世間には、説教好きでおせっかいな人が大勢いる。
単なる「説教好き」や単なる「おせっかい」なら、適当にあしらっておくこともできるし、どこか愛嬌のある性癖だと思って、笑ってやりすごすこともできるから、さしたる害もない。
しかし、昨今の世間の風潮として、大上段に「道徳」や「倫理」(あるいは「自覚」とか)をふりかざし、それを他人に執拗に強要する人がやたら目立つように思えて仕方がない。その攻撃性が一定の限度を超えて、道徳を強要された側に具体的な精神的被害が生じると「モラル・ハラスメント」などと言われることにもなる。
最近よく見る、著名人のツイッターやブログ記事での炎上とか、自分と直接関係のないことにまであちこちしゃしゃり出てしつこく粘着し、非難や批判を繰り返す人とか、所構わず自分の意見を押し付けようとする人とか、まあ、似たような類の人々。
道徳は何のために存在するのか。
多くの人間が社会や共同体を構成して一緒に生活していくためには、規範やルールがなければいけない。それなら、法律があり、政府があれば、それでいいじゃないか。いやいや、法律だけでは足りない、日々の生活でトラブルや揉め事の処理にいちいち警察や裁判所や弁護士の世話になるわけにはいかない。事後的な対応ではなく、事前に問題が生じないよう、みなが暗黙に共有する自然発生的な自主マナーや社会生活の一種のガイドラインとして、あるいは法律よりもずっと緩やかで柔軟な、社会の潤滑剤として「道徳」が必要だ。功利的に考えるなら、多分そういうことになる。
しかし、それなら「道徳」が持ち出されるのは、社会的に問題とされるような、看過できない具体的な実害の生じ得る実際の「行動」に対してだけ、であるべき。純粋に個人の内面に関する問題に対して「道徳」を持ち出す余地はない。また、持ち出すとしても、それは弊害を抑制するのに必要不可欠かつ方法として有効な限度においてのみ。度を超えたおせっかいな説教や相手の心に響くはずもない単なる非難、罵倒や中傷は許されない。杓子定規にならず多義的で、緩やかで柔軟であるからこそ、道徳は機能する。
そんな功利的なことじゃなく、道徳は人間の生きる価値の問題だ、という人もいるだろう。道徳的に生きることは素晴らしいことだ、不道徳な生き方は無価値だ、だから、不道徳な生き方をしている人がいたら、遠慮なく叱って、生き方を矯正してあげるべきだ、それが人間としての思いやり、というものだ。というようなことだとすると、いやはや、それこそまったく「道徳的」なご高説で、恐れ入るしかない。ほんとうに恐れ入る、というか一種の恐怖、戦慄さえ覚える。
もちろん、そういう意識がすべてではないだろうが、そうやって多くの人が、親から子へ、教師から生徒へ、上司から部下へ、という形で「道徳」を押し付けられてきている。しかも、そういう「道徳」の中身は説教側の勝手な思い込みで千差万別。あの人はああ言い、この人はこう言う。押し付けられる側にしてみれば、ただひたすら困惑し、混乱する一方。
もし道徳が生きる価値の問題だとして、自分の外部にある規範に形の上でだけ渋々従っているのなら、それは他人の目を気にした見かけだけの欺瞞であって、まったく道徳的と言えない(笑)。もしそれが価値の問題であるなら、他人からの強制ではなく、自己の内面から自発的に生じたものでなければ無意味のはずだ。自己の内面にないものを外部から押し付けられても、それは人格を歪める結果にしかつながらない。艱難辛苦の末にやっとの思いで道徳を身に着けたとして、果たしてそんな人が本当に価値のある生き方をしていると言えるのか。人格の奥底に何か深い闇や病根、ないしは道徳への恨みにも似た強い不信感を抱えることになってはいないか。道徳の強制は、かえって不道徳を生み出すだけではないか。
さらに言うなら、もし道徳がそのようなものなら、それは自分自身にだけ向けられた、自律的な規範であるはず。自分を律する目的で使われるのは良いが、決して他人に向けられてはならない。それはだってその人のためによかれと思って・・・、とかいうのはおためごかしの大ウソ。突き詰めれば、所詮は自分の自己満足でやってるだけ。それは、他人を何とか自分の意に添わせようという、反道徳的な行為でしかない。
まあ、そういう人も実は「道徳の被害者」で、本当は哀れな人かもしれないんだけど。
いったい道徳というものが本当に必要なのか?果たして本当に有益なものなのか?
社会的な見地で言えば、確かにそれは必要であり、不可欠だろう。ただし、その内容は、おそらく時と所により様々に変化し、非常に相対的である。完全無欠で絶対的な道徳というものはない。そういう意味では、道徳も法律もその意義に根本的な相違はない。人間は、法律に従うようにして、淡々と道徳にも従うだけのこと。法律を知るようにして、自然と道徳を覚えるだけのこと。また、悪法には従えないことがあるように、あるいは歴史的に法律が変転していくように、間違った道徳には従えないことがあり、時代や世の中が変われば道徳も変わっていく。
そういう意味で、過度に強制的にならない限り、道徳は一定の限度で有益だと言える。
他方、人間の精神にとって、誤解を恐れず言えば、道徳などまったく無用の長物。もし、それが本当に価値のあるものであって、個人の内面において完全に具現化された状態になっているのなら、もはや「道徳」などという言葉も概念も無用。逆に、それが他者から強制されなければ具現化できないものなら、人間の精神を不自然に歪める「諸悪の根源」にしかならない。
自分で自分を律する規範を持つ、というのも、行き過ぎてノイローゼにならないなら(笑)、あえてやめろとは言わない。だけど、それをいちいち金科玉条みたいに「道徳」などと呼ぶ必要はないだろう。自分自身の問題なのだから、正当化の口実なんていらない。まして、自分は自覚のある人間ですよ、みたいな自己アピールはまったく不要。つまり、この場合も硬直化した「道徳」なんて言葉は百害あって一利なし。
実際のところ、人間の問題というのは、ほとんどこの「外部から強制された道徳」から生じているような気がしてならない。「荘子」に有名な「混沌七竅に死す」という一節があるけど、まあ、そういう感じに近いかな。理念的・教条的な道徳観や正義感は、人間の本来の姿をかえって枉げてしまい、精神をおかしくしてしまう、ということ。すべての不道徳は、道徳から生まれている、と言い換えてもよい。
まあ、実際には、他人からというより、結果的に自分で自分を縛って、おかしくしてしまうんだけどねえ。
ちなみに、よく道徳がなければ野蛮な動物と一緒、などと言う人がいるけど、動物に口がきけたら、何馬鹿なこと言ってるんだ、愚かな人間なんかと一緒にするな、と言うだろうな(笑)。動物は、人間と違って「罪」など犯さない。動物よりも人間の方がはるかに野蛮(笑)。愚行や蛮行を犯すのは人間だけ。人間よりも動物の方がずっとまともだ。
社会的に有用という意味では決して道徳を否定はしない。だが、人間は精神的に道徳から解放されない限り、いつまでたっても動物より愚かな存在であり続けると思う。