「囂乃ち援をして書を雒陽に奉ぜしむ。初め到るや、良久しうして即ち引き入れる。上、殿廡の下自り、岸幘して迎え笑って曰く、卿二帝の閒に邀遊す。今卿を見るに、人おして大いに慚じしむ。
援、頓首して曰く、当今は但だ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ。」
右文の出典は『「十八史略」東漢 光武帝』の一節であるが、同様の記述が私は未見だが『後漢書・馬援伝』にもあるそうであり、『十八史略』のこの記述は『後漢書』を踏襲したものかもしれない。いずれにせよ、本文は簡にして要を得、歴史叙述のお手本といってもいい。
援というのは、いうまでもなく「馬援伝」の馬援、字は文淵。文淵というのは、現にこの世を馬並に駆け回っている自分の姿に少々愛想をつかしたうえの、意味深淵なる命名だったかも知れない。が誰も文淵などとは呼ばず、歴史上馬援で通っている。一方囂は、王莽の簒奪国家「新」崩壊後、中国各地で名乗りをあげた数ある皇帝候補の一人隗囂であり、上とは劉秀のちの後漢初代光武帝のことである。そして上記の文は馬援が隗囂の特使として彼の書簡を劉秀の許へ届けたさいの秀と援二人の問答である。
東奔西走、二人の皇帝候補のあいだを泳ぎまわっている馬援を劉秀がからかい、それにたいして援が「当今は君主が臣下を選ぶのではなく、臣下が選ぶ時代ですよ」とたしなめたといったところである。
ここで二帝というのは、一人はいうまでもなく、今援の眼前にいる劉秀であり、もう一人は成都で国名を成と改め帝を称している公孫述である。劉秀には、二帝のあいだを邀游す、などとからかわれたが、馬援が公孫述のもとへ出向いたのは、援みずからの意思によるものではなかった。
光武帝以前に、劉秀の族兄劉玄なる男が更帝を名乗って挙兵、王莽の首を取って洛陽、長安へ遷都したが、赤眉軍が迫って劉玄は長安を逃げだした。その時隗囂は劉玄の帷幕にあって申屠建ら五人の重臣と謀って劉玄を南陽へ遷そうとしたが、発覚して申屠建は斬られ、隗囂は天水へ逃亡、劉玄は敗北して赤眉に降伏、敵方にあった畏威候、長沙王などに封じられたが、後難をおそれる赤眉軍の武将謝禄たちによってあっさり殺害されてしまった。
劉玄を見捨てた隗囂は、建武初年にいたるまで西州の上将軍を称して逃亡先天水の各地に割拠していたが、劉玄を持ち上げた時のように誰かと連衡しないかぎり、天水の田舎から撃って出ることは難しい。そこで隗囂が考えたことは後世『三国志』時代の先蹤ともなるべき連衡で、成帝を称する公孫述とのそれである。隗囂が使者にたてたのが馬援で、援は公孫述との連衡の可能性を探るべき囂に依頼されたのである。
援は述とは同郷で旧識があった。青年客気のころは、時務を談じて斗酒をも辞せず、度々逢って飲み明かしたほどの間柄であった。
当時援は、官途にもつかず田舎で先祖の墓守などしながら黙々と暮らしていた。あるとき、ようやく郡長に登用されたが、囚人を裁判所へ護送中、貧しさのあまり罪を犯してしまったある男の身の上にすっかり同情し、縄を解いて逃がしてしまった。そしてすぐさま、自分も罪に問われることに気がつき、さっさと北方匈奴の方へ亡命してしまった。
その地で農場を拓き、牧畜に従事、たまたま巨万の富を手にしたが、「私が金を蓄積られたのは、働くものがいたからだ。それなのに働くものために金を役立てないなんてのは、業突張りの守銭奴だ」といって、もうかった金はことごとく、そこで生活を立てている家族数百軒に分配、奴隷の身分から解き放ち、すべての仕事を彼等の共同事業にゆだね、自分は裸一貫、また別の所で事業を起こし、おなじような解放区を次々に創りあげていったという。今の中国のどこにそんな解放区が見られるかと問われるかもしれないが、その辺のところは遙か昔にあったユートピアとして楽しんでいただきたい
さて、そんな馬援が公孫述と知己になったのもそんなころのことである。互いに野心満々であった。せっかく手にした巨万の富を惜しげもなく手放すことができたのも、天下の風雲に向って立つ付き合いがあってこそのこと、今訪ねていったら、きっと昔を想い出して飛んで来、相擁し手を取り合いかつての付き合いさながら、オレ、キサマで談論風発できるものと固く信じていたが、隗囂のメッセージを携え再見してみると期待はあっけなく裏切られた。
皇帝に即位して四年目を迎えた述は、すっかり皇帝気取りで、人が変ってしまっていたのである。
私的訪問という触れ込みだったにもかかわらず、儀仗兵を物々しく整列させて出迎えたのであった。歓迎の意を表すというよりも、皇帝としてのおのれの権勢をみせびらかすための閲兵であることは一目瞭然で、もちろん援の来遊の目的など、とっくに見抜いた上でのデモンストレーションであった。それにしても、あまりの得意満面ぶりには、援もいささか鼻白む思いなしにはいられなかった。
「天下雌雄未だ定まらず、公孫、哺を吐いて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること偶人の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らんや」
そこまで難じてしまったということは、公孫にはよっぽど失望したということで、そうでなければ、述のもとにふみとどまり隗囂との連衡に最大の尽力を惜しまぬくらいの気持で訪れていたのである。
事実述は、辞去する援に向って「朕のもとにこのままとどまってはどうか。昔のよしみで、将軍くらいには取り立てようぞ」と引きとめたくらいである。述当人はそれで援が飛びついてくるくらいの読みだったが、あまりにも尊大な述の申し出に、援はそれ以上口を利く気もなくなり、ついに天下に対する互いの志を披歴しあうこともなく訣別し、依頼人隗囂にはこう告げた。
「公孫述は井の中の蛙です。蜀の山奥で大海を知らず、しかも威を張るしか能のない小人です。組むべき相手ではありません。いま盟するなら劉秀にかぎります」
それで援は囂の親書を携え劉秀のもとを訪れ、本篇冒頭の会話となったのである。
「上、殿廡の下自り、岸幘して迎え笑って曰く」とは、すなわち、秀が御殿の廊下から、冠もかぶらず姿を現しニコニコ笑って挨拶したことを意味する。
戟を連ねた近衛兵に援を迎えさせた公孫述とは大変な違いである。
援はそんなざっくばらんな出迎えにたいして、
「陛下は私が刺客でないと見抜いて、格式ばらずお迎えくださいましたね、とても恐悦至極にぞんじます」とさっそく外交辞令を繰り出す。
皇帝候補どもは互いに情報網をはりめぐらしあっていたわけで、援がここへ足を運んだ理由も万事承知の上での秀の揶揄であり、それにたいする援の辞令だったので、秀もさらに笑ってこう述べた。
「卿が刺客なんかであるはずがない。せいぜい説客といったところでしょう」
「今や天下大乱の時代で、われもわれもと皇帝を称し出しましたが、しかし皇帝の真贋などはすぐ見分けられるもので、陛下だけは断然人が違います。寛仁大度において、高祖と符を同じくいらっしゃいます」
と最後の外交辞令を述べて、隗囂のもとへ帰っていった。援が自分が感じた通りのことを口にすると、囂は、援が劉秀と劉邦を同等の存在とみたてたことにひっかったらしい。
「で、劉邦にくらべたらどうなんだ」
といらだたしげな声をあげた。
援はすばやく思案をめぐらした。これは秀の方がすぐれている、などと言ったら大変なことになる。邦にはまったく関係のない長所、動くこと法度の如し、飲酒をこのまず、をあげてみたが、囂はますます気にいらない。
「それでは、邦よりも、わしよりも勝っていることになるではないか」
そうはいっても、囂にとっては、邦と秀の比較なんてどうでもよかったのだ。劉邦、劉秀、公孫述、いずれにたいしても、隗囂みずからが決してひけをとらない存在であると、誰かさんに太鼓判を押して貰いたかっただけのことである。
またそれ相応の自負もあり、みずから次代皇帝を自任したりもしていたのであり、それだけに乱世の現状に対する認識は確かであった。囂は囂なりに日和をよんだすえの二帝のもとへの馬援の派遣であり、みずからの本格的な出番はいまだ視野のそとにあったというにすぎない。
馬援の見方を斟酌した結果、隗囂は当面劉秀との連衡を最優先し、ひとまず子の隗恂を光武帝秀のもとへ入朝させたものであった。
むろんこの判断は、囂ひとりの観察に基づくものではなかった。かつて公孫述との連衡の可能性については歴史家の班彪に質したことさえある。彪もまた述との連衡の非を戒めたものだが、そのときは彪の見方など歯牙にもかけなかった。それが援にまで手厳しく駄目押しされてしまうと、改めて考え直さないではいられなくなった。
皇帝候補は時とともに淘汰されていき、残されたのは劉秀、公孫述、隗囂だけになった。囂は息子恂を光武帝のもとに入朝させてみたものの、みずからは入朝せず、まだ日和見に精出しているのであった。
そして建武八年(三二)、光武帝の軍はついに去就さだかならぬ、隗囂軍討伐に向け重い腰をあげたが、潁川(河北省中部)で別の反旗が翻り、劉秀は隗囂征伐どころでなくなってしまった。
機をみるに敏なる馬援が、この機を逸するなと隗囂を説得し、囂は取り敢えず光武帝に入朝したが、秀の下に立つのがよほど癪だったらしい。ほど経ずして叛旗を翻してしまった。
秀は書簡を書いて、懲りずに援を説得に赴かせたが、囂は従わなかったばかりか、あべこべに公孫述についてしまった。援のたしかな助言もあって、これは囂の判断ミスなんてことではない。ここまでくると、もはや秀には屈したくない意地だけである。しかし、後漢の全勢力が行動しだすと、馬援は糧秣の調達、敵状の分析、秀おして「虜はすべて我が掌中に入った」と感嘆せしめたほどの水も漏らさぬ作戦を献策し、敵はことごとく虜となって隗囂軍は消滅、そして三年後、建武十二年(三六)公孫述も滅んで、後漢の始まりの天下三分の計は帰趨を決してのである。
天下が平定すると、劉秀はすっかり戦争嫌いになってしまった。もともと戦争が好きで帝に祭り上げられたわけではない。彼はやはり戦争で一旗あげようとしていた兄劉演に引っ張り込まれただけである。三度の飯を食うため、兄の食客になっただけで、ほかの食客たちも同様、戦争好きの兄に蹶起を促されるたび、「演の野心に巻き込まれたら、命などいくつあっても足りゃしない」とぶつくさ言い、その分、戦争嫌いで逃げ腰でばかりいる、温和な秀が慕われたわけである。
しかし、ふだん一宿一飯の恩義にあずかっている以上、いざカマクラというさい、逃げてばかりではすまされない。ときに彼らが王尋、王邑にいたとき、王莽が百万の大軍を率い、虎、豹、犀、象などの猛獣をさきがけにして押し寄せ、反乱軍諸将がわれがちにと昆陽へと逃げこんでしまったときには、劉秀はよんどころなく、手兵わずか千余人をもって諸軍の残兵をかき集めて、暗夜ひそかに王邑、王尋の野営地を衝き、敵の本隊を潰走せしめたのである。
後漢の諸将は仰天した。
「劉将軍は、平生どんな小敵にも臆病風を吹かすほどの人なのに、今未曾有の大敵を相手に、勇気百倍してしまわれた。なんという不思議な人だ」
これを機に新軍は敗退をかさね、ついに総崩れとなり、新は滅亡した。
それなのに、劉演、秀兄弟の声望が一挙に高まると、更始帝はかれらに嫉妬し、台頭をおそれて、兄劉演を暗殺してしまったのであるが、秀は更始帝の逆鱗をおそれ、兄の葬儀はおろか、服喪さえ遠慮してしまったほどである。これは結果として賢明な保身につながったようである。兄が殺されたのは、兄の満々たる野心であった。とはいえたった一人の兄の死はひらすら悲しかった。毎夜寝に就くや一人枕を濡らして涕泣したのである。秀のひたすら敬虔な態度が更始帝を恥いらせた。秀は演の大将軍を継がされ、大司馬蕭王にまで引きあげられ、よんどころなく兄の食客、そして兄に代わって自分が扶持すべき昨日までの義兄弟の頭目にされてしまったのである。
劉秀は、部将たちが投降者に心を許さない場合でも、一人の殺害もみとめず降将たちに部下をそっくりそのまま、それぞれの陣営に連れ帰らせ、みずからは軽装のまま騎乗して投降隊を見舞ったので、投降者は一人残らず「蕭王は私たちの心をそっくり自分の心にされてしまった。この王のためなら、いつだって命など惜しくない」
などと言い合っていたそうである。
赤眉の攻撃から長安を救い出したとき早くも、将軍連中は秀を皇帝に推戴しようと申し出たが、秀は固辞して受けなかった。
赤眉というのも、漢室に血縁にあるもので名を劉盆子と呼んだ。十五歳のとき、赤眉軍中にあって羊飼をしていたところを見出されたと言う。ざんばら髪をして裸足、弊衣をまとい、日焼けして顔からたらたら汗をしたたらせていた。乞食より劣った身なりだったにもかかわらず、見出されたということは、よほど高貴な顔立ちをしていたにちがいない。その顔に向って諸将がいっせいに拝謁をはじめると、盆子はとつぜん恐怖にかられ泣き出してしまった。戦争が高貴の相を必要としたのだが、そのとき幼い盆子は、おのれの前途を予感してしまったのかもしれない。
赤眉軍はついに長安に入った。宮廷や市街を焼き尽くし、そのとき更始帝は殺されたとも逃げ出したともいう。ISもそこのけの赤眉の所業とあっては一刻もはやく長安を解放しなければならない。それには盆子の高貴を圧倒する高貴の登場が急務とあって、秀はやむなく皇帝の印綬を帯びさせられてしまったのだ。
そして赤眉が投降したときにも、一人も殺さなかったばかりか、投降者を生かすため、担がれた賊帝劉盆子にさえ所領をあたえたのである。
戦争は、もうこれっきりやめたいと考えた。秀自身、負けた盆子同様、担がれた皇帝にほかならないことを自覚していたのである。
隗囂、公孫述の没落まで、逃げることをゆるされなかった。馬援の和平工作に全幅の信頼を寄せたにもかかわらず、それが実らなかったばかりに、こころならずも高貴の首でありつづけるほかなかったのだ。しかし、隗囂、公孫述の没落を最後にもはや軍旅におもむくこともなくなった。
臧宮と馬武が匈奴征伐を上奏したときには、秀ときたら、黄石公の『包桑記』の書「柔能く剛に勝ち、弱能く強に勝つ」を与えて戦争を回避させたしまった。
西域の勢力争いに介入することを恐れて玉門関を固く閉じ、西域との交易すら断絶してしまった。かつて匈奴の地に何度も亡命し、その地に農場や牧場を拓き、働く人たちに土地財産を分配してしまった馬援の進言もあったであろう。匈奴の地は匈奴おして生かしめよ。先進国の手出しは無用と考えたのだ。
功業の将を大切にし、二度の軍務にはつけなかった。官吏の仕事は、太尉、司徒、司空の職責とし、功臣は官職につけなかったので、晩節を汚すものもいなかった。功臣も次々に世を去り、そのつど秀は丁重に葬り追慕してやむことがなかった。
ところが馬援がなくなったときだけはいささかおもむきが異なった。
援はつねづね、自分の死にたいする信条を披歴し「大丈夫まさに馬革をもって屍をつつむべし。いずくんぞ能く児女の手に死なんや」などと述べていた。
兵士は戦場で死を迎え、馬の革に包まれて葬られるのが本望、女子供の看病のもとで死ぬべきではない、という考えで、秀の信条とはほど遠かった。
交趾が侵攻してきたときのこと、援はただちに反撃に出ることを進言したが、戦争に飽き飽きしてしまった秀は、腹のうちで、交趾ごときが攻めてきたところで、どれほどの土地が奪れるか、たとえ我が領土がせしめられたところが、彼等に統治ができるのか、お手並み拝見くらいの気持だったが、あえて口には出さず、援の老齢をいたわってこのたびはどうか出撃を断念するようにと言いふくめた。
すると、そくざに援は甲冑を身にまとい騎馬にまたがり、ひと駆けして息もつがず、「この通りぴんぴんしておりますぞ」とみせつけた。秀は「矍鑠たるもんだな、この爺さまは」と笑って送り出してしまった。
援の矍鑠がみせかけだけのもので、たいした戦争にはなるまいと見くびってしまい、援の征途が死に場所を求めての旅だとも察せず、レクリエーションにでも行かせるくらいの気持であった。
それよりしばらく以前のこと、秀の娘婿の梁松が馬援を訪ねていた。松は援に向って当時の礼法に従い床に下座して拝礼したが、援は松の岳父としてあえて礼式を無視し、それで松は援に含むところとなった。
それから間もなく交趾へ出撃した援は、自分が親代りをつとめる兄の子に自分がいなくなった後の彼の処世を案じ遺訓を書簡にしたためた。
「吾、汝が曹の人の過ちを聞くこと、父母の名を聞く如くせんことを欲す。耳に聞くべきも、口にはすべからず」
これは一口に言えば、人の噂など聞いても口外するな、他人の長短、政治的言説などをかれこれ言うのはやめなさい。ということに尽きる。それもそれだけのことなら、なんの問題も起こらなかった。あるいはそれは、そんな教訓を口にしながら、実例に友人の名をあげ、みずからその教訓に背いて、みずからの身で教訓を実物教育してしまったというべきだったかもしれない。
「竜伯高は敦厚周慎、謙約節倹、わたしはこの人を愛し、重んずる。見習うなら、この人を見習いなさい。
杜季良は豪快、義を好み、人の憂いを憂い、人の楽しみを楽しむ。かれの父母の葬儀には、数郡の人が悉く会葬したほどの人だ。わたしは、この人を愛し、重んずるが、この人を見習うことは願わない。
伯高を習って成功しなくても、謹直な人にはなれる。いわゆる鵠を彫って出来損なっても鵞くらいにはみえるが、季良を習って失敗すれば、天下の軽薄子になる。いわゆる虎を描いて成らなければ、犬に見られるってわけだ」
お得意の人間観察の披歴だったが、書簡が、人手も人手、季良の政敵の手に渡り、まわりまわって秀の目にふれ、季良は官職を免じられてしまった。秀の人事考課が厳正すぎたのであろうか。季良と仲が良かった梁松まで連座せられるところだった。さきの婿に対する欠礼といいこのたびの災厄といい、松は援をますます恨むところとなって岳父の失脚をはかるおりの交趾出撃であった。あるいは自分の書簡がもたらした事態にたいする援なりの引責、あるいはおのれの死期がわかっていたかもしれない。あっけなく軍中で病死してしまった。生き残った者はしてやられたようなもので、死者を鞭うつに別の手だてを講じるほかなかった。松は罪状をでっち上げた。マラリア予防薬として従軍兵士が持ち帰ったキニーネのことを、援が禁制薬を持ち込ませたと讒言したのだ。怒り心頭に発した秀は、援を墓を暴いて印綬を没収してしまった。かつて私が『小説 墓をあばく』(「象」43・45)に書いた王莽をめぐる故事と全く異なるところがない。
臣君をえらぶ、とは馬援自身の言だが、援もついに君をえらべなかったのだろう。それともそれが、彼が最後に望んだ自己破滅の実現だったであろうか。晩年に至り、ようやく援は悟ってのである。
どんな名君であろうと、しょせん皇帝は存在自体が専制である。帝制のもとにあっては、君が臣をえらぶことも、臣が君をえらぶことも不可能なり、と。
最後に『小説 墓をあばく』の結末をここに再掲しておく。
「建武元年(二五)夏、赤眉の賊樊崇の勢数十万が、劉盆子を皇帝にたて、武関を破って長安を攻撃、漢軍は降伏したが、賊軍どもはまたしても宮殿や市街を焼き、更始帝を殺害した。死者数十万。かくして長安はふたたび廃墟となった。またしても、廟、墓が発かれ、朕(王莽の一人称―作者)の敗北もあだではなかったと満足したが、光武帝(劉秀―作者)が即位するに及んで、旧体制のすべてが復活した。」(二〇〇三・三・十五)