自分のことを受け入れてあげるにはどうすればいいのだろうか。


自分のことを頭で理解しないまま十数年生きてきたが、このまま生きるのはなんとなく嫌だと感じた。



今私は大学受験という大きな壁に直面している。

受かるか否かで頭を悩ませたいところだが、私は直感的に大学に行くか否かで悩んでいる。こんなことで悩んでいる場合ではないのはもちろん私が一番理解している。焦りも感じている。しかし考えれば考えるほど自分が何をしたいのかが分からなくなってきた。


大学に行くか否かのみならず、私は身近なことからどうでもいいことまで自分の脳の議題に挙げて会議を繰り広げる。考えるだけ無駄だという自分と、考えることが好きでやっているだけだから放っておけという自分もいる。


今までは考えること、思考を巡らすことは邪魔な行為であり悪だと捉え、やめさせようとしていた。しかしここ最近考えに変化が現れてきた。自分は考えたいから考えているのだからやめさせることはできないと。


それはとても単純なことなのだろう。ただ自分にとってみれば自分を見失っていたからこそ直面していた壁であり、自分のことを主観的に見つめられたから自分の思う解を導き出せたのだと思う。


小さい頃から、何事も客観視することが大事であり、それが正解だと思っていた。実際相手の言動の意味などを考えることができたり、今の自分は正解なのかを考えることができるようになった。


しかしそれと同時に主観性を失った。それに気づいたのは最近のこと。気づきに遅れた理由は感受性の豊かさにあると思う。感受性が豊かなことにより様々なものを感じ取ることはできる。ただどれが自分の意見なのかが分からず、他者他物と自分の境界線というものが薄れてしまった。


それにより私は自分を見失った気がした。他者のことは理解できたつもりでいても、自分のことが分からなかったら何もできないと思い始めた。また自分のことが分からないと、受け入れて愛することもできないとも思った。


生きてく上で大切なものは人によってもちろん異なる。私は自己愛がなくては楽しく生きられない人間だと思っている。今までは自分の外見や小さな行動などを細かく褒めてあげて生きてきた。ただ自分の内面は分からないことがあまりにも多すぎる。


受け入れるには知ることから、と簡単だが無意識のうちではなかなか行動に移しにくいところに重きを置いてこれから生きようと思う。


ただ考えたことを頭に入れたままでも今までとあまり変化がないかと思い、ブログというものにまとめてみる。文章は書くのが苦手だが、これで慣れることができれば一石二鳥だ。初めての試みだが少しわくわくしている。


ブログがある生活は自分にどんな影響を与えてくれるのか、楽しみだ。