2019冬クールのテレビドラマで唯一見ているのが、NHKドラマ10のこの作品。

特撮オタクOLの日々の生活を赤裸々(笑)に、真に迫って描写した、なかなかの力作。

NHKドラマトピックでの制作発表や予告編を見て、これは面白そうだと思って期待していたんだけど、いやあ、期待以上の出来で実に面白い。

今週末で最終回なので、ほんとは、全部見終わってから感想を書くつもりだったんだけど、ちょうど今週末から諸般の事情でしばらくインターネットにアクセスできなくなるので、今のうちに書いておこうと思う。

 

やはり、何といっても、隠れオタクの特撮女子という、かなりニッチな設定が効いていて、その微妙な心理や複雑な生態が、非常に興味深く、見ていて相当コミカルなんだけど、何故だか無性に共感を誘い、物語の展開に引き込まれ、秘密を抱えている緊張感と同志との心の触れ合いによる安堵感とのバランスが本当に絶妙。はらはら、サスペンス&ほのぼの、まったり、遊園地のライド&アトラクションを乗り継ぎ巡っているような楽しさ。

ストーリー展開もさることながら、ヒロイン(仲村叶)の小芝風花の芝居がまた絶品。「あさが来た」の千代役でも良かったけど、この人の芝居には、波瑠さん同様、嘘がない。変な自己アピールとは無縁に、真摯に役と向き合っている姿勢はすごく魅力的だと思う。

倉科カナ(吉田久美)や木南晴香(北代優子)、寺田心(ダミアン)も皆はまり役。また、みやび役の吉田美佳子とか、NHKは良い役者を見つけてくるのが上手い。さらに、ラスボスお母ちゃん役・松下由樹のホラー芝居(笑)にいたっては、ただたださすがの一言。

それに、ドラマのコアなのだから、当たり前ではあるんだけど、特撮ヒーロー劇中劇の再現クオリティーは、ディテールにいたるまで制作の丁寧さ、徹底ぶりにはまったく感服させられる。

うーん、「オカムス」でもそうだったけど、NHK名古屋、相当やるなあ。

 

ストーリーとしては、4話の混沌カラオケ(笑)や5話のぐだぐだ撮影会(笑)など、その分野のオタク趣味がない人には、ちょっとついて行き難い展開もあるんだけど、これはこれでプロットとしては重要なのだと思う。いわゆる「オタク」の人間関係やコミュニケーション実態を、的確に描写していて、これがこのドラマのテーマ、特に、先週6話での、叶とお母ちゃんの鬼気迫る対決シーンの背景には必要不可欠だ。

このビンタの応酬の心がぎりぎりと苦しくなるシーン、母親に追い詰められていく叶の表情、震える目や口、堪えきれない感情の爆発。交錯する吉田さんや北代さんたちとの思い出と心の奥底に抱えた不安、並行して象徴的な激しい戦いを繰り広げるシシレオーとゲンカ将軍。

実に見事な演出だと思う。

今週末の最終回で果たしてどんな結末が待っているのか、楽しみでしょうがない。

 

ここからは、まったく個人的な見解で、このドラマの意図やビジョンからは外れてしまうかもしれないけど、ちょっと思ったことを。

このドラマ、単なるオタク趣味やマニアの世界の「あるある」を描いたドラマではない、と思う。

人には、誰でもそれなりに独自の趣味や嗜好がある。そういう意味では、人間皆ある程度は多かれ少なかれ、オタク気質を持っているとも言える。

しかし、ここで問題にされているのは、そういうライトな趣味や嗜好、軽く○○オタクと呼んで、ひとくくりにされるような、そんな浅いテーマではないはずだ。(ましてや、毒親問題とか、過干渉の母からの娘の自立とか、そんなテーマでないことは言うまでもない)

 

すべてのオタクがそうだとは言わないが、オタクと言われる人の中には少なからず(あるいは通常は「オタク」とは呼ばれないタイプの人の中にも)、おそらく小さな子供の頃、言葉にならない、不思議で衝撃的な、特別な体験をして、その記憶を心の中に大切にずっと抱いている人がいる。

(そういう人を、ここではあえて括弧つきで「オタク」と言う)

ただし、それは決して常軌を逸した、特殊な体験ではない。

それは、ごくごく日常の、例えば、街中や野山で遊んでいるときの、何気ない風景、黄昏の空を走る一筋の飛行機雲だったり、夕映えの美しい山影だったり、威厳に満ちて聳える大樹だったり、鬱蒼とした深く大きな森だったり、一面に光る花畑だったり、それらの風景にこだまする、鳥の声、虫の声、蛙の声だったり。あるいは、ひっそりと佇む、古くいかめしい建物だったり、街角の不思議なオブジェだったり。

しかし、そのとき、何故かその体験は、ありふれた日常の風景を超越した、特別なものとなる。

そういうとき、その子供は、はしゃぎながら家路を急ぐ友達の一群からはずれて、そういう不可思議な光景を、何かにとりつかれたようにぼうっと見つめながら、一人立ち尽くしている。言わば、ある種の「自然の神秘」に魅入られた瞬間だ。

そういう人の心には、その瞬間が永遠の刻印のように残る。

そうして、そういう人は、往々にして、「人間」よりも、外界の神秘、あるいはそれを象徴するような、シンボリックな「事物」に、常に心を惹かれるようになる。

「ヒト」よりも、「コト」や「モノ」を志向する、そういう人が、いわゆる本源的、原初的な「オタク」になるのだと思う。

家族や友達の群れから外れて、自然の神秘へと心が向かってしまうのと同様、「オタク」は、世間一般や周囲の人間関係に何のためらいもなく同化したり、同調したりすることができない。心の中にはいつも「自然の神秘」が棲みついていて、人間の世界からその外側の世界へ彼/彼女の精神を引き離そうとし続けている。

オタク(お宅)という言葉が、元の意味からして、呼称の話者である人間と人間との微妙な距離感を表しているように、「オタク」が人付き合いが苦手だったり、場合によっては「コミュニケーション障害」とまで言われてしまったりするのは、そういうことなのだと思う。

 

しかし、自分は、コミュニケーション能力の高い、人間関係の円満な、「普通」の「正常」な人間よりも、世間一般の価値観や生き方、ないしは、家族や友人・知人や組織・集団から求められる「らしさ」になじめない「オタク」のような人の方がずっと魅力的だと思っている。

世の中では、人間中心、人間関係志向、コミュニケーション志向こそが望ましい生き方だったり、模範的なパーソナリティーだと思われていたりするが、果たして本当にそうだろうか。

人間が自然と一体となって、四季の移り変わりや、ときには自然の厳しさやその無常も受け入れて、切々と生きていた時代、そういう時代はもはや過去のものになってしまった。いや、そんな時代がかつてあったのかどうかさえ、今となっては覚束ない。

人間は、自然から大きく遊離して、どこか歪んだ、病理的な存在になってはいないか。

 

そもそも人間は、みな孤独な存在ではないか。人間同士が本当に理解し合えるなんてことはないのではないか。常識的な人間関係や幸福とされる生き方など、すべて虚妄、欺瞞ではないのか。現代人は、そういう本源的な問いから目をそむけ続けているのではないのか。

 

決して「オタク」が意図してそういう問いを発しているわけではない。

それどころか、「オタク」は、一方でいつも不安にさいなまれている存在だ。

「コト」や「モノ」の世界で自分はすべてを充足して生きていくことができるのか。

こうして「ヒト」から離れていたままで、自分の真の望みは叶うのだろうか。

「オタク」の世界は、一種のアニミズムの世界。「コト」や「モノ」は、やがて「カミ」にも転化する。それは、ときに「宗教」の萌芽ともなる。だが、「宗教」を構築して、衆を頼みさえすれば、それで問題は解決するのか。それは、別の迷妄への誘惑にすぎないのではないか。

 

そういう意味で、このドラマでも、先週6話の叶の母親の台詞、「一人になるよ!」が最も象徴的な言葉だと思う。これが「オタク」の心には最も深く突き刺さる言葉なのだ。

 

問題解決の処方箋は、容易には提示されないだろう。

しかし、ここで提示されている問題は、本当は現代人すべてに向けて投げかけられた、深く、鋭い、それこそ「毒濁刀」の一撃にも似た、インパクトのあるものだと思えてしかたがない。