「かなめちゃんのこと、待たせすぎなくてよかったわ! ほんとごめんね、ありがとう」
「30分くらいどうってことないから大丈夫! むしろおつかれさま、万里子さん」
18時間超えの勤務を終えた万里子さんは、席に着いてオーダーを済ませたところで、もう一度謝ってくれた。
木目調のカウンターとテーブル席、黒電話がレジ横にディスプレイされ、棚の上にずらりと並ぶ招き猫たち。
昭和の香りが残るレトロなサンドイッチ専門店が、新しくモーニングを始めたということで、一緒に行こうと約束をしたのは2週間前だ。
その万里子さんが前日に急遽シフト変更の打診を受け、夜勤明けで間に合う時間に待ち合わせを変更したところで、さらに残業の追い討ちがあり、今に至る。
「ただでさえ、かなめちゃんに予定かえさせちゃったのに……先約あるのに仕事にするとかさ」
「そこは全然いいよ。変更できる予定なら協力するもの」
「うん、ありがとう。なのに、モーニングがブランチを超えてランチになるかと思ったわよ、もう」
「めずらしいね。いつもなら余裕で定時上がりでしょ?」
「ホントは今日も余裕だったの、ホントは! でもね、終わり間近に禁じられた呪文を口にしちゃったのよ、うちの相方」
「え、まさか」
「そのまさか」
どんよりとした目で万里子さんは頷く。
遠い過去となった私の新人時代から、『決して勤務時間内に口にしてはいけない言葉』として引き継がれてきた言葉だ。
『キョウハ オチツイテ イマスネ』
ひと度その呪われし言葉を口にすれば、さほど時間をおかずに、事態は荒れる。
落ち着いていたのは、ただ単に『嵐の前の静けさ』だったと思い知らされる。
「あの言葉、わかってても気を抜くとつい言っちゃうからさ、ホントやばいわ」
「たしかに」
万里子さんの言葉に同意しつつ、思い返せば禁句を口にした後にはなかなかハードなことが待っていた。
急変、急患、転倒転落……骨折で整形外科、脳梗塞疑いで脳外科へ救急搬送……
「ちょっと前向きなところだとね、急遽転院先が決まってサマリー書くことになったときはすごく複雑だった」
帰る30分前に担当患者さんが明日転院って言われた時の感情は複雑極まりない。
前から打診してたのが動くのも、患者さんと家族が希望する専門的に治療がようやく受けられるようになるのも嬉しい。
でも、急遽の書類作成は辛い。
「退院準備、電カルじゃない時の書類の多さったらなかったわね」
「私、転職した先が手書きだったから、うん、それまでパソコン上で操作してた全てが伝票と書類にボールペンで書くってなって、衝撃だった」
「紙カルテにボールペンで書くじゃない? 夜勤明けになるともう字がヨレヨレで、誤字脱字もやばいってのに、長い記録作業の後に事故が起きたらインシデントレポートも手書きなのよ、気が遠くなったの思い出したわ」
「かなめちゃんとこは、今はその辺どう?」
「うちは先生と2人だし、万里子さんとこや前のとこみたいのはない、かなぁ」
個人診療所で医師1人看護師1人でやってる私に対し、万里子さんは大きめの病院で芝居をやりながら看護師をしてる。
この違いはきっと大きい。
夜勤も日勤もしてた時とかはそれなりにあったけど、今はまずほとんどない。
訪問診療もしているから先生とお宅訪問もするけれど、だからといって映画やドラマのような展開だってそうそうない。
「まあ、そんなわけでね、禁じられた言葉が口にされたので、一睡もできなかったのよ」
「え、寝てないの?」
「ちょうどうちが交代で休憩に入るとこで起きたから、まだ相方は3年目だしね、先輩がフォローせねばって話なだけ。かつてしてもらったことを後輩に返すってだけね」
万里子さんの笑顔が頼もしくかつ、すごく眩しい。
舞台女優としての魅せ方もプラスされてさらに眩しい。
「そんな夜勤明けってさ、なんか無性に揚げ物とか食べたくならない?」
「なる。わかる」
そのタイミングで万里子さんの前にやってきたのが、常連さんイチオシのエビカツサンドとフルーツサンドのコンビセットだ。
揚げたて熱々サクサクのエビカツは、千切りキャベツと自家製タルタルソースがたっぷりと挟まっている。
口に入れた瞬間のエピのぷりぷりと衣のザクザク、タルタルのコクがたまんない。
フルーツサンドは、特製クリームにりんごや黄桃、いちごにキウイ、バナナと盛りだくさんで端から端までしっかりフルーツが堪能できる上に、店主さんこだわりでいちごはそのとき一番美味しいものを仕入れてくれている。
「甘いのとしょっぱいので心も胃も満たされるのよ、最強だわ」
「海老カツとスモークサーモンで海の幸セットにするのも幸せ感増すよ」
私の前には海老カツとスモークサーモンのコンビセットが置かれている。
フルーツサンドも大好きだけど、ここのスモークサーモンはトマトとレタス、特製マヨネーズソースの組み合わせがものすごく好みで、いつもこっちにしてしまう。
なお、コンビセットは2種4切れで提供される。
「というわけでお疲れの万里子さん、スモークサーモンもいかが?」
「フルーツと交換、ぜひ! これ、めっちゃ満たされる」
セットのコーヒーをブラックで楽しみつつ、夜勤を頑張った明けの万里子さんと本日休みの私のブランチはほどよくまったりとした時間をレトロな空間で過ごした。
了
