久しぶりにすっきり晴れた朝。
これも久しぶりにきものを着てみる。やはり、帯結びも覚束ない。
家人が私の外国の友人の土産にフリーマーケットで買ったきてくれた、辛子色の絣模様の木綿の単衣。
結局、日本人でも難しいものをあげても負担になるだろう、と止めた。
好みの色柄ではなかったが、自分で着る他はない。
着て、畳んで、初めて気づいた。
手縫いである。
ごまかしのない、一針一針の縫い目を見ていると、ちょっと胸が詰まった。買った人から聞いた、ただ同然の価格を思い出した。新品なのに。何かがおかしい。
以来、扱い方が変わった。
絹ものや、外出着の意味ではない。捨てたり、しまい込まず、しっかり最後まで着よう。
暑くなってきたから、紐で締め付けたり、かっちりとは着ない。長襦袢は着ず、洋服の下着の上にさっと羽織る。
昔、きもの以外に選択肢がなかった時代の日本人のように、襟元もゆるく、裾も広く。
日本舞踊を習っていた祖母が残した、薄茶に紺の文様の博多半幅帯を締める。
布団を干し、昼御飯はどうしよう、と冷蔵庫を調べる。何かさっぱりしたものがいい。
今年初めての冷や汁を作ることにした。
友人の結婚式の引出物の鰹節で出汁をとり、胡瓜を塩でしめ、大根と葱、昨日庭で採った紫蘇(勝手に生えてくる)を刻む。おかひじきや、ちくわの輪切り、パプリカなど、あるものを使う。
メキシコの吹きガラスのボウルに野菜を入れ、出汁を注ぐ。胡麻を振る。
地元産の味噌を味見しながら少しずつ溶かして、氷をひとつ落として冷やす。
雑穀入りの御飯をレンジで温めて、混ぜる。刻み海苔をぱらり。赤いパプリカが映えて、目を奪われた。
冷や汁がきれい、とは。
しみじみと味わう。
家事をしたり、畳に座って昼飯を食べたり、絵を描いているうちに、きものを着ていることを忘れる。
少しやわらかくなった木綿きものは、肌にやさしい。裾からは裸足が勝手な方向に飛び出している。
きものは面倒くさい、動きにくい、暑い、汚れる、着ない理由はいくらでも挙げられるだろう。着たことがない人ほど、固く思い込んでいる。
私もかつてはそうだった。
しかし、それしかなかったら。
要は慣れなのだ。
慣れない洋服を外出や仕事に無理して着て、帰宅するなり、きものに着替えてくつろいだ人々は、「サザエさん」の波平父さんを見れば、そう遠くない時代だったのがわかる。
けれど、現代の私たちは洋服の合理性から、きものを遠くに追いやってしまった。
きものと一緒に、紺の紬地の袋に入った扇子が出てきた。柏のような緑の葉と、きりぎりすらしき虫が描かれた古いもの。
はたはた、と扇いでみる。我ながら、ぎこちない。
コロナ対策のマスクと熱中症対策か、例年以上にエアコンが売れている、というニュースを見た。しかも高機能のものが。
電化製品などなかった頃の人々は、この小さな、長い歴史を持つ優雅な道具を持ち歩き、自分や親しい人に風をつくり、送った。
デジタルの数値でしか涼しさを計らないとは、現代の味気なさに何か情けない気もする。
かき氷や西瓜など昔ながらの夏の風物も、少しは残っているが。
温暖化により毎年確実に起きる猛暑には全く降参、だけれど。
ゆっくりと扇ぐ仕草、風の中に、季節も色香も、言葉にならない思いも流れただろう。
ゆっくりと、またはせわしく動く扇子が時に止まり、また動き出す。
扇子を操る、華奢な、或いはふっくらした手の美しさにみとれた恋。子供の寝顔を見つめて扇ぐ、母や父のまなざし。彼らに、きものはなんと似合っただろう。
過ぎ去った、失われた日本のきものと風。
夏本番の前、少しでも着てみよう。夏祭りの浴衣ではなく、日常のきものとして。
梅雨の谷間。
ベランダから部屋に入る爽やかな風が、あいた襟元や袂、裾の隙間を通っていく。
もし風が止まったら、扇子でつくろう。
自分の欲しい風を。
その作り方を忘れないように。
気取るのではなく、あくまで自然に。
精密な機械、AIに作ってもらう風と違って、電気代は一切かからない。
(使用画材:顔彩、筆ペン、ファブリアーノSCHIZZI)
