「プロフェッショナル」という言葉は、誰かの仕事に対する賛辞として、あるいは、職業人のあるべき姿として用いられることが多い。

プロ意識のある人は尊敬されるべき素晴らしい人であって、そうでない「アマチュア」は修行や覚悟の足りない未熟者、というイメージが世間一般には定着しているように見える。

自分の周囲でも、何かと言うと、「我々は、プロとして・・・」とか、「もっとプロ意識を持って・・・」とか、このプロという言葉を持ち出して、説教じみた、ないしは、自負心に満ちたことをやたらと口にする人が結構いる。他人を非難するときも、あいつはプロ意識が希薄、とか云々。

 

自分は、この「プロフェッショナル」という言葉が、あまり好きになれない。

規範意識が強すぎて、語義にとても窮屈なものを感じる。

言葉の背後にある、権威主義的、精神主義的な価値観とか、視野の狭い過剰な自意識とか、そういうニュアンスもすごく気になる。

 

そもそも「プロフェッショナル」という言葉の原義は、profess、すなわち「公言する」という動詞が由来だから、西洋中世のキリスト教における信仰告白につながる精神性に基づいている。つまり、本来は、神に対して職業上の倫理を誓約した、聖職者、医師、弁護士などが、プロフェッショナルという言葉にふさわしい職業だった。原義からすれば、使命感に基づいて、自分の利益のためでなく、それこそ無償でも、世のため人のための仕事をする人のことを指す。

現代では、むしろ仕事で金を稼ぐ、という側面がクローズアップされている。神が死んで、価値体系の玉座に「金銭」がのし上がった現代では、金を稼ぐことこそが神聖であるべき行為で、そのためにプロ意識という倫理観が求められる、ということなのだろう。

それでも、まあ、少なくとも、仕事に対する真摯な姿勢とか、そのクオリティーに対するプライドのようなもの、そこには原義のニュアンスが残存しているように見受けられる。

日本では、「職人気質」という言葉に非常に近い語意があるように思う。

 

この言葉の窮屈さは、おそらくこの「職人」という意識から出てきているように思う。

職人は、仕事の品質を維持し、自分の技量を高めていくために、仕事の枠組み(スコープ)をきっちり限定しようとする。仕事の目的と基準を明確にしなければ、意識と作業をひとつのことに徹底して集中することができない。

自分に厳格な枠をはめることで、はじめて自分の使命が疑いのないものになる。

何でも良いのだが、例えば、家具職人を想像してみると、家具に求められるのは、主として、機能性、耐久性、そして装飾性。さらに言えば、納期と価格。己の力をふりしぼって、これらを極限まで追求すること、それが家具職人の目指すもの、ということになるのだろう。

だから、家具とはそもそも何か、人間と家具との関係はどうあるべきか、などという哲学的な問いは余計な詮索でしかない。伝承された技術とは無縁な、斬新で革新的な家具を生み出すとか、家具によって人間性に対する問題提起をする、などということは職人としての仕事の範疇から逸脱することになる。

限定された枠の中で最高のものを追求すること、そういう求道精神が職人気質、ひいてはプロフェッショナルの意味するところなのだ。

だから、「職人」と「芸術家」との間には、どうしても越え難い大きな壁がある。職人から芸術家へ飛躍する人もいるが、それは伝承された技術や仕事の枠から飛び出して、美や人間性の真実というものの価値や意味を自由に追い求めることができるようになってはじめて可能になるのだと思う。

 

他方で、プロフェッショナルの対義語として「アマチュア」という言葉が使われる。これは、もともと「愛好家」という意味だ。つまり、自分が「好きだから」それを追求する、という人のこと。趣味、と言ってしまうと、取り組みに真剣さが足りず、「仕事」のクオリティーも低いように誤解されるけど、決してそんなことはない。好き、という気持ちが純粋で、強い情熱に突き動かされているのであれば、アマだって、プロを凌ぐことは十分可能。目的や基準から自由な分だけ、偉大なアマチュアが、プロフェッショナルには真似できない、類まれな業績を上げることもある。

純粋さと自由、それがアマチュアの強みだ。しかし、それは諸刃の剣でもあり、自分の気持ちだけに引きずられて、無責任でいい加減な態度に終始してしまうおそれもある。

よく「やりがい」のために仕事をする、という人がいるが、これは、良い意味でも悪い意味でも「アマチュア」の態度だと思っている。

ただ、ひとつだけ言えるのは、アマチュアは、単なる「未熟な素人」というようなことではまったくない、ということだ。

 

アマチュアと比べれば、プロフェッショナルは、個人的な好き嫌いに左右されない分だけ、仕事に信頼感がある。オファーがあれば、自分の果たすべき役割と自分を必要とする他者からの求めに応じて、淡々と仕事をするだけ。プロは、仕事の選り好みをしない。極論すれば、自分の損得や利害打算も論外。大事なのは、仕事に「嫌い」がないだけでなく、「好き」もないという点。自分が好きだと思ったら、その気持ちを切り離さなければ、仕事に私情を持ち込むことになり、成果が私物化され、歪んでしまう。

そういう禁欲的な倫理性こそが、プロフェッショナルの真骨頂と言えるだろう。

 

しかし、プロフェッショナルという言葉には、暗黒面もある。それが謙虚なプライド、という次元にとどまっている分には、問題はないのだが、過剰な自負心から、虚栄心にまでいたってしまうこともある。一般世間では、自分、あるいは我々はプロなのだという、中身のない虚飾や自己アピールが目立つ。本当のプロは、自分で自分をプロなどと言わない。仕事の価値は仕事が語る。余計な修飾語はいらない。

挙句、そういうプロ意識を他人にも期待したり、強要したりするようになると、さらに始末が悪い。そうなると、もう単なる体育会系の封建的な根性論やモラル・ハラスメントと区別がつかなくなってしまう。

 

このようなプロフェッショナル、アマチュア、芸術家というような仕事のとらえ方は、最近の自分の興味や関心で言うと、「役者」という職業については果たしてどうなのだろう?

 

役者は、自分の役柄や作品に対して、好き嫌いで仕事へのスタンスを変えるべきではない。役柄に共感が持てるかどうかは、芝居とは関係ない。

共感が持てない場合だけでなく、共感を抱いている場合も同様。そういう自分の気持ちは、芝居と切り離さなければ、役が私情で歪み、正しく心を動かすことができない。仮に強い共感を持つような役だとしても、役への思い入れをもって芝居に臨む、というのは、決して望ましいスタンスとは言えない、と思う。

観客・視聴者の観点からしても、役者に役柄や作品への個人的な思い入れを期待するのは、お門違いというもの。役者は、アマチュアではない。

 

また、例えば、役の設定や言動が非人間的で、芝居のせいで観客・視聴者から嫌悪される対象となってしまったような場合、自分の演技がそれだけ評価されたと解釈して、光栄なことだとか、役者冥利につきる、などと思うとしたら、それもまた勘違いに思える。この手の考え方は、言わばプロ意識の暗黒面の現れ、過剰な自意識、遠回しの自己アピールでしかない。演技派と呼ばれるような役者や演技力とやらを密かに自負している役者には、こういう表向き殊勝な発言をする人が少なくないように思うけど、役者の本分という観点でははなはだ疑問。世間向けにプロ意識顕示のリップサービスなんて無用。

自分の思っていること、考えていることを、発言に対するリアクションへの計算抜きで、正直にストレートに表現すれば、それでいいのじゃないか。欧米の俳優とかには、比較的そういう人が多いと思うし、そのへんは大いに見習うべき。

さらに言えば、本当に優れた偉大な役者であれば、プロフェッショナルという、狭い枠にも収まらないはず。プロ意識なんて、そんな詰まらない観念には拘泥せず、常に、作品や役の意味を探求し、芝居の本当の価値とは何なのか、容易に答えの出ない問いを発することを止めず、未知の世界への旅を続けることができる人なのではないか。そういう役者は、今の時代、本当に希有になってしまっているように思う。

 

まあ、自分は役者の仕事とはまったく無縁の門外漢で、役者のあるべき姿について、あれこれ論評する資格なんて全然ないんだけど。素人なりの見方にしても、それでも当たらずとも遠からずじゃないのかな、と思ってる。逆に、役者や演出、脚本の経験がある当事者やテレビ・映画・舞台の関係者の方が、かえって見えなくなっている部分もおそらくあるだろう。

 

いずれにせよ、本当に良い仕事をするためには、言葉に囚われていてはダメ。

プロフェッショナルとか、アマチュアとか、芸術家とか、はたまた平凡な一介の労働者・サラリーマンであろうと、そういう言葉や観念、プライドや自意識はいったん捨てて、詰まらない世間一般の常識や先入観にも縛られることなく、白紙で、素手で、ときには捨て身で、真正面から自分の「仕事」に向き合うこと、それが最も大切なことだと思う。