会でも同じだよ。今までのことをすべて引きずっていたら、ゼロにはたどり着けない。一切を忘れてゼロに戻せば新たな発見があるはずなんだ。しかし人は大抵、ゼロにはできないようだね。そのせいで悩みをつくっているようなもんだ」


・・・わたしはこの時点でブログをゼロに戻してよかったと思ったのでした。



会話をしていて印象的だったのは、芸術家は宇宙にある美を

「発見」して「表現」するのだという点です。



誰かが言った「天才とは宇宙にある何かを発見した者のことを言うのである」と同じだ! と気づいたのでした。


それにしても芸術家と話すことは大変有意義で楽しいです。


彼と話していると必ず「宇宙」という言葉が出てくるところがワクワクするんです。芸術家となら宇宙人の話も、ムー大陸の話も「普通」にできてしまうところが非日常的でエキサイティングなんですよね~。



ちなみにわが町は芸術家が多いのです。

過去にも陶芸家(故人)の方と懇意にさせていただきました。

音楽家も多いです。作家の方もいらっしゃいますし、

書道家の大家もいらっしゃいます。

ちなみに、うちの隣家には別の画家の先生が住んでおられます。



日常での有意義な出来事は、今後も綴ってまいります。