古代中国の賢者、老子を
あなたはご存知だろうか。
もしも老子をご存知であるならば、
彼が語る冒頭の一章を
次のように訳したとしたら
耳を疑うことだろう。
・・・これは『タオ・コード』の冒頭部分です。
われわれの知っている老子はタオ(道)を説く思想家です。
われわれにとってタオ(道)とは宇宙そのものであり、名づけられない領域であり、わたしたちすべての存在がつながっている場所だと認識しています。
著者は20年前に、中国雲南省の奥深い森の中に存在する、
小さな村へと導かれ、そこに老子の子孫と出会ったのです。
老子の子孫が村の村長で、約2500年前に書かれた原本の『老子』を守り続けているのだというのです。
前置きはこの辺にしておいて、
著者のいうところの、「耳を疑う」訳を引用してみたい。
第一章
私は今から性の秘密について語ろう。
かといって、
あなた方がよく行なう、うつろいゆくセックスについて語りたいわけではない。
究極の性とは、この宇宙を生み出した、名前すらない本質だ。
あなた方の知るセックスは、その本質の擬似的表れにすぎない。
だから、情欲的次元を超えて、性なるものの本質を観るんだ。
あなた方が知る粗野な性の悦びを超えた、
はるかなる至福世界がその奥にはあるのだよ。
あなた方はその一時のセックスにさえ不思議なほどの魅力を感じるというのに、そこに秘められた、その何倍もの深遠世界に、どうして気づこうとしないのか。
それこそが究極の性、
すなわち、
森羅万象を抜き超えた至福の領域なのだ。
どうですか?
わたしたちの知る、「道と名づけられるものは、本当の道ではないんだ」という冒頭と全然違っていることに気づかれるでしょう。
もともと「道」と表現されていること自体が、われわれにとってはなんとなくしか理解できなかったのですが、ここでは世間でおおっぴらに表現されることをタブーとされている「セックス」だというのです。
著者の引用を続けます。
老子書の前書きとして語られたこの一章が、
世界的に知られている訳とはまったく異なることに驚かれるかもしれない。
しかし、これは誤りではない。
老子書は、世によく知られる詩文の裏に、
秘教的教えが二重写しで記述されている暗号の書であり、
その秘教は、2500年もの間、人々の目から封印されてきた。
いまや西洋社会でももっともよく知られた東洋の賢者である老子であるが、人々は表層の意味のみでTaoを理解してきたにすぎないのである。
私は、この老子が語る性とは何かを、
中国の奥地で教えられ、実体験した経験を持つ者である。
性とは、人間の幸不幸を決定的に決めてしまう力を握っているものであることを現代人は知らない。
そのTaoの真実を、
老子書の解読と私の体験の告白によって、明らかにしてゆくことにしよう。
この著者が招かれた村は、中国政府の介入されない、秘境の地。
この村には、学校も、警察も、病院もお店もない。
政治も病気も経済もない。
テレビも電話もパソコンもない。
第一、貨幣がない。
しかし人々はまったくの自然と調和しており、
皆若々しく、美しい顔立ちをしている。
衣服は彼ら自身で仕立てた手作りの織物や葉っぱ。
家は彼らの手で作られた、自然素材の小さな家。
畑を耕し、自給自足の生活をしている。
魚は、神聖な生き物なので、特別な時にしかいただかない。
それも、お祈りをしてから魚を捕る。
われわれとはまったく違った世界に彼らは住んでいる。
ただ、われわれが驚くのは性器信仰が当たり前にあるということ。
玄関や家の中心に、男子や女子の性器像がかかげられている。
彼らは玄関をくぐるたびに、性器像にお祈りをする。
彼らにとって、性器は神聖なる宇宙であり、自分自身であり、自然そのもの。
だから裸を見ていやらしいとか恥ずかしいという概念がまったくない。
彼らはすべての存在に感謝し、喜びを表現する。
花ひとつ美しいと思える自分が美しいと感じ、そんな自分と花そのものに感謝する。
彼らの文化にスポーツはない。
共存、共栄、協力が彼らにとって当たり前のことであり、
競争、勝ち負け、争いといった概念がない。
そもそも彼らには怒り、嫉妬、虚栄心というものがなく、
恥や罪の意識もない。
彼らは人間の根源が性エネルギーであることを熟知している。
だから性交渉さえも、儀式的でヨギのようだ。
それは荘厳であり、われわれの知る機械的な動きはまったくない。
そんなことだから、こどもは親の性交渉を汚いことだとはまったく思わない。
子どもが生まれても、親は子どもを所有するという概念がない。
村全体で育てるのがここでは当たり前なのだ。
だから育児ノイローゼも虐待もない。
村は毎日お祭りがある。
それも民族的な儀式としての祭りで、なおかつ皆が喜びに満ち溢れている。
彼らはすべてが神であることを知り、
すべてに畏敬の念を抱き、喜びと共に生きている・・・・。
こんな村が存在していたこと自体に、わたしは驚きと喜びを感じました。
老子の書にある、そのままの理想郷がこの地球上にあったのですから!!
村長(老子の子孫)は言います。
「子どもを学校に行かせて、長時間椅子に座らせるなんてことは人間を狂わせようとすることだ。子どもは躍動感に満ち溢れているのが当たり前なのだ」と。
考えてみれば、小中高校から大学、しかも空き時間は受験勉強に費やした果ての社会人になってもず~っと、長時間座りっぱなしの現代人は、性エネルギーそのものを鬱滞させているわけなんですね。
あらゆる欲求不満の根本が垣間見えたような気がしました。
人間の根源が性エネルギーであるということは、
われわれのような文明社会に生きるわれわれも知っています。
そのエネルギーの運用の仕方がわからないから
欲求不満になり、あらゆる犯罪が起こるのです。
そもそも、宗教が性をタブーとしたのが人類の悲劇のはじまりでした。
いにしえの信仰は、性器信仰だったのです。
それは日本においても同様でした。
それが明治維新によって、野蛮だという理由で葬られてしまったのです。
人間の善性を余すことなく発揮したのが、老子の村なのだとしたら、息苦しい世の中に生きているわれわれ現代人は、泥の中から這い出してハスの花を咲かせようとする過酷なチャレンジャーなのだろうと思います。
泥の中で窒息してしまわないようにと、懸命にあがいているのがわれわれ文明社会に生きる人間の姿であり、神性を見出す喜びは、もともと知っている人たちよりも大きいかもしれません。
老子は性エネルギーについてをそのままに書いたなら、きっと焚書扱いされただろうことを知っていたのでしょう。
だから暗号として「道」と表現したのでしょう。
それはそれでひとつの思想を2500年間も人々に伝えたという功績を残したわけです。
老子を知らなくとも、ぜひ一度は老子の真の暗号を読み解き、触れてみてほしいと切に願います。
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