BUSHIDOのブログ 「Let it be」 -64ページ目
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世界が泣いた日

皆さんは覚えていますか。


「音速の貴公子」と呼ばれたF1の英雄を。


この呼び名を付けたのは、名実況で有名な古館伊知郎さん。


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僕はこの人の名前を聞くだけで、今も目頭が熱くなります・・・・






アイルトン・セナ・ダ・シルバ。



マールボロカラーのマクラーレンにイエローのヘルメット。


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ナイジェル・マンセルVS アイルトン・セナ

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白馬に乗った王子様のように

数々の名勝負や神がかったその走りで

F1というスポーツの枠を超え

老若男女問わず愛されたその人は


全世界のファンが見守る中

34年という短すぎる生涯の幕を閉じました。


1994年5月1日。


サーキットに散った瞬間のその映像は、

今もレースファンの脳裏に焼きついて離れない衝撃的なものです。


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僕は一ヶ月ほど前

仕事帰りに

ブックオフという中古書籍を扱うお店に立ち寄りました。

英会話の本のコーナーを物色していたのですが

いいものが無く


ノンフィクション作家のコーナーへと移動すると


目を引くタイトルの本が。


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「複合事故 ~アイルトン・セナ・ダ・シルバはなぜ死んだか~」


著者はジャーナリストとしても有名な

フランコ・パナリッティーというイタリア人。


自称セナ・ティフォシの僕が手に取らずにはいられない物件でした。

ウラを見て見ると

初版が1995年3月と記されておりました。

それを見て当時の記録が忠実に綴られているような気がしました。


実を言うと

この本の存在は知っていたのですが

なぜか読むまでには至りませんでした。


新書が1800円に対し、950円のプライスが。

すでに他の本には目もくれずに購入しました。


読みました。

おかげで今まで知らなかった真実を知ることが出来ました。


僕のような下衆な人間がこの人の事を語るのはあまりに僭越ですが

今日はその真実と共に、僕が感じたありのままを綴ります。






おわかりのように

今から13年前のこの日 


14時17分


タンブレロコーナー出口のコンクリートウォールに深い傷跡を残し、

彼は帰らぬ人となりました。



エリオ・デ・アンジェリス以来の死亡事故。


「今のF1で人は死なない。」


誰が言い始めたわけでもなく人々の心に根付いたこの神話は


あのグランプリウィークによって脆くも崩れ去りました。


シムテック・フォードから初参戦したローランド・ラッツェンバーガー

当時現役最強のパイロットであったアイルトン・セナ。


2人が死亡するという過去に例がない

史上最悪のグランプリ。




そして13年前のこの日こそ

一つの時代が幕を閉じた瞬間でもありました。


フリープラクティスで

ジョーダンを駆るルーベンス・バリケッロの息を呑むクラッシュから始まり


様々な思いを胸に初めてのグランプリを果敢に攻めていた

ラッツェンバーガー


タンブレロを抜けた短いストレートで

時速300キロ近いスピードで、

無常にもフロントウィングを失いほぼそのままのスピードでコンクリートウォールへ。


そのクラッシュも壮絶なものでした・・・・・


ノーブレーキでそのまま激突したともとれる映像でした。


ですが僕は彼の名誉の為にも言っておかなければなりません。


ローランド・ラッツェンバーガー選手といえば

日本のF3000やトヨタのCカーでも活躍した名ドライバー。

一線級の腕前を買われてデビューしたのは言うまでもありません。


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時速300キロを超えるF1に発生する前後ダウンフォースは1.5トンにも及びます。

ダウンフォースによってグリップを得ていると言っても過言ではないF1にとって


フロントウィングを丸ごと失うということは、想像を絶する恐ろしさです。

まるでフロントタイアはハイドロプレーニングを起こしたように


ブレーキはおろかステアリングすら全く利かない状態に陥るのです・・・・・


そしてそれを嘲笑うかのように

リヤウィングの高いダウンフォースでグリップするリヤタイヤが

操舵の利かなくなったマシンを猛進させるのです。


こうなってしまったらもはやそれはF1ではなく殺人マシーン


きっと彼は迫り来るヴィルヌーヴコーナーの壁を見ながら必死でマシンをコントロールしていたはずです。



何もするヒマがなかったのではなく


「どうすることも出来なかった」のです・・・・・


その現場をコース真横で見ていたフランスの名F1パイロット

ジャン・アレジも震え上がるクラッシュ。



コクピットの中でうな垂れるラッツェンバーガー選手。



当時高校生の僕ですら

「え?・・・・これヤバイんじゃないの?」


数十トンもの衝撃にも耐えるカーボン複合モノコック

激しいクラッシュによって

飛び散った瞬間


人々の心に再び

「死のレースF1」の恐ろしさが甦ったのです・・・・・・


その現場にいち早く向かったのは他ならぬ

アイルトン・セナ。


グランプリ・ドクターとして有名なシド・ワトキンス博士と共に

その現場で当グランプリの危険性を話し合いました。


FIAおよびFOCAに

グラベルやタイヤバリアの無いコーナーの改善を再三求めてきたセナは

この悲劇を誰よりも重く受け止めていました。


普段以上に神経質になっていたセナは

前日の夜にも奇妙な行動が多々あったそうです。


恋人に電話をして「走りたくない」と訴えてみたり

ウィリアムズのピットに何度も同じ確認をしに行ったり・・・・

そうかと思えば突然ドライビングポジションの変更を求めたり・・・・

供給されたタイヤを全て新しいものに取り替えるよう求めたり・・・・


セナは自分に迫る死の危険を感じ取っていたのかも知れません。


そして

「複合事故」

を読んで初めて知った事実があります。


「サーキットに死神がいた」


世界でも有数の一大興行であるF1は

FIAによって出入りする人間を厳しくチェックされています。


パドックパス

チームパス

VIPパス・・・・・


それぞれの人間が入れる場所が決まっており

当然何のパスを持っていない人間は外に放り出されます。


そんな中でも特に厳しいエリアが

それぞれのチームに割り当てられたピット。


サンマリノグランプリの予選日である土曜日。


そんなピットをパスも持たずに

横切る黒い服を着た老婆がいたのです。

その老婆はシムテックのピット内で機材の上に座ってみたり


ウィリアムズのピットの前を何度も横切ったそうです。


その姿は

何人ものピットクルーや関係者が目撃しており

幻覚ではないことは明らかです。


この時すでに


セナの背後には死神がオノを振りかざして立っていたのです・・・・


この当時

アラン・プロストがサーキットを去ったF1で

頭角を現したドイツ人ドライバーがいました。


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ミハエル・シューマッハー。


シューマッハーは当時24歳の若者で

ベネトン・フォードB194を駆り

それまでのグランプリで好成績を収めており


94年のサンマリノグランプリでも

セナとシューマッハーの一騎打ちだと誰もが予想していました。

「アナザー・プラネット」


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これは別次元の速さを披露した2人を表現した言葉です。


91年・92年・93年と

圧倒的な速さでグランプリを席巻したウィリアムズ・ルノーに移籍したセナでしたが


94年から

速くなりすぎるF1に歯止めをかけるという名目で

それまでウィリアムズのアドバンテージであった

ハイテクデバイスを禁止する

レギュレーションが設けられました。


トラクション・コントロール禁止。

アクティヴ・サスペンション禁止。


マクラーレンにいたセナにとっては散々苦しめられたシステムですが

このアドバンテージを得るための移籍でもありました。


このレギュレーションのおかげで翼をもがれたウィリアムズは

もはやフォードエンジンを搭載するベネトンにも劣るマシンに成り下がったのです。


なんとか開幕戦に間に合わせたFW16は

その斬新なリヤサスペンションやエアロダイナミクスすらも未知数な

非常にナーバスなマシンだったそうです。


残されたアドバンテージは当時最強のパワーを誇った

ルノーRS6エンジン


ですがそんなナーバスなマシンでも

「マジック・セナ」

がドライブすることで、イモラを含めた3戦全てでポールポジションを獲得しました。


ウィリアムズFW16は

野暮なジャーナリストから見れば最速のマシン。


でもその未完成なマシンをポールポジションへ導いていたのは

他ならぬアイルトン・セナだったからです。


そして運命の5月1日。


観衆のほとんどはティフォッシと呼ばれる

熱狂的なフェラーリ・ファン。


世界的に見ても、このティフォッシは特に熱狂的で

ドライバーというよりもチームに対するファンが多いことで有名です。


でも

フェラーリ以外は全て敵視するティフォッシが

唯一例外として応援するドライバーがアイルトン・セナ。


これは後にも先にもアイルトンただ一人です。


スタート時刻が迫り


ポールポジションにカーナンバー2を付けたFW16を置くと

コクピットに収まったセナは

明らかにいつもと違う行動をとりました。


普段は、コクピットに収まるとヘルメットをかぶり

バイザーを開けてコンセントレーションを高めるのですが

その日のセナはヘルメットをつけず

まるで自分の運命を悟ったかのように

目を閉じて天を仰いでいました。

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スタート直後


後方グリッドで激しいクラッシュが発生。

スタート時にエンジンストールしたJJレートのマシンに

後方からフル加速状態のペドロ・ラミーが激突。


そのクラッシュによって部品が散乱し

さらにもぎ取れたサスペンションアームとタイヤがあろうことか

グランドスタンドの観客席に飛び込み、

アームが観客の顔面を直撃するという最悪の事態に。

計4名が負傷。


ペースカーが入り

事態が収集すると


3位以下を引き離したウィリアムズのセナとベネトンのシューマッハーの一騎打ち

が展開するかに見えました。


ところが


6周目、グランドスタンド前を通過。

追従するかたちでシューマッハーが続きます。


2台が全開度99パーセント以上の超高速コーナー「タンブレロ」へ。


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シューマッハーのサイドポンツーンに取り付けられたカメラが

セナのマシンを捕らえていました。


出口が見えたその瞬間、セナのマシンがコースを横切り、

コンクリートウォールに吸い込まれるようにコースアウト。

それは誰もが信じ難い光景。


事故のあと

様々な憶測が飛び交いました。


ステアリング・シャフト切断・・・・


リヤサスペンションの破壊・・・・


スタート直後のクラッシュによる破片を踏んだことによるパンク・・・・


ドライビング・ミス・・・・・


そして、自殺説・・・・



ですが人々は

ウィリアムズFW16に取り付けられていた各部センサーから記録された

テレメトリーデータを見て驚愕の真実を知ることとなります。


時速310キロでなんらかのトラブルでコントロールを失ったマシン。

ステアリングシャフトに掛かっていた油圧がゼロになった瞬間から


コンクリートウォールに激突するまでの時間、わずか1.8秒。


その1.8秒の間


コクピットの中でセナは


2速のシフトダウンとブレーキコントロールにより

時速210キロまで減速していたのです。


マシンとドライバーに掛かる減速G5Gにも及びます。


普通の人間なら気絶するほどのチカラが掛かりながら

超人的なマシンコントロールを行っていたのです・・・・



衝突時の減速Gは50~70G。

それと

ウォールに対する進入角度の悪さや

試験的に導入した

BELLのスペシャルヘルメットの衝撃耐久性の低さなど


後から考えれば

生存する可能性は限りなくゼロでした。


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サーキットにいた全ての人々が言葉を失いました。


クラッシュしたマシンの残骸の中で

首をぐったりとうなだれて

ピクっと首が動きましたが

一向にマシンから降りる様子のないセナ。


全ての人々の頭に最悪の事態がよぎりました。


コースオフィシャルと共に現場に駆けつけたシド・ワトキンス・グランプリドクター。

心停止したセナをコース上に寝かせ


その場で緊急手術を行います。


首から胸部にかけて切開し

おびただしい量の血がセナのまわりに広がりました。


その様子が中継していたヘリからの映像で確認することが出来ましたが

白と青が鮮やかなロスマンズカラーのレーシングスーツが真っ赤な血で染まっていました。


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ボローニャマジョーレ病院にヘリで搬送されたセナは

3時間以上にも及ぶ蘇生処置が施されましたが

その甲斐むなしく


午後6時過ぎ


マリア・テレサ・フィランドリ女医セナの脳死を確認



アイルトン・セナ・ダ・シルバ 永眠。


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ほぼ即死でした・・・・






●セナの事をを今までいろんな人と話しましたが


あの当時

F1に酔狂した人たちにとって

この悲劇は心にぽっかりと穴を開けてしまったようです。


「あれ以降F1を見なくなってしまった。」


そう言う方も少なくありません。


僕もその一人です。

たまに観たりはしていましたが

恐らくミハエル・シューマッハーを見たいがために観ていたのかもしれません。


そしてそのシューマッハーに関して


僕はずっと理解できないことがありました。



そもそも

僕のような下衆な凡人が、天性の才能を持つシューマッハを理解出来るわけがないのですが


彼の一体何が理解出来なかったかと言えば


それは彼の驚異的なモティベーション。

1994年に自身初となるタイトルを獲得して2006年に引退するまでの間

実に7度のワールドチャンピオンに輝いたのは周知のとおりですが


F1に限らず

プロアスリートと呼ばれる人たちはそのスポーツを職業にして生活しているわけです。

そして続けていけばその先に待っているのは引退。


でも、肉体的な問題が無くとも

引退する方もいらっしゃいます。


数ある引退会見の中で特に僕の印象に残っているのが


昭和の名横綱であった千代の富士

ヤクルトの投手であった荒木大輔


引退の理由を質問された横綱は  「体力の限界!気力もなくなり・・・・・」


この言葉を発していた時の苦悶の表情。

あの強いウルフが、泣きながら、搾り出すように語った言葉。

今も込み上げてくるものがあります。


体力の限界は感じていたにせよ、

でも僕はきっとその後に発した言葉こそが真意だったのではないかと思います。


気力。モティベーション。


一方

元ヤクルトの荒木投手。


「野球を辞めてみて初めて、自分が野球を好きなことに気づいた。」


きっとこの両人が発した言葉は共に正直な気持ちであり


職業にすることの大変さ、

そして好きな気持ちを持続することが如何に大切なのかがひしひしと伝わってきました。


見ている者にとっては心臓を締め付けられるほど感動的な幕引きでした。


ですがミハエル・シューマッハーの打ち立てた記録を思い出してみてください。


7度のワールドチャンピオン。通算91勝。

その他にも多くの記録を打ち立てたのは記憶に新しいところです。


僕のような凡人だからそう思うのかもしれませんが


17年間で7度のワールドタイトルを手にして

さらにまだモチベーションを持続できるということが全く理解できませんでした。


別に回数の問題ではなく

最強のチームでほとんどの記録を塗り替えて

あと一体何を手にしたかったのだろう?と。


これを読んでくださっている方の中には

きっと僕と同じ気持ちになった方がいらっしゃると思いますが



僕が辿り着いたひとつの答えが



、「F エフ」という六田登さんのマンガ

に登場する主人公 赤木軍馬。


「なんぴとたりとも、オラの前は走らせねえ~!」


の名セリフで有名ですが


彼が走り続けた理由であり

彼がずっと追い求めていた「黒い影」

こそ


ミハエル・シューマッハーが追い続けた


「アイルトン・セナ」だったのではないか。


セナに憧れ、追いつきたいという一心で辿り着いた場所、F1。


そこで追いつける一歩手前というところで


皮肉にも自分の目の前で


その憧れのヒーローが逝ってしまったのです・・・・



この悲劇から6年後に迎えた


2000年イタリアグランプリ決勝。

通算41勝目を記録したミハエル・シューマッハー。


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レース後の会見でインタビュアーに


「気づいているかと思いますが、セナと並ぶ通算41勝目となりました。

 これはあなたにとってどんな意味を持ちますか?


と質問され、それまで自身を気丈に保っていたミハエルは

笑顔で会見していたその表情が一変し

視線を落とし、少しの沈黙の後

一気に込み上げた気持ちを抑えることが出来なくなり


ガクッと首を垂れて、声を震わせながら


「とても大きな意味を持つよ・・・・・」


と言うと、堪えきれず号泣してしまったのです。


ターミネーターと呼ばれるほど、感情を表に出さないミハエルが

泣く姿にビックリした方も多かったのではないでしょうか。


彼にのしかかっていた肩の荷が

フッと降りた瞬間でした。




彼は引退する2006年シーズンが始まる時点で、

すでにセナの残した記録のほとんどを塗り替えていました。



たった一つだけ破れなかった記録だけを残して・・・・






そしてついに

4月のグランプリでその記録を超える時が来ました。

その記録とは、

まさにアイルトン・セナを象徴するかのような記録。



通算ポールポジション65回。


コース上オールクリア。

たった1周しか与えられないアタックラップにすべてを出し切る。


わずかなミスすら許されない、1000分の1秒を削る闘い。


そんな自己の精神力と集中力が試される、本来ドライバーが持つ速さの証

それがポール・ポジションという栄誉。


あのミハエル・シューマッハをもってしても

17年目にしてやっと辿り着いた、奇跡の記録。


そして奇しくも

セナが遥か遠くへ旅立ってしまった

あのイモラ・サーキットで通算66回目を記録したのです。


その年の最終戦。

彼のラストレースとなった06年ブラジルグランプリ。


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最後までタイトル奪取を諦めなかったミハエルは

トラブルで最後尾まで後退するも

往年のセナのような鬼神の追い上げを見せ、4位フィニッシュ。


「フェラーリは夢だよ」


セナが生前語っていたように、最後を迎えたミハエルに

セナが乗り移ったのかもしれません。


ミハエルがあの日最速であったことは言うまでもありません。


このパフォーマンスにはブラジルのF1ファンも大いに沸きました。


僕はこのレースを見て鳥肌が立つほど感動し、

まだまだ現役で活躍出来るレベルであることを最後の最後で見せつけてくれました。



そして結果的に

セナの記録を全て超えることの出来たミハエル・シューマッハーは

その年を最後にサーキットを去りました。



現在は


ルノーで2度のチャンピオンを獲得した

フェルナンド・アロンソが次代を担うドライバーとして注目されていますが


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僕の中で

フォーミュラ1といえば

80年代中盤から94年までのシーンが全てであり

実際にF1が世界を魅了した時期でもあります。


セナが94年シーズンを迎える前に語っていた言葉が印象的でした。

「ピケ、マンセル、プロスト・・・これまでのF1にはスターが多数いた。今はスターと呼べるドライバーが

いなくなってしまった。これは深刻なことだ。」


今もたまにF1を見たりしますが

80年代のF1ほど興奮するものはありません。


ニキ・ラウダ、ケケ・ロズベルグ、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アラン・プロスト、

そしてアイルトン・セナ・・・・・


闘志むき出しのバトルを見せてくれた偉大なドライバーたち。

その中でも一際輝いていた稀代の天才アイルトン・セナ。

いつもヘルメットのバイザー越しに

遠くを見るような寂しげな目をしていたのが印象的でした。




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セナの伝説的なレースといえば


91年のブラジルグランプリ決勝。

それまで何度も勝てるチャンスがあったのにも関わらず

あと一歩のところで勝てなかった母国グランプリ。


ポールポジションから飛び出したセナは

序盤を快調に飛ばし

2位以下を大きく引き離しました。


ところが中盤にさしかかるところで

6速シーケンシャルギヤボックスにトラブルが発生。


神はまたしても彼に非情な試練を与えたのです。


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91' マクラーレン・ホンダMP4/6




次々にギヤが入らなくなってしまい

1速から5速までのギヤを失ったマクラーレン・ホンダMP4/6は


全てのコーナーを6速ギヤのみで走行することをセナに要求します。

この時点で普通のドライバーなら

諦めてピットに戻るところです。


ですが


セナは諦めませんでした。


必死でマシンを前へ前へと操る姿は、痛々しくもありました。

そしてセミATが故障して離脱したマンセルや突然降り出した雨。

そこにある全ての出来事を味方につけ

6速のみで残りの周回を走るという神業をやってのけ


一度もトップの座を明け渡すことなくゴールしました。



全身全霊をかけて掴み取った勝利。


ゴール後にスローダウンしてピットへ向かうMP4/6の中から

セナの泣き叫ぶ声がインカムから聞こえてきます。


言葉にならない絶叫。


グランドスタンドで自国の英雄を待つ観衆は

歓喜とも狂喜ともとれるほどの熱狂状態。


最終コーナー出口付近で力尽きたマシン。

全ての力を出し尽くしたセナは

自力でコクピットから出られないほどの疲労困憊。


コースオフィシャルに引きずり出され


しばしの休憩の後

観衆が待つポディウムへ。


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大きなブラジル国旗を弱々しく頭上へ上げ

最後の力を振り絞って持ち上げたモエ・ド・シャンドンを逆さに向け


自らシャンパンを頭の上から流しました。


汗と涙とシャンパンで

母国初優勝を味わったのです。





目標さえ持てば

あんなにもひたむきに

あんなにも寡黙に

人間という生き物は努力できるものだということを知った瞬間でした。


彼は世界のヒーローでした。

いや、もしかしたら

皆がヒーローだと信じたかったのかも知れません。


気性の激しい性格で、勝つ為には犠牲もいとわない。

そして期待以上のミラクルを起こす男。

ですがヒーローだったからこそ

時に彼の自分勝手な行動や言動は

他のドライバー以上に厳しく糾弾されました。


政治的な振る舞いが求められたF1の中でセナは

純粋であるがゆえに不器用で、人を怒らせることもありました。


その度にファンは

「セナがそんなことをするわけがない。」

「何かの間違いだ。」

そう思ったに違いません。


でも僕はそんな彼の一面も


ありのままの

「人間アイルトン・セナ」


ではないかと思います。


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短い人生でしたが

その生き様は

今もモータースポーツを愛する人

いや

セナを愛した全ての人たちの中で生きています。


ブラジルという貧しい国を照らした一筋の光。


5月2日。

軍用機によって無言の帰国をした彼の亡骸は

100万を超える民衆が沿道で見守る中、安置する議会所へ運ばれました。


泣き崩れる者

倒れこむ者

叫ぶ者・・・・・


富める者も貧しい者も最後のお別れ。


その様子が全世界に中継されましたが

その光景はまさに国葬。


多くのドライバーや関係者が参列し

中にはセナにとって最大のライバルだったアラン・プロスト

ゲルハルト・ベルガー、ティエリー・ブートセン、エマーソン・フィッティパルディ・・・・


ホンダに黄金期をもたらしたマクラーレンのロン・デニス・・・・・

そしてフランク・ウィリアムズ。


セナを初めてF1に乗せたフランク・ウィリアムズ。

それから10年間セナの走りに魅せられ恋焦がれ、

やっとの思いで招き入れた最愛のドライバーが

自分のF1マシンで逝ってしまった悲しみは計り知れません。



棺を持つブラジル軍兵士ですら泣いていました。



セナはブラジル国民に勇気を与え、希望の星となりました。

ですが彼は走ることで感動を与えただけではありません。


●セナはレースでイタリアを訪れる際

必ず立ち寄る場所がありました。

それはイタリアの郊外にある、とある病院。


その病院には、バイクの事故により意識不明の重体へ陥り

植物状態となってしまった青年が入院していました。


青年は医師や家族が何をしても反応を示さなかったのですが


ある日、その青年の母親が彼に見せた一枚の写真に反応を示したのです。


その写真に写っていた人物こそ

誰あろう アイルトン・セナ。


この話を知り合いから聞いたセナは、すぐに病院へと向かい

青年がいる病室へ。


世界一のアスリートが自分の息子のために

ブラジルから遥々やって来たのでした。


青年の母親は、信じられない光景とその厚意に感動し、泣き崩れたそうです。


それからというもの、イタリアに訪れるたびにお見舞いに行っていたのです。



●さらに彼の死後、もうひとつの真実が明らかになりました。

ある人物が、生前彼の行っていた行為についてマスコミに発表したのです。


彼の死後に発表されたのは、セナ自身から公にすることを固く禁じられていたからでした。


その行為とは

ブラジルにある孤児院

毎年多額の寄付していたという事実でした。

その孤児院はセナの寄付金によって成り立っていたのです・・・・



アイルトン・セナは、ドライバーとしてだけでなく

素晴らしい人間性をも兼ね備えていたということです。



ですがこういった事実もすべて


彼が偉大なドライバーだったからこそ

その素晴らしい人間性を知ることが出来たのです。




セナ自身も第二の故郷と呼んだ

僕ら日本人にも


この人に感動をもらった方もたくさんいらっしゃると思います。

だから今日は

この人のことを思い返してみてください。


きっともう2度と、この人を超えるドライバーは現れないでしょう。


多くの人がそう願ったように


セナがフェラーリをドライヴして勝利する姿を見たかった・・・・・・


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純粋にモータースポーツを愛し


34年の時をモータースポーツに懸けた男は

今もサンパウロにあるモルンビという丘に、静かに眠っています。


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現在14時17分

言葉に出来ないほど多くの感動をくれた一人のブラジル人に

黙祷を捧げたいと思います。


合掌

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