「囂乃ち援をして書を雒陽に奉ぜしむ。初め到るや、良久しうして即ち引き入れる。上、殿廡の下自り、岸幘して迎え笑って曰く、卿二帝の閒に邀遊す。今卿を見るに、人おして大いに慚じしむ。

 援、頓首して曰く、当今は但だ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ。」

 右文の出典は『「十八史略」東漢 光武帝』の一節であるが、同様の記述が私は未見だが『後漢書・馬援伝』にもあるそうであり、『十八史略』のこの記述は『後漢書』を踏襲したものかもしれない。いずれにせよ、本文は簡にして要を得、歴史叙述のお手本といってもいい。

 援というのは、いうまでもなく「馬援伝」の馬援、字は文淵。文淵というのは、現にこの世を馬並に駆け回っている自分の姿に少々愛想をつかしたうえの、意味深淵なる命名だったかも知れない。が誰も文淵などとは呼ばず、歴史上馬援で通っている。一方囂は、王莽の簒奪国家「新」崩壊後、中国各地で名乗りをあげた数ある皇帝候補の一人隗囂であり、上とは劉秀のちの後漢初代光武帝のことである。そして上記の文は馬援が隗囂の特使として彼の書簡を劉秀の許へ届けたさいの秀と援二人の問答である。

 東奔西走、二人の皇帝候補のあいだを泳ぎまわっている馬援を劉秀がからかい、それにたいして援が「当今は君主が臣下を選ぶのではなく、臣下が選ぶ時代ですよ」とたしなめたといったところである。

 ここで二帝というのは、一人はいうまでもなく、今援の眼前にいる劉秀であり、もう一人は成都で国名を成と改め帝を称している公孫述である。劉秀には、二帝のあいだを邀游す、などとからかわれたが、馬援が公孫述のもとへ出向いたのは、援みずからの意思によるものではなかった。

 光武帝以前に、劉秀の族兄劉玄なる男が更帝を名乗って挙兵、王莽の首を取って洛陽、長安へ遷都したが、赤眉軍が迫って劉玄は長安を逃げだした。その時隗囂は劉玄の帷幕にあって申屠建ら五人の重臣と謀って劉玄を南陽へ遷そうとしたが、発覚して申屠建は斬られ、隗囂は天水へ逃亡、劉玄は敗北して赤眉に降伏、敵方にあった畏威候、長沙王などに封じられたが、後難をおそれる赤眉軍の武将謝禄たちによってあっさり殺害されてしまった。

 劉玄を見捨てた隗囂は、建武初年にいたるまで西州の上将軍を称して逃亡先天水の各地に割拠していたが、劉玄を持ち上げた時のように誰かと連衡しないかぎり、天水の田舎から撃って出ることは難しい。そこで隗囂が考えたことは後世『三国志』時代の先蹤ともなるべき連衡で、成帝を称する公孫述とのそれである。隗囂が使者にたてたのが馬援で、援は公孫述との連衡の可能性を探るべき囂に依頼されたのである。

 援は述とは同郷で旧識があった。青年客気のころは、時務を談じて斗酒をも辞せず、度々逢って飲み明かしたほどの間柄であった。

 当時援は、官途にもつかず田舎で先祖の墓守などしながら黙々と暮らしていた。あるとき、ようやく郡長に登用されたが、囚人を裁判所へ護送中、貧しさのあまり罪を犯してしまったある男の身の上にすっかり同情し、縄を解いて逃がしてしまった。そしてすぐさま、自分も罪に問われることに気がつき、さっさと北方匈奴の方へ亡命してしまった。

 

 その地で農場を拓き、牧畜に従事、たまたま巨万の富を手にしたが、「私が金を蓄積られたのは、働くものがいたからだ。それなのに働くものために金を役立てないなんてのは、業突張りの守銭奴だ」といって、もうかった金はことごとく、そこで生活を立てている家族数百軒に分配、奴隷の身分から解き放ち、すべての仕事を彼等の共同事業にゆだね、自分は裸一貫、また別の所で事業を起こし、おなじような解放区を次々に創りあげていったという。今の中国のどこにそんな解放区が見られるかと問われるかもしれないが、その辺のところは遙か昔にあったユートピアとして楽しんでいただきたい

 さて、そんな馬援が公孫述と知己になったのもそんなころのことである。互いに野心満々であった。せっかく手にした巨万の富を惜しげもなく手放すことができたのも、天下の風雲に向って立つ付き合いがあってこそのこと、今訪ねていったら、きっと昔を想い出して飛んで来、相擁し手を取り合いかつての付き合いさながら、オレ、キサマで談論風発できるものと固く信じていたが、隗囂のメッセージを携え再見してみると期待はあっけなく裏切られた。

 皇帝に即位して四年目を迎えた述は、すっかり皇帝気取りで、人が変ってしまっていたのである。

 私的訪問という触れ込みだったにもかかわらず、儀仗兵を物々しく整列させて出迎えたのであった。歓迎の意を表すというよりも、皇帝としてのおのれの権勢をみせびらかすための閲兵であることは一目瞭然で、もちろん援の来遊の目的など、とっくに見抜いた上でのデモンストレーションであった。それにしても、あまりの得意満面ぶりには、援もいささか鼻白む思いなしにはいられなかった。

「天下雌雄未だ定まらず、公孫、哺を吐いて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること偶人の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らんや」

 そこまで難じてしまったということは、公孫にはよっぽど失望したということで、そうでなければ、述のもとにふみとどまり隗囂との連衡に最大の尽力を惜しまぬくらいの気持で訪れていたのである。

 事実述は、辞去する援に向って「朕のもとにこのままとどまってはどうか。昔のよしみで、将軍くらいには取り立てようぞ」と引きとめたくらいである。述当人はそれで援が飛びついてくるくらいの読みだったが、あまりにも尊大な述の申し出に、援はそれ以上口を利く気もなくなり、ついに天下に対する互いの志を披歴しあうこともなく訣別し、依頼人隗囂にはこう告げた。

「公孫述は井の中の蛙です。蜀の山奥で大海を知らず、しかも威を張るしか能のない小人です。組むべき相手ではありません。いま盟するなら劉秀にかぎります」

 それで援は囂の親書を携え劉秀のもとを訪れ、本篇冒頭の会話となったのである。

「上、殿廡の下自り、岸幘して迎え笑って曰く」とは、すなわち、秀が御殿の廊下から、冠もかぶらず姿を現しニコニコ笑って挨拶したことを意味する。

戟を連ねた近衛兵に援を迎えさせた公孫述とは大変な違いである。

 援はそんなざっくばらんな出迎えにたいして、

「陛下は私が刺客でないと見抜いて、格式ばらずお迎えくださいましたね、とても恐悦至極にぞんじます」とさっそく外交辞令を繰り出す。

 皇帝候補どもは互いに情報網をはりめぐらしあっていたわけで、援がここへ足を運んだ理由も万事承知の上での秀の揶揄であり、それにたいする援の辞令だったので、秀もさらに笑ってこう述べた。

「卿が刺客なんかであるはずがない。せいぜい説客といったところでしょう」

「今や天下大乱の時代で、われもわれもと皇帝を称し出しましたが、しかし皇帝の真贋などはすぐ見分けられるもので、陛下だけは断然人が違います。寛仁大度において、高祖と符を同じくいらっしゃいます」

と最後の外交辞令を述べて、隗囂のもとへ帰っていった。援が自分が感じた通りのことを口にすると、囂は、援が劉秀と劉邦を同等の存在とみたてたことにひっかったらしい。

「で、劉邦にくらべたらどうなんだ」

といらだたしげな声をあげた。

 援はすばやく思案をめぐらした。これは秀の方がすぐれている、などと言ったら大変なことになる。邦にはまったく関係のない長所、動くこと法度の如し、飲酒をこのまず、をあげてみたが、囂はますます気にいらない。

「それでは、邦よりも、わしよりも勝っていることになるではないか」

 そうはいっても、囂にとっては、邦と秀の比較なんてどうでもよかったのだ。劉邦、劉秀、公孫述、いずれにたいしても、隗囂みずからが決してひけをとらない存在であると、誰かさんに太鼓判を押して貰いたかっただけのことである。

またそれ相応の自負もあり、みずから次代皇帝を自任したりもしていたのであり、それだけに乱世の現状に対する認識は確かであった。囂は囂なりに日和をよんだすえの二帝のもとへの馬援の派遣であり、みずからの本格的な出番はいまだ視野のそとにあったというにすぎない。

馬援の見方を斟酌した結果、隗囂は当面劉秀との連衡を最優先し、ひとまず子の隗恂を光武帝秀のもとへ入朝させたものであった。

むろんこの判断は、囂ひとりの観察に基づくものではなかった。かつて公孫述との連衡の可能性については歴史家の班彪に質したことさえある。彪もまた述との連衡の非を戒めたものだが、そのときは彪の見方など歯牙にもかけなかった。それが援にまで手厳しく駄目押しされてしまうと、改めて考え直さないではいられなくなった。

皇帝候補は時とともに淘汰されていき、残されたのは劉秀、公孫述、隗囂だけになった。囂は息子恂を光武帝のもとに入朝させてみたものの、みずからは入朝せず、まだ日和見に精出しているのであった。

そして建武八年(三二)、光武帝の軍はついに去就さだかならぬ、隗囂軍討伐に向け重い腰をあげたが、潁川(河北省中部)で別の反旗が翻り、劉秀は隗囂征伐どころでなくなってしまった。

機をみるに敏なる馬援が、この機を逸するなと隗囂を説得し、囂は取り敢えず光武帝に入朝したが、秀の下に立つのがよほど癪だったらしい。ほど経ずして叛旗を翻してしまった。

 秀は書簡を書いて、懲りずに援を説得に赴かせたが、囂は従わなかったばかりか、あべこべに公孫述についてしまった。援のたしかな助言もあって、これは囂の判断ミスなんてことではない。ここまでくると、もはや秀には屈したくない意地だけである。しかし、後漢の全勢力が行動しだすと、馬援は糧秣の調達、敵状の分析、秀おして「虜はすべて我が掌中に入った」と感嘆せしめたほどの水も漏らさぬ作戦を献策し、敵はことごとく虜となって隗囂軍は消滅、そして三年後、建武十二年(三六)公孫述も滅んで、後漢の始まりの天下三分の計は帰趨を決してのである。

 天下が平定すると、劉秀はすっかり戦争嫌いになってしまった。もともと戦争が好きで帝に祭り上げられたわけではない。彼はやはり戦争で一旗あげようとしていた兄劉演に引っ張り込まれただけである。三度の飯を食うため、兄の食客になっただけで、ほかの食客たちも同様、戦争好きの兄に蹶起を促されるたび、「演の野心に巻き込まれたら、命などいくつあっても足りゃしない」とぶつくさ言い、その分、戦争嫌いで逃げ腰でばかりいる、温和な秀が慕われたわけである。

 しかし、ふだん一宿一飯の恩義にあずかっている以上、いざカマクラというさい、逃げてばかりではすまされない。ときに彼らが王尋、王邑にいたとき、王莽が百万の大軍を率い、虎、豹、犀、象などの猛獣をさきがけにして押し寄せ、反乱軍諸将がわれがちにと昆陽へと逃げこんでしまったときには、劉秀はよんどころなく、手兵わずか千余人をもって諸軍の残兵をかき集めて、暗夜ひそかに王邑、王尋の野営地を衝き、敵の本隊を潰走せしめたのである。

 後漢の諸将は仰天した。

「劉将軍は、平生どんな小敵にも臆病風を吹かすほどの人なのに、今未曾有の大敵を相手に、勇気百倍してしまわれた。なんという不思議な人だ」

 これを機に新軍は敗退をかさね、ついに総崩れとなり、新は滅亡した。

 それなのに、劉演、秀兄弟の声望が一挙に高まると、更始帝はかれらに嫉妬し、台頭をおそれて、兄劉演を暗殺してしまったのであるが、秀は更始帝の逆鱗をおそれ、兄の葬儀はおろか、服喪さえ遠慮してしまったほどである。これは結果として賢明な保身につながったようである。兄が殺されたのは、兄の満々たる野心であった。とはいえたった一人の兄の死はひらすら悲しかった。毎夜寝に就くや一人枕を濡らして涕泣したのである。秀のひたすら敬虔な態度が更始帝を恥いらせた。秀は演の大将軍を継がされ、大司馬蕭王にまで引きあげられ、よんどころなく兄の食客、そして兄に代わって自分が扶持すべき昨日までの義兄弟の頭目にされてしまったのである。

 劉秀は、部将たちが投降者に心を許さない場合でも、一人の殺害もみとめず降将たちに部下をそっくりそのまま、それぞれの陣営に連れ帰らせ、みずからは軽装のまま騎乗して投降隊を見舞ったので、投降者は一人残らず「蕭王は私たちの心をそっくり自分の心にされてしまった。この王のためなら、いつだって命など惜しくない」

などと言い合っていたそうである。

 赤眉の攻撃から長安を救い出したとき早くも、将軍連中は秀を皇帝に推戴しようと申し出たが、秀は固辞して受けなかった。

 赤眉というのも、漢室に血縁にあるもので名を劉盆子と呼んだ。十五歳のとき、赤眉軍中にあって羊飼をしていたところを見出されたと言う。ざんばら髪をして裸足、弊衣をまとい、日焼けして顔からたらたら汗をしたたらせていた。乞食より劣った身なりだったにもかかわらず、見出されたということは、よほど高貴な顔立ちをしていたにちがいない。その顔に向って諸将がいっせいに拝謁をはじめると、盆子はとつぜん恐怖にかられ泣き出してしまった。戦争が高貴の相を必要としたのだが、そのとき幼い盆子は、おのれの前途を予感してしまったのかもしれない。

 赤眉軍はついに長安に入った。宮廷や市街を焼き尽くし、そのとき更始帝は殺されたとも逃げ出したともいう。ISもそこのけの赤眉の所業とあっては一刻もはやく長安を解放しなければならない。それには盆子の高貴を圧倒する高貴の登場が急務とあって、秀はやむなく皇帝の印綬を帯びさせられてしまったのだ。

 そして赤眉が投降したときにも、一人も殺さなかったばかりか、投降者を生かすため、担がれた賊帝劉盆子にさえ所領をあたえたのである。

 戦争は、もうこれっきりやめたいと考えた。秀自身、負けた盆子同様、担がれた皇帝にほかならないことを自覚していたのである。

 隗囂、公孫述の没落まで、逃げることをゆるされなかった。馬援の和平工作に全幅の信頼を寄せたにもかかわらず、それが実らなかったばかりに、こころならずも高貴の首でありつづけるほかなかったのだ。しかし、隗囂、公孫述の没落を最後にもはや軍旅におもむくこともなくなった。

 臧宮と馬武が匈奴征伐を上奏したときには、秀ときたら、黄石公の『包桑記』の書「柔能く剛に勝ち、弱能く強に勝つ」を与えて戦争を回避させたしまった。

 西域の勢力争いに介入することを恐れて玉門関を固く閉じ、西域との交易すら断絶してしまった。かつて匈奴の地に何度も亡命し、その地に農場や牧場を拓き、働く人たちに土地財産を分配してしまった馬援の進言もあったであろう。匈奴の地は匈奴おして生かしめよ。先進国の手出しは無用と考えたのだ。

 

 功業の将を大切にし、二度の軍務にはつけなかった。官吏の仕事は、太尉、司徒、司空の職責とし、功臣は官職につけなかったので、晩節を汚すものもいなかった。功臣も次々に世を去り、そのつど秀は丁重に葬り追慕してやむことがなかった。

 ところが馬援がなくなったときだけはいささかおもむきが異なった。

 援はつねづね、自分の死にたいする信条を披歴し「大丈夫まさに馬革をもって屍をつつむべし。いずくんぞ能く児女の手に死なんや」などと述べていた。

 兵士は戦場で死を迎え、馬の革に包まれて葬られるのが本望、女子供の看病のもとで死ぬべきではない、という考えで、秀の信条とはほど遠かった。

 交趾が侵攻してきたときのこと、援はただちに反撃に出ることを進言したが、戦争に飽き飽きしてしまった秀は、腹のうちで、交趾ごときが攻めてきたところで、どれほどの土地が奪れるか、たとえ我が領土がせしめられたところが、彼等に統治ができるのか、お手並み拝見くらいの気持だったが、あえて口には出さず、援の老齢をいたわってこのたびはどうか出撃を断念するようにと言いふくめた。

 すると、そくざに援は甲冑を身にまとい騎馬にまたがり、ひと駆けして息もつがず、「この通りぴんぴんしておりますぞ」とみせつけた。秀は「矍鑠たるもんだな、この爺さまは」と笑って送り出してしまった。

 援の矍鑠がみせかけだけのもので、たいした戦争にはなるまいと見くびってしまい、援の征途が死に場所を求めての旅だとも察せず、レクリエーションにでも行かせるくらいの気持であった。

 それよりしばらく以前のこと、秀の娘婿の梁松が馬援を訪ねていた。松は援に向って当時の礼法に従い床に下座して拝礼したが、援は松の岳父としてあえて礼式を無視し、それで松は援に含むところとなった。

 それから間もなく交趾へ出撃した援は、自分が親代りをつとめる兄の子に自分がいなくなった後の彼の処世を案じ遺訓を書簡にしたためた。

「吾、汝が曹の人の過ちを聞くこと、父母の名を聞く如くせんことを欲す。耳に聞くべきも、口にはすべからず」

 これは一口に言えば、人の噂など聞いても口外するな、他人の長短、政治的言説などをかれこれ言うのはやめなさい。ということに尽きる。それもそれだけのことなら、なんの問題も起こらなかった。あるいはそれは、そんな教訓を口にしながら、実例に友人の名をあげ、みずからその教訓に背いて、みずからの身で教訓を実物教育してしまったというべきだったかもしれない。

「竜伯高は敦厚周慎、謙約節倹、わたしはこの人を愛し、重んずる。見習うなら、この人を見習いなさい。

 杜季良は豪快、義を好み、人の憂いを憂い、人の楽しみを楽しむ。かれの父母の葬儀には、数郡の人が悉く会葬したほどの人だ。わたしは、この人を愛し、重んずるが、この人を見習うことは願わない。

 伯高を習って成功しなくても、謹直な人にはなれる。いわゆる鵠を彫って出来損なっても鵞くらいにはみえるが、季良を習って失敗すれば、天下の軽薄子になる。いわゆる虎を描いて成らなければ、犬に見られるってわけだ」

 お得意の人間観察の披歴だったが、書簡が、人手も人手、季良の政敵の手に渡り、まわりまわって秀の目にふれ、季良は官職を免じられてしまった。秀の人事考課が厳正すぎたのであろうか。季良と仲が良かった梁松まで連座せられるところだった。さきの婿に対する欠礼といいこのたびの災厄といい、松は援をますます恨むところとなって岳父の失脚をはかるおりの交趾出撃であった。あるいは自分の書簡がもたらした事態にたいする援なりの引責、あるいはおのれの死期がわかっていたかもしれない。あっけなく軍中で病死してしまった。生き残った者はしてやられたようなもので、死者を鞭うつに別の手だてを講じるほかなかった。松は罪状をでっち上げた。マラリア予防薬として従軍兵士が持ち帰ったキニーネのことを、援が禁制薬を持ち込ませたと讒言したのだ。怒り心頭に発した秀は、援を墓を暴いて印綬を没収してしまった。かつて私が『小説 墓をあばく』(「象」4345)に書いた王莽をめぐる故事と全く異なるところがない。

 臣君をえらぶ、とは馬援自身の言だが、援もついに君をえらべなかったのだろう。それともそれが、彼が最後に望んだ自己破滅の実現だったであろうか。晩年に至り、ようやく援は悟ってのである。

どんな名君であろうと、しょせん皇帝は存在自体が専制である。帝制のもとにあっては、君が臣をえらぶことも、臣が君をえらぶことも不可能なり、と。

最後に『小説 墓をあばく』の結末をここに再掲しておく。

「建武元年(二五)夏、赤眉の賊樊崇の勢数十万が、劉盆子を皇帝にたて、武関を破って長安を攻撃、漢軍は降伏したが、賊軍どもはまたしても宮殿や市街を焼き、更始帝を殺害した。死者数十万。かくして長安はふたたび廃墟となった。またしても、廟、墓が発かれ、朕(王莽の一人称―作者)の敗北もあだではなかったと満足したが、光武帝(劉秀―作者)が即位するに及んで、旧体制のすべてが復活した。」(二〇〇三・三・十五)

 

 むかし、広東に胡穎という経略使がいた。経略使とは、唐宋代辺境に配置された軍司令官をいうのだが、そいつは場合によっては民事にも介入する。民衆は胡穎を胡先生とも胡大人とも胡氏とも呼ばなかった。蔭で胡打鬼などと呼んだのである。胡は姓だが、どうして下の名が打鬼になってしまったのか。俗信を認めずあやしげな淫祠などが出現すると、即座に打ち毀してしまうからである。

広州の片田舎にさる廟があった。おそろしく古ぼけた祠堂で手入れも行き届かず、とうとう仏像の胎内に大きな蛇が棲みついてしまった。蛇は真夜中に出てきては、昼間参詣人が供えた供物をすっかり平らげてしまった。噂が一円にひろまった。あのホトケは生きボトケだ。夜中のうちに供物をすっかり召し上がられる。きっとご利益があるに違いない、と。

蛇の仕業であるとは先刻承知の堂守が一儲けたくらみ、勧進を雇って広州一円に霊験を流布したところどっと参詣人が押し寄せ大盛況となった。

胡穎は部下の報告を聞くなり祠堂に乗り込んだ。埃まみれの須弥壇にははたして蛇がのたくった跡がある。ただちに仏像を叩き毀すと、経文の入った胎内から蛇が走り出、すかさず打ち殺すや、古寺の怪異はただちに止み、廟はもとの廃寺にもどった。

もう一篇取り上げてみよう。林則徐の説話である。林則徐といえば清朝末期の政治家で、道光帝に奏上して阿片禁止を断行、英国商人が持ち込んだ阿片を没収、焼却したため阿片戦争が勃発、官民の総力を結集して戦うも敗北を喫し、和平派の陰謀によって罷免されてしまったが、太平天国の乱で復職、乱平定に赴く途中病死してしまった。だが今ここで取りあげる林則徐はそれとは関係がない。

旱魃が発生、林則徐が朝廷の有志に飢民への救恤を訴えたところ、みな我が家の食糧事情を口実に誰ひとり応ずるものがいなかった。そこでさっそく林は雨乞いの祈祷を布告し、俗吏どもに参列を命じた。炎天下の祭祀とあって参列者は堪ったものでなかった。それに渇を癒すため振舞われたのは茶でなく、催吐湯だった。飲んだ途端みんなゲーゲー吐き出してしまった。みれば嘔吐物は、魚、肉、鶏、アヒル、卵などでずいぶん鱈腹食っている。馬脚を現してしまった俗吏どもは跪いて詫び、糧食はたちまち穀倉に満ち、なんとか飢饉は乗り切られたという話である。

そこで思い出されるのは、花田清輝の例の「前近代的なものを否定的媒介にして近代を超える」という花田テーゼである。上記二篇はいずれも中国の前近代の説話なのだが、これは花田が近代を超えるために否定的媒介とする前近代的なものに相当する「もの」なのかどうか。

胡穎は直接行動によって、林則徐は簡単な策略によって完膚なきまでに前近代の迷妄を打ち破ってしまっている。あらためて花田のいう前近代的な「もの」とは何なのか。否定的媒介とは何を意味するのか。花田は、前近代の世界を小説その他に書いている。いわく『小説平家』いわく『随筆三国志』!

なぜ『随筆平家』『小説三国志』としなかったのか。『小説平家』など雑誌掲載中ずいぶん多くの人が随筆だと思い込んで読んでいたものらしい。

 

さてここからが本題『落日譜』で、これまた中国前近代、時は南宋末期、いうまでもなく乱世の話である。

宝祐元年(一二五三)四川の制置使余玠が卒すると、その子余晦は四川の宣諭使に任じられた。制置使と宣諭使ではどちらが上かは知らないが宣諭使に任じられた余晦は当惑した。

行く行く自分が父の跡目制置使を継ぐものと信じて疑わなかった余晦だったからである。そんなおり、西路安撫使の王惟忠がとつぜん制置使に任じられるという一報が入って、余晦は驚いた。

 四川は北辺を元と接している。安撫使の任務は人民の安寧と通行の安全の確保である。安易な武力行使はゆるされない。のみならず往々にして元支配下の人民を手なずけなければならない場合すらあったのである。

 余晦は惟忠の追い落としをはかった。惟忠の巡撫行動に目をつけたのだ。それは父余玠在任のころから試みられた策で手の中も分かっていた。事はすべて当事者以外極秘とされ味方に対してすら知らされず、政府上層にすら知らされなかった。ひとつ間違えば通敵行為になりかねない謀略であった。

 余晦にすればそこがつけ目で、元に身をおいて南宋のため働いていた協力者と王惟忠の関係が誣告された。余晦は協力者を元の間諜であると言いたて彼の意をうけた陳大方が偽証をデッチあげた。

 陳がいた大理がフビライによって制圧された事実ですら、偽証をもっともらしく思わせるのに役立った。惟忠とて陳の偽証を告発するため協力者の存在を白日のもとにさらすわけには行かなかった。己の無実を証明するため協力者を死地に追いやるなんてことはしのびがたかったのだ。

 斬罪に処せられた惟忠は顔色一つ変えず、陳大方に向って「冥界へ行ったら、天に訴え、かならずお前を迎えにくる」と言い放って首を刎ねられた。首といっしょに血が奔騰し、天に向って噴きあがった。入朝した陳大方は首実検の白州を退出するときにわかに心気朦朧となり、首を抱えたままバッタリ倒れ絶命してしまった。

 惟忠の迎えであったが、しかし惟忠が、陳の誣告が余晦の意をうけての誣告であったことを見抜いていたかどうかはわからない。余晦への惟忠の迎えはなかったが、惟忠の死によって四川の統治を引き継いだ余晦はフビライとの戦を連戦連敗、要害をことごとく奪いとられて、ついに更迭されてしまった。

 

フビライが卾州を包囲したとき、全軍の指揮をとったのが賈似道という将軍で、これまた余晦におさおさひけをとらないよこしまな男であった。

ますます苛烈さをます元軍の攻撃のなか一万三千もの死傷者を出すにおよんで、賈はすっかり怖気づいてしまい、慌てて宋京なる者を使者にたて南宋が元に臣従し幣を貢ぐと申し出、和を請うた。しかしフビライは、せせら笑って歯牙にもかけなかった。

たまたま元帝ムンケ汗が卒し、合州守王堅から報せがあり、賈はそれを好機と捉え、ふたたびフビライのもとへ宋京を送った。

フビライの方でも問題が起きていた。ムンケの末弟アリブカが汗位を狙っていたのだ。そこで郝経なる者がフビライに申し出た。

「もしもアリブカが、ムンケ汗の遺詔を称して即位し、長江一円に大赦など行なわれますと、もはや主君の帰国はかないませぬ。そのためには一刻もはやく南宋と講和をむすび、とりあえず小部隊をもってカラコルムへ急行、玉璽を納め、フラグ、アリブカご兄弟に大行の霊舁を担がせ大葬を営なまれませ、それから使者を諸道に派遣して国の人心を安んじなさいませ。社稷は必ず安泰となりましょう。」

 フビライは郝経の言を容れ、ただちに南宋から元に差し出す歳幣の高を取り決め、賈似道と和を結んだ。現地の部隊はとりあえず、腹心の部下張傑、閻旺にゆだね、小部隊を率いて誰よりもはやくカラコルムへ急行、諸王諸大臣の礼をうけると、慣行通り三度辞退して汗位についた。

 張傑、閻旺らの留守隊が引き揚げを開始するや、賈似道は待ってました、とばかりに和議を破棄し追撃にうつった。賈は元を騙して和議を結び臣従の証としての歳幣を取り決めたことを内緒にして(南宋帝)にはかく報告した。

「郭州を敵の包囲から解放しました。これでやっと宋の社稷も安泰になりました」と

 理宋は賈の功績をみとめて手厚い加増を施し、元でははたしてアリブカが汗を称して反旗を翻したがすぐ討伐されてしまった。

 

フビライはラマの思馬に国師の称号を与え、彼がモンゴル文字を創案するとその功に対して帝師の称号を与え、各地に学校を創設させた。

 フビライは思馬の戒を受けると、側近の廉希憲にもすすめたが、希憲は「私はすでに孔子の戒を受けています」と言って断った。

「孔子の戒とは初耳だな」と呟くと、「孔子の教え」も戒の一つです」とすまして答えたがフビライはそれ以上とやかくは言わなかった。

 またある日、方士が宮廷にきて、錬丹の術をもって丹を創りますので資を給わりたいと申し出、フビライが望みをかなえようとすると、希憲がとめた。

「歴代君主が方士にたぶらかされて錬丹に大金を投じましたが、長寿を保てた君主は一人としていません。尭舜が長寿を保ったのは、錬丹などに頼らない、自己鍛錬のせいです」と述べ、錬丹は沙汰止みとなった。

 とはいえ元では、道教、儒教、仏教、西域渡来の景教、マニ教など、いかなる宗教に対しても寛大だった。これが中国で始めて元が異民族統治に成功した背景である。これこそ中国前近代におけるインターナショナリズムだったといってもいい。元は土着の権力にとってはたしかに侵略者だったが、国境を越えて往来する人民にとってはある時期たしかに解放者だったわけである。

 フビライは使者を南宋に送り、先に賈似道の要請により成立させた和議の実施を迫ったが、賈にとって和議は始めからペテンであり、本気で実行する積りなどない。しかるに南宋ではフビライは賈によって撃退されたと報告されていて、偽の戦功が朝廷の記録に書きとめられ、賈は右丞相にまで抜擢されている。

 戦をやめない南宋に対し和議を実行させるにはどうしたらいいか。廉希憲が奏上した。まずわが方から兵を撤収ししかる後、和議の実行を求めるべきですと、フビライは同意したが、誰を使者にするという段になって適任者がみつからない。先の和議はムンケの死という事態の中で郝経の案に飛びついたばかりに敵に足元をみられてしまった。再交渉ともなれば、よほどの人物が派遣されなければ任がはたされない。宋側が愚かだったら使者だって生きて帰されないかも知れない。

 そこで平素から郝経を邪魔にして追い落としをはかっていた王文統なるものが、再交渉の使者には郝経を任じたまえと奏上した。

 郝の親友が彼に言った。

「相手がよくない。そんな損な役目、病気だといってさっさと断ってしまいなさい。命あっての物種ですよ」と。

「両国の争いで、いちばん難儀をしているのは、長江、淮水流域の両国人民です。打ち続く兵乱がとほうもない災禍を彼らにもたらしています。汗には敵も味方もいません、一視同仁の人だから、両国の友好を誰よりも望んでおられる。わが身がどんな危難に遭おうとも、戦乱に終止符を打ち、幾百万の生命が救われるなら、私の命などとるに足りません。喜んでさしあげます。」

 郝経が和議に出向くと、王文統はひそかに李璮なる腹心に言いふくめて彼の配下の兵を南宋側に進寇させ、怒った宋軍の手で郝経を始末させようと謀ったのである。

郝経が淮水を渡った。和議の姦策の発覚を懼れた賈似道は、はたして李璮の侵攻を口実に郝経を抑留してしまった。今も昔も和平の実現が難しいのはひとえに和議を進める双方に――利害がらみもあって――和平を妨げるやからがのさばるせいである。

苛酷なあつかいのせいで随行者のなかには耐えきれず投降しようといい出す者まで現れた。そうした連中に郝経は言ったものである。

「我々は和議の成立のためにやってきた。我々を活かすも殺すも彼らの心次第、節を守るかいなかは我々の心次第だ。捕まったのは運が悪かったからだ。今更じたばたしても始まらない。死ぬときには死ぬしかない。おかしな振舞におよべば名を辱めるのが関の山。今は命あるかぎり、ただ待つしかない。私が天の時をみるに、南宋の最後はもうそれほど遠くであるまい。」

 人々は南宋の最後を予言されてなんとか愁眉を開いた。

 元の使者が抑留されたという情報は理宗のもとにももたらされた。賈似道はあくまで和議成立を阻むため古参の将軍たちへの会計監査を一段と強化した。戦争していくらあっても足りないものは戦費である。いくら帳尻を合わせても合わないのが戦費である。賈自身、合わない戦費でどれだけ私腹を肥やしたか知れない。

 これに着目し、作戦が一つ終了するたび将軍どもの戦費の監査を励行した。あわよくば将軍たちの汚職を立証しようとしたもので。向士璧、趙葵、史岩之、杜庶らがひっかけられた。戦費の使い過ぎ、隠匿、使途不明金などの嫌疑を朝議で問われ、ある者は弁償させられ、ある者は罷免、あるものは償い切れずに自殺した。士璧は使途不明金が誰よりも高額だったため潭州へ左遷された。

 その上士璧が死んだのは潭州を守り抜いたせいだ、といわれている。その手柄によって士璧の帰参がかなったりすると賈自身の工作.がばれかねない。そこで潭州作戦に対する監査を格別厳格に行い、針小棒大の不明金をこねあげて降職させ憤死させたといわれている。士璧の妻妾子にいたるまで賠償を取り立て、それでも精算できないほどの賠償と報告され、しかも賠償金の半分は賈似道がちゃっかり懐におさめてしまったというのである。

 劉整は自軍への監査が始まると、すぐさま元軍へ寝返った。

郝経を抑留して和議を妨害した李璮は山東、江蘇などの地を手土産に南宋へ寝返ってしまった。また元では、李璮の寝返りで王文統による郝経抑留工作が明るみに出、王は誅殺されてしまう。そうとは知らないで南宋に寝返った李璮は、今度は済南で元軍に包囲されまたしても元へ寝返りをはかり、やっと何度目かの正直、とどのつまりは元軍によって誅殺される身となってしまった。

 景定四年(一二六三)二月元は王徳素を正使として南宋に送り、国書をもって郝経抑留の理由を糺した。南宋の政治はそのころ賈似道が一人で牛耳っていて、理宗はようやく賈の政治に不信の念を抱いたが、身は病床にあって更迭さえままならず、景定五年六十一歳で亡くなった。

 養子の度宗が立ったが、政治は相変わらず賈似道が壟断、批判するものあらば、容赦なく僻遠の地へ流謫し、高潔の士はことごとく斥けられた。大軍が壊滅しても、度宗の耳には決して達せず、江万里という臣が、元軍に包囲されて危急を告げる襄陽へ援軍を要請した時にも、朝臣は今や天子の権勢をもしのぐ賈の顔色をうかがって、誰一人出兵を主張すること能わず、江はついに南宋を立ち去った。度宗は江の退転が気にかかり、賈に怖ず怖ずたずねた。「襄陽の包囲はどうなっているのかね」と。

「もう敵は退却しました。包囲されているなんて誰が申しましたか」

 江万里の名を口にすると、何か起こりそうで、「女官の誰かが噂しているのをふと耳にしたので」と誤魔化した。するとたちまち何も知らない女官が締めあげられ、自白もしないうちから「流言をもって人を惑わす者」として死を賜わり、もはや天子に実際の戦況を報告するものなどついに一人もいなくなってしまった。敗戦国日本同様、勝った勝ったの大本営発表ばかりが幅を利かせ、元に降る将軍が続出しても、朝議では問題にもならなかった。そんなことは口にしただけで死を賜ることになりかねない。そうして襄陽はついに元軍の手に落ちてしまう。宋軍は一戦も交えず降伏し続け、元軍が南京に迫るに及んでやっと腰をあげ、忠勇無双の兵への論功行賞を布告したが、兵士たちはいきり立った。

「紙きれの賞状だの名だけの一階級栄進だの、そんなものが何の役に立つ。そんなものより未払賃金はどうなっているの、それを払ってもらわなきゃ、一歩も進まれん」などと騒ぎ出し、軍に金がないとわかると全軍十三万があっという間に雲散霧消した。

 賈似道はやっと朝議で弾劾をうけ流謫の身となった。鄭虎という怪力の持主が父の仇が討ちたくて護送役を買って出た。漳州で賈が厠へ立ったおり、鄭が力いっぱい賈を抱きしめると胸骨が折れ、たくさん怨みを買ったわりにはあまりにもあっけない賈の殺害であった。

 文天祥が挙兵した。文もまた賈似道と対立し、賈による罷免を察して朝廷を退去した男。賈の失脚を耳にするや勇躍、民兵、異民族の兵一万余を率いて都臨安に入ったが、宰相留夢炎によって僻遠の蘇州へ追いやられた。この期に及んでなお主戦論者は遠ざけられようとしている。戦争が止められないのに主戦論者は遠ざけられる。それはなぜだろう。現代と同様、戦争で私腹を肥やしつづける連中は、どうしても戦争がやめられないというだけのこと。

 臨安を逃げ出した南宋は『平家物語』の一の谷、屋島、壇之浦などと同様、潮州、広州、秀山といった具合に、幼帝昺を奉じて次々に遷都し、最後の厓山島へ落ちのびたとき、張弘範率いる元軍が迫った。

一一七九年(祥興二年)二月七日正午、元軍は最後の総攻撃を開始した。南宋側では宰相陸秀夫が昺帝の座船をなんとか逃走させようと図ったが、御座船はほかの兵船と雁字搦めにつなぎとめられ、離脱することが不可能な状態におかれていた。

末路はこれより六年後に起った『平家物語』平家滅亡のくだりと瓜ふたつ。陸は妻子を真先に入水させるや、自らは幼帝を抱いて海の藻屑と消え去った。群臣、女官が続々海に身を投じ、海面には死体十余万が漂ったと語られている。

 

 

 

悪党異聞 ―伝蔵・浅尾― (2)

物語は、勢之助を藩主の座につけるための相次ぐ藩主暗殺、露見、伝蔵の自決、浅尾の蛇責をもって大団円を遂げるが、事件を裏づける証拠は、皆無である。しかし、政治的事件においては、証拠が出なければ、何もなかったとは断言できない。政治権力間における、反対派あるいは政敵にたいする処置は、証拠が確かになった段階では手遅れ、が鉄則、疑惑の段階で処置しなければ、後手に回った方が葬られる。加賀騒動の物語が、どんなに荒唐無稽であったにしろ、騒動そのものがなかったということにはなるまい。
直木三十五にしろ、海音寺潮五郎にしろ、もっぱら伝蔵の名誉回復、藩主毒殺の雪冤に急なあまり、当の権力闘争については、あまり踏みこまなかったようである。
物語上の事件を、順を追って検証すると、最初の吉徳毒殺未遂は論外としても、六代吉徳の暗殺は、参勤交代の途次、伝蔵腹心の忍者を水中にしのばせ、濁流の千曲川を渡河する、馬上の吉徳を事故死とみせかける、じつにアクロバット的な奇策が実行される。鏡花や犀星が観たであろう、村芝居においては、そこのところは、どんなカラクリをもって演じられたのか。興味津々たるところではあるが、死んだ日は、延享二年(一七四五)六月十二日、金沢城内と、日付と場所まで明白になっている。伝蔵を葬った政敵が、わざわざ事実を隠蔽したとも思えない。
七代宗辰の死が同三年十二月八日、かねて腹心の者を魚屋に仕立て藩邸に出入りさせ、警備の手薄を狙って、井戸に毒を投げこませる。どういうわけか、今度は、毒味の効果もなく、藩主はもとより、食事などしなかった茶坊主や、茶を飲んだだけの近習までバタバタくたばってしまう。そのあげく、腹心の儒者に占わせ、井戸水自体に毒性あり、と言わしめ、その水を、服役中の罪人に試飲させ、罪人が死ぬと、さっさと井戸を埋め立て、証拠を煙滅してしまった。本当に、そんな話があり得るだろうか。
病気といつわり自宅に引篭っていた伝蔵は、宗辰危篤の知らせを聞くなり、みずくろいもせぬまま藩主の枕元に駆けつけ、介抱したというが、記録によれば、伝蔵自身は、それより五ヶ月前の七月二日、先代吉徳の看病不行届の咎にて蟄居謹慎中であったという。吉徳の死が、渡河中でなかったとすると、病気の看病はあったであろう。毒を盛る機会とてなかったとはいえない。それが、いかなる失態によって、看病不行届の咎をうけるにいたったのか、しかも、それが蟄居謹慎で収まったと思うと、立てつづけに起こった次代宗辰毒害である。それまた、事実を証拠立てる記録は皆無である。記録がないから、殺害がなかったとはいえない。謹慎中であったとはいえ、腹心、手の者の働き次第では、もちろん殺害に関与できないものでもない。
重熙についても、吉徳、宗辰同様病死の記録しか残されていないが、二度もの毒殺未遂が語られている。見語によれば、ここでいよいよ悪女浅尾の出番となり、かねて伝蔵が命じておいた、重熙の毒殺を江戸藩邸において決行するも、失敗して彼女は捕われる。
しかし、未遂事件は、延享五年(一七四八)六月二十五日と七月四日、ところがそれでは、伝蔵の関与は不可能であるという。なぜなら、その数ヶ月前、当人は雪深い越中五箇山に配流されていたからである。五箇山に復元された、彼が幽閉されていたという、体を伸ばすことも出来ない場所という意味で、お縮小屋と呼ばれた牢固たる建物は、一見しただけでも、外部との隔絶が確かめられよう。それに小屋の周辺は、四六時中厳戒下にあったといわれる。
浅尾と伝蔵の関係は、これまた一篇の物語となっている。現代の作家によると、ただならぬ仲になっている作さえある。とはいえ、情痴がらみの因果話になってしまっては、犀星作『浅尾』の哀切さなどはとうてい理解できない。
浅尾は、剣術道場を営む小笠原武左衛門の娘で、父親の薫陶をうけ、武術全般について抜群の腕前をもつ。これまた伝蔵の推挙で召抱えられたという。奥の女どもに馬術を指南するうち、姫君のお気入りとなり、父武左衛門まで召されて五人扶持を給わった。武左衛門が死ぬと弟紀十郎が跡を継いだが、これがよくなかった。剣術などからきし駄目で、門人は一人去り、二人去りして、道場は、門前雀羅を張る寂れよう、よくある話で、酒と賭博に身を持ちくずす。湯島天神の開帳で悪酔いし、柳川右内という男と、酒の上での口論となった。手合わせしろ、といきり立ったところで、右内は手洗いに立つとみせかけ、首尾よくその場を逃げ出した。
「右内はどこへいった。逃げようとて、逃がさぬ。」と血眼になって探すうち、よく似た後姿を見つけ、「おのれ、そこにいたか。」と駆け寄り、背後から袈裟がけに斬りおろす。連れの男二人に抱きとめられて、始めて人違いであったと気がつき、酔いはすっかりさめて、公儀のお縄を頂戴、加賀藩が貰いさげて打首にした。
姉としての責は逃れられず、暇を出されようとした浅尾を、救った者が伝蔵であった。浅尾が姫君のオメガネにかなった、馬術の指南番であり、男にも勝る忠義心の持主であることを強調して、彼女の地位をつなぎとめ、彼女のもう一人の弟、当時十一歳になる吉之助を、世継宗辰の茶坊主に召出し、宗辰の代になると、浅尾を中老、吉之助を還俗して近習とし、父の名跡小笠原武左衛門を継がせて二百石をたまわった。伝蔵にたいする姉弟の恩義は、いかばかりのものであったであろう、大事を打ち明けられて、いなや、が言える立場にはなかったにちがいない。
歴史家や現代作家の見方に立てば、加賀騒動など全くなかったことになるが、村芝居や語り物における、蛇責の戦慄を想うにつけ、お家騒動あっての浅尾という気がしてならない。それなのに、犀星作『浅尾』は、彼女の極限状況に焦点をあてながら、お家騒動については何も書いていない。作中の浅尾が、幼時体験として、彼の脳裏に焼きつけられた村芝居のヒロインであることは確かである。にもかかわらず、犀星は、蛇責をやめてしまった。犀星が書きたかったのは、冤罪の有無にかかわらず、蛇責という極刑を眼前にした、凄まじいまでに美しい女それ自体であった。それなのに、蛇責を書くことを回避してしまったのだ。もちろん、歴史的事実、あるいは文書にしても、蛇責なんて刑は確認されていない。しかし、物語上の浅尾は、あくまで、美しくなければならない。身を投げうち、大罪を犯してまでも、大槻の恩義に報いようとした女心。それがなければ、蛇責の一場は、幼心のなかに生きていなかったはずだ。
物語の展開の唐突感が、加賀騒動皆無説、事件冤罪説を生んでいるが、物語自体のうちにも、それを推定させる記述は散見する。見語によれば、蛇責の極刑が執行される一方、大槻の事件は公表されなかったという。前田直躬は、伝蔵の処刑を天下に公表することは、彼を重用した、二代にわたる藩主の非を発くことになる、といって止めたという。幽閉先の伝蔵は首も打たれず舌噛切り、時と場所を違えて幽閉された、伝蔵の密通相手にして共同正犯、お貞の方も、おなじく舌噛み切って相果てた。
検視人もいない、辺境での獄死であった。自害というのも、物語上での虚構で、実際は、密殺されたのではなかろうか。それによって反対派は、改革派との権力闘争に終止符を打ち、相次ぐ藩主の死を奇貨として、一派による藩主暗殺が喧伝されるにいたったが、立証する史料など何一つなく、現存するものは、芝居と巷談の加賀騒動だけである。
見語のなかの大槻伝蔵は、終始一貫、因循姑息な陰謀家で、悪党の貫禄もなければ、とても一派の首領たりうる威厳もない。にもかかわらず、唯々諾々と従う連中がいて、伝蔵逮捕後の屋敷から一味徒党二百余人の血判状まで出て、一派は一網打尽となる。ずいぶん間の抜けた話ではないか。しかも、血判状は文言まで明らかにされながら、犯行の詮議は秘密裁判とされてしまう。血判状は、語り物作家による創作ではなかったか。直躬は獄門、磔などの処置は、世間の目に立つから無用である、と主張して、二百余人ことごとく秘密に処刑させてしまった。権力闘争による粛清だったとみるのが妥当ではないか。
権力闘争があった以上、改革派だって、拱手傍観して敵の出方を見守っていたわけではない。改革派側からしかけた闘争や、粛清だって結構あったと考えられる。前田直躬からして、吉徳の機嫌を損じて、かなりの間蟄居を申し渡されたくらいである。物語上は、伝蔵の讒言によったとされているが、吉徳自身が、改革派の旗手であった。吉徳の死は、伝蔵と一体となって財政改革を推し進めつつある折の急死である。直躬が排斥されたのは、吉徳自身が言い出した、財政再建の資金調達先(上方の札差)にたいして、彼が異を唱えたからである。暗殺の容疑がかかるとしたら、それは伝蔵ではなく、直躬でなければなるまい。
だが宗辰の場合はどうだったか。宗辰が吉徳の急死で、七代藩主を継いだのが翌延享三年(一七四六)、弱冠二十二歳のとき、五月に就任して同年十二月に死んで、これまた藩の文書では病死、物語上は先述したごとく毒殺である。見語では、吉徳謀殺を見抜けぬ宗辰が、伝蔵にたいする先君以来の引き立てを踏襲、またまた加増の沙汰を申し渡した所、
「御家督、御相続遊ばされたばかりの折、まだ、何の勲功もなく、御加増を頂きましては、譜代お歴々の心証も快からず、災いのもとにもなりましょう。先君よりの度々の御加増は、有難き極みでしたが、とかくの誤解をまねき、藩政を妨げました。ご賢察のほどを。」
といった具合に丁重に辞退した上、側用人の辞任をも願い出たというのである。そして、辞任と同時に年寄格のまま、時を移さず国表での隠居となった。見語作者は、側用人辞任を逆手にとっての左遷とみるが、しかし、藩政改革の現場は、江戸表ではなく国表である。隠居は表向きで、目的は国表における改革の推進だったとも考えられる。
宗辰殺害が事実だとしたら、理由は何だったろう。勢之助が改革の理解者だったとしても、宗辰を殺せば、勢之助が藩主になれるという保証はなにもない。それに、家督争いがらみの殺害だったとしたら、なんで、わざわざ、露見のリスクが高い、藩主就任の時などに決行されたのか。宗辰幼少の時から決行の時まで、時間も機会も、山ほどあったであろうに。
重煕の毒殺未遂にいたって、伝蔵のそれまでの所業がことごとく発覚するが、直躬の手記にも、浅尾、お貞が、互いの共謀をみとめながら、大槻との共謀には言及していない。犯行の公表、磔、獄門などの処置を世間に憚った直躬であるが、内密手記にまで、真実を秘さねばならない理由もなかったはずだ。おまけに、お貞は、大槻との不義密通を認めながらも、毒殺の共謀は認めていない。
近代の弁護人の一人、三田村鳶魚によれば、直躬の手記の信憑性自体が、はなはだ疑しい。毒殺はもとより、密通までもが、デッチ上げ、とみなされている。内密手記は、重煕の死を、一人の愚かな母親が、我が子可愛さのあまり引起したお家騒動に仕立て上げることで、直躬自身が策謀したフレームアップの隠蔽をはかった、怪文書ということになる。
公式文書をみても、吉徳以来藩主四人、ことごとく病死である。吉徳を除いて、宗辰享年二十二歳、重煕二十五、重靖十九歳と短命が続く。とても、全部がぜんぶ殺されたとは思えない。もしも、四人のうちの誰かが殺されていたとしても、肝心なことは、それによって、誰が得をしたかということになる。公文書が、必ずしも真実を伝えるとは限らないのである。
吉徳の死で痛手をこうむったのは確実に伝蔵であって直躬ではない。だが、宗辰、重煕については、伝蔵排除の手駒として直躬の意のままに使われている。二人を除く動機は伝蔵にもあるといえるが、除いた結果が、おのれの墓穴を掘った、というのでは話にもならない。伝蔵にとって、難敵があったとすれば、虚弱な藩主などではなく、藩主の病死すら、手際よく政敵追落しの武器に転化してしまった、直躬の政治力であったはずである。『加賀騒動の元凶』の著者南条範夫も、「もし、伝蔵が誰かの暗殺を企てたとすれば、土佐守(直躬)こそその相手でなければならない。」と書いている。
政治力学のなかにありながら、眼前の改革に忙殺されるあまり、伝蔵は、ある意味では政治オンチに陥っていた。一度破算をみた、前時代の経済政策などに、いまさら同調者など出まい、と高をくくり、権力闘争を軽視したのである。もとより、伝蔵は、邪魔な相手にたいして、安易に暗殺などの手が打てる男ではなかった。改革の妨害者どもを、差控えなどの手段によって粛清しながら、改革推進派としては、何よりも藩内の多数派を目指すことが第一、と考えていたように思われる。
では、彼らは、何を争って相対立したのだろう。前田直躬、新側用人(宗辰付)青木新兵衛と並ぶ、伝蔵の強敵の一人、『浚深秘策』という一書を著した、青木藤太夫なる男が、直躬と謀って早くも吉徳在世中、宗辰に宛てて提出したといわれる、弾劾書の諸箇条を見て行きたい。
その一つが、町人に苗字帯刀を許して、臨時の下役人に任じ、年貢の取立を行わせ、収納高に応じた口米(手数料)を給することにしたのは、藩の掟に反する、ということである。口米というのは、本来は加徴米金と呼ばれて、本年貢に付けられた一種の付加税であった。按ずるにそれは藩に直接入る本年貢などではなく、徴税のための事務税といったものではなかったか、
大槻の徴税策は、つまり徴税を、村役人ではなく民間人にやらせて、事務税をその人に給することになる。しかも、それを収納高に応じて給するというのである。藩の掟がどんなものであったかはわからない。徴税業務を、民間にやらせるということは、それに携わる村役人多数の失職を招いたかもしれない。しかし、村方騒動の多くは、役人の年貢、諸役にかかわる不正に端を発する場合が多い。先に伝蔵によって鎮められた、石川郡の騒動だって、伝蔵の年貢減免の指示にもかかわらず、騒動に至ったのは、改作奉行、村役人どもの不正がらみだったことが考えられる。騒動の発生に、改作奉行がからむ事態そのものが、官僚主導の改革の限界を露呈した事態だった、と言えよう。
改作とは、農政改革のことである。法令は、「御国改作起本」(別名、改作法)といい、加賀藩が幕府の認可を得て公布したもので、改作奉行が藩の現地代官、大庄屋(十村)が現地代行者といったところ。大槻の改革は、それを奉行や庄屋、村役人などでなく、一般の町民に請負わせてしまおうという試みだった。
改作法の意図する所は、農村の収奪を強化して、窮乏化する藩士(給人)の救済を計るためであった。改革の強行で搾取にあえぐ農村からは、年貢減免の訴えが頻発し、石川郡下の場合のごとき大一揆に発展する場合もあった。大槻の改革は、そのさいの経験が活かされたものではなかったか。一揆のもとは、藩の搾取プラス現地代官による特権的収奪である。そして、大槻の改革が槍玉にあげられた最大の理由もまた、改革によって各種特権を喪失する旧臣どもの、反撃を意味するものではなかったか。
特権の源泉は、現地の代官や諸役人、庄屋らによる、私金貸付であった。自己の蓄積から年何割という高利で農民に貸付け、年貢収納のさい、自分の返済分を確保した残余が年貢として藩へ納付され、返済分は半永久的な年貢末進として、藩勘定方に年々記録されていく。もしも、それが大槻の改革によって一掃されたとしたら、藩財政も藩士たちの窮乏も、一応の解決をみたはずだが、肝心の実効については、一味処刑のどさくさに紛れて煙滅させられたのか、何らの文書も残されてはいない。
槍玉にあがった改革で、次に特筆すべきものがあるとすれば、軍備の大胆な削減、縮小である。幕藩体制のもとに、それほどの軍備があったかと疑問の向きもあろうが、さにあらず、いの一番に着手したのが、まず放銃訓練の廃止だ。父親長兵衛が鉄砲足軽だったころ、すでに気づいたことで、空に向って、毎日撃ち放つ鉄砲の煙硝だけでも、莫迦にならない費え、泰平の世に、飛び道具など無用の長物と、大鉈を振るったようである。次にしたことが、金沢城獅子の御蔵に埋蔵された御先祖利家公以来の軍用金をそっくり、大坂蔵屋敷へ移管して蔵屋敷衆の運用にゆだねたこと、いずれも、治にいて乱を忘れた処置、一朝有事の時には、如何いたすかと、これまた弾劾の対象になったが、藩財政の危機的状況をかえりみ、こころあるものは、いかなる弾劾をも歯牙にかけなかったらしい。
大槻弾劾の事例はまだあるが、ほとんど、取るに足りないことか、本当にそんなこと大槻がしたのか、と首傾(かし)げられるようなことばかり。大槻も神ならぬ人間であり、なによりも政治家である。政敵を葬るためには、殺害以外のあらゆる手段を行使し、政敵側の有象無象を震撼させ、小心者を続々と寝返らせた辣腕の伝蔵のことである。弁護人がみとめるような、いいことずくめではなかったようだ。
その一つが、大槻が、腹心や寝返った大庄屋などと相談し、各地に運上所を設け、さまざまな雑業、副業手内職に対し、御役(運上)をくまなく課して、百姓をたいそう困窮させている、という告発だ。
石川騒動のとき、追放したとみせかけ匿っておいた与三右衛門も、ひそかに相談に預かった一人かと思われる。徹底した御役の洗い出しは、自分を裏切った百姓どもにたいする与三右衛門のひそかな復讐であったが、それまた、改革のためには、見当違いの復讐心すらまんまと利用してしまう、伝蔵一流の図太い手口だった。
もう一つは、江戸詰の藩士の俸禄に関して、従来、藩の算用場が米会所に問い合わせて決定していた俸禄の決定法を、伝蔵が一新したという。
それまでの俸禄は、禄米を通貨に換算するにも、米相場=米価の大体をもって決められてきたものだが、伝蔵はその慣習を一変した。伝蔵が試みたのは、算用場与力のなかから、計数に明るい者を取り立て、相場聞役という役職に任じ、正確に聞き取った米価の最低値を通貨に換算させ、それを根拠に俸禄を決定する方法をとった。その結果、藩士の俸禄は大幅にダウンし、藩士の窮乏の救済が目的であった改作法が――法の施行者にとっては、改革に痛みが伴うのは、折込済みの事態であったが、――藩士の首を絞める方へと風向きを変えた、などとやはり弾劾の対象になったものである。
従来、人夫請負師を通じて雇い入れていた、江戸上屋敷(現在の東京大学赤門)の清掃夫を解雇してしまった。江戸詰の藩士には、その一人一人に小者が抱えられている。そこで、藩邸で用のあるときには、その者たちを一日三十文で雇入れ、藩の支出を削減したというのであるが、いかにもみみっちい話だ。物語上での悪党伝蔵の、小細工を弄する一面ばかりが目立つ展開については、前に触れたことだが、改革者大槻のこうした面もまた、小悪党伝蔵の小細工的悪事に通じるものがあったようだ。
大槻にしてみたら、こまいことこそ一大事、といった信念をもっての改革の積み重ねであったが、清掃夫にとっては、解雇は今日の派遣労働者の切捨て御免同様、生活上の一大事。小者にとっても、藩邸御用の一日二十文が、自分の収入になるわけではなく、主人である藩士の懐工合を加減するくらいが関の山であった。
福田千鶴は、『御家騒動』のなかで、
「大槻が財政改革に着手したのは、寛保元年(一七四一)頃といわれている。支出削減の工夫に加え、銀の吹きなおし、諸運上の新設による新財源の開発などを行った。これが門閥年寄の前田直躬らの反感を買うことになり、騒動の発端となったとされている。」
と述べ、若林喜三郎は、加賀騒動における、大槻の行為を、幕府の干渉のもと、島津久光、斉彬継嗣問題で争った薩摩藩、お由羅騒動の時の調所広郷らの行動と比較して、大槻の事績などまったくお話にならない未熟さである、と酷評している。そして、両者の違いについても、
「両者がよく似た新儀出頭の経済官僚ではあっても、江戸中頃の転換期(十八世紀半ば頃)と終末の崩壊期(十九世紀半ば頃)という時代差、加賀と薩摩という地域差があるうえに、両者の個性・教養の相違というものも、原因になっていそうである。」(若林著『加賀騒動』)
と評している。
石川の一揆を鎮めた、あの大胆不敵なやり口と、小うるさいその後の改革とでは、はたしておなじ人間がしたことかと、疑わしくもなるが、とはいえ、どんなに大槻が切れ者だったにしろ、一藩の騒動がやがて、国事への奔走へと連動していく、薩摩の騒動にくらべるならば、大槻流の改革にしろ、それに起因する諸騒動にしろ、所詮、加賀(越中・能登)国内というコップのなかの嵐にすぎなかった、というべきである。
 大槻改革によって、最大の犠牲を払わされたのは、なんと言っても百姓である。加賀騒動の物語が、人口に膾炙した最大の理由は、一揆の鎮圧で処刑された百姓たち、積年の改革で職を失い、飢え、路頭に迷い、最愛の子女まで、遊里に売らねばならなかった、百姓たちの怨念であるとみてもよい。
 加賀騒動後続本のテーマは、おおかた御霊信仰となっている。物語は北陸路遊行の別格本山とも称すべき、永福寺、開正寺(別名松寺)を拠点に活動する、高岡瞽女によって担われたのではなかろうか。前田家の支藩越中の旧城下町高岡には、同寺を中心に瞽女町があって盲目女たちが三味線抱えて、御領内三国をくまなく語り歩いたという。とうの昔に消滅した瞽女集団で、レパートリーとて何一つ残されていないが、酒甕に浸かって苦しみもがく数百匹の蛇が、ぬらぬらと凄艶なる美女の柔肌にまといつき蠢動し、裸身に喰い入って苛みぬく、浅岡蛇責の情景は、目の見えない女たちの語り口を通してこそ、いっそう生々しく官能的に語られたのではなかろうか。
 
物語は、お貞(真如院)、勢之助の行く末、金沢の大火などでしめくくられる。藩の公式記録から抹殺された騒動が、物語として語られるようになった背景は、大槻一派を粛清したフレームアップの補完として、巷間に垂れ流されたデマゴギーであったであろう。それが人の口から口へ伝わっていくうちに、民衆の想像力が加わって、物語としての趣向を凝らしていった。
浅岡蛇責などはその代表だが、お貞、勢之助の最期もまた、悲惨なものであった。
お貞が死んだのは、蛇責の翌年の宝暦元年(一七五一)二月、城下真性寺の近くに造られた座敷牢に幽閉されたが、中老、腰元などは誰一人つきそわせない、かわりに、武骨な勤番侍が四六時中、牢のまわりを監視してまわった。お貞は、世継の望みを絶たれた我が子勢之助を思うにつけ、怨み骨髄に徹する思いから、食事も摂らず、「重煕を呪わでおくものか」と日がな一日罵り、丈なす黒髪ふりみだして狂乱すること十日にして幽鬼のような姿で他界したという。
 また勢之助も幽閉の身でありながら、世継の望みを捨てず、重煕が死んで、異母弟重靖が九代藩主の座に就くや、これまた狂乱、乳母が駆けつけ、「一念弥陀仏即滅無量罪」を説いて受戒を勧めても聞く耳持たず、
「たとい予が死んでも、経帷子など着せてはならぬ。予は地獄に堕ちたいのじゃ、閻魔大王を家来となし、この世の者どもに復讐するのじゃ」と絶叫して、息絶えたと語られ、重靖は十九歳という若さで死んでしまう。
これは一体、いかなる信仰による物語であろうか。ぼくたちの常識では、御霊信仰としての敵討は、殺した者が殺された者の肉親に成敗されれば、目出度しで、目出度しで、殺された者の霊魂は鎮まり、敵討の連鎖なんてことはありえない。
ところが、加賀騒動の物語は、悪人が成敗された後も、首尾よく治まったりはしなかった。お貞、勢之助の憤死、一味処刑などから三年後、宝暦九年(一七五九)四月十日のことである。金沢泉野寺町、舜昌寺から出火した。おりからの強風にあおられ、猛烈な勢いで火炎はお城下をなめつくし、金沢城をも呑み込んだ。これはまさしく、お仕置を受けた悪人どもの祟りであるにちがいない、と恐れ慄いたと、町人どもの間では長らくささやかれたということである。
加賀百万石の百姓、町人は、フレームアップの真相を知りつくして、物語を楽しんだのでないだろうか。後続篇『北雪美談金沢実記』のなかに、宝暦九年の大火の恐ろしさが、改めてつけ加えられたり、藩主の御寝所に、切髪、打掛け姿の女性の亡霊が出現したり、一篇の最後においては、大槻の生残りの腹心、高桑政右衛門なる者が、伝蔵の敵を討たんと、前田直躬を襲撃する場面までつけ加えられ、それまでの高桑の臥薪嘗胆が、晋の予譲の故事にたとえられたことなどは、なんと解釈したものだろう。
   
『象』六六号 二〇一〇・三・一五発表