ここのところの映画の感想記事は、どちらかと言うとネガティブ、というか、だんだん辛口になってきていたんだけど、久しぶりにかなり感動的な、心を揺り動かされた映画を観た。
同じく中絶がテーマで昨年非常に感銘を受けた「17歳の瞳に映る世界」を観たときと同様、強烈なリアリティーが衝撃的なフランス映画「あのこと」という作品。
映画のあらすじと概要は、以下公式サイトからの引用で。
アンヌの毎日は輝いていた。貧しい労働者階級に生まれたが、飛びぬけた知性と努力で大学に進学し、未来を約束する学位にも手が届こうとしていた。ところが、大切な試験を前に妊娠が発覚し、狼狽する。中絶は違法の60年代フランスで、アンヌはあらゆる解決策に挑むのだが──。
舞台は1960年代、法律で中絶が禁止されていたフランス。望まぬ妊娠をした大学生のアンヌが、自らが願う未来をつかむために、たった一人で戦う12週間が描かれる。この作品の特別なところは、本作と対峙した観客が、「観た」ではなく「体験した」と、語ること。全編アンヌの目線で描かれる本作は、特別なカメラワークもあり、観ている者の主観がバグるほどの没入感をもたらし、溺れるほどの臨場感であなたを襲う。
ここに書かれた通りで、実を言うと、この映画の内容について、自分が付け足すことはほとんどない。
確かにそれは「体験」と言える。昔の映画のような狭い画面、ドキュメンタリー作品のように余計な説明や饒舌な感情描写を省き、主人公アンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)に密着する冷徹な視線、赤裸々な肉体の描写、汗と体液と生々しい息遣い、流血の凄絶な場面でもショートカットせず、容赦なく撮り続ける映像、思わず目を覆いたくなっても、目をそむけるな、と言われているようで、胸を締め付けられるような思いで画面を凝視してしまう。
自分がくどくど説明するより、とにかくこれはもう見てもらうしかない。
これは、闘いの物語、サバイバルというよりは、むしろレジスタンス。不条理な状況に追い込まれた一人の女性が必死にもがき苦しみ、脱出口を求めて彷徨する姿は、性別を問わず、観客に傍観者であることを許さない。
しかし、一方で、この映画の意味を理解できない観客も少なくないようだ。
妊娠の原因であるセックス、欲望や快楽の追求に対する非難や帰責であったり、中絶か出産かという葛藤がないことへの疑問であったり、希薄なストーリー性に対する不満であったり、主人公に作品のテーマからは的外れの「母性」とやらを期待したり、あるいは、堕胎される胎児への憐憫であったり。そういう態度や反応は、そもそも中絶に対する抑圧や桎梏を生み出す法律や宗教や因習や社会通念、そのあまりに抽象的な正義感とか、欺瞞に満ちた空疎な「生命」を捏造して崇め奉る観念的な倫理観とかと大同小異で、自己を脳の中の幻想に安住させ、目の前にいる具体的な実在の人間の心と体を見えなくしてしまっている。
同じ欲望や快楽の追求なのに、男は何のリスクも責任も負わず、その結果に対する葛藤もない。自分の愚かさを棚に上げて、妊娠を避けられなかった女を愚かとあげつらう傲慢不遜。自分自身の浅はかな意識に疑問を抱かず、映画を見世物として、そこにストーリー性を求める厚顔無恥。あるいは、「妊娠は病気じゃない」などと軽薄な妄言を安易に口にする太平楽。
他者に対して「自己責任」を声高に言う者も、結局のところ、自己の「他者に対する無責任」を正当化したいだけなのだ。
また、最近流行りの「レジリエンス」(被害からの回復力)という言葉にしたって、それを称揚することは、結果として、そのようなレジリエンスで克服しなければならない問題、つまり、差別や抑圧や侵害や暴力を容認することにつながっている。
要するに、この映画を直視できない者、没入して追体験できない者、あるいは自分は男だから分からないなどと言い訳する者は、この映画と距離を置くことに腐心し、他者への責任から逃げ、問題を黙認し、自分だけ安全地帯に隠れようとしている卑怯者、ということだ。
映画に感銘を受けたので、未読だった原作小説が読みたくなって、すぐに文庫版を購入し、読後、映画とはまた違う形で心を揺り動かされた。
原作は、作者(今年のノーベル文学賞受賞者のアニー・エルノー)の自伝的な内容で、セックス後に直面したエイズ検査への不安をきっかけに、現在(1990年代)の自分が、小説の原題でもある30年以上前の「事件」を回想して小説を執筆するという形式になっている。いや、実際のところ、それは回想などという生易しいものではなく、その「事件」の意味を執拗に問い、どのような答えへ行きつくかも見えないまま、記録と記憶を呼び起こし、感情を抑制しながら冷徹に自分自身の心を解剖するかのように、必死に自己の深層への探求を続ける、という、執筆という行為自体がまた闘いという様相を示す。あたかも、義務感に追い立てられるように。
そこで語られるのは、妊娠が自分の肉体への侵食にとどまらず、家族や友人や知人、それまで親密で平穏であった人間関係の動揺と変容を引き起こし、さらには、自分の見ていた世界の見え方、日々の生活や自分の将来、人生の風景や意味までも色褪せ、消滅させていくという恐怖。刻一刻と非情に近づくタイムリミットの中で、自分の精神への圧迫に対する懸命の抵抗。しかも、その闘いは、勝てば終わり、ではない。勝利は束の間であり、代償は大きい。闘いの傷も、戦争への従軍によるPTSDのように、いつまでも癒えずに残り続ける。
描写されるのは、実に多くの複雑に錯綜する感情、不安と恐怖、不信と疑念、憤り、焦り、孤立感、閉塞感、無力感、絶望感、喪失感、疎外感、エトセトラ。
実存主義文学や不条理演劇のように、言葉によるインパクトがこの上なく鮮烈な作品だ。
この映画が、「あのこと」を「映像」と「体」を通して、文字通り「体験」するものだとすると、小説は、それを「言葉」と「心」を通して感じることになると思う。
これは、映画だけでなく、小説も是非あわせて「体験」すべきだと思った。