昨秋十一月、完全に種蒔きには遅いヴィオラ(パンジーより小さな花をより多くつける西洋すみれ)の種を、冷蔵庫の隅に見つけて、思わず手で額を覆った。
春先に園芸店の秋蒔種子の売れ残りを安く買ったのを、忘れるまいと言い聞かせたはずなのに案の定だ。
その前年も、おそらく二年前も、私はいつも九月に蒔くべきタイミングを逃す。最大の原因は九月にも盛夏かと思うような近年の酷暑である。今蒔いても、発芽には暑すぎるだろう、と涼しくなるのを待っていて、気づけば秋は深まり冬すら近い。
それでも更に一年伸ばすわけにはいかない。安く買った種は既に一年老いているのだ。だめ元で蒔いてみる。
私のやり方を説明すると長くなるが、私が見られるすみれの一生なのでお許し願いたい。

空の卵パックをいくつか用意し、底に鋏で水抜き穴をあける。園芸用土を卵パックの穴にこぼさないよう適量入れるのはこつがいる。不安定な形をした卵を入れる型はなかなか複雑だ。
種子袋をあけ、さらに小さなアルミのパックに入った胡麻粒みたいなヴィオラの種を落とさないように一粒一粒つまみ、穴の土の上に一、二粒、適度な間隔をあけて落とし、薄く土を被せる。厚すぎても薄すぎてもいけない。普通の園芸用じょうろの蓮口は、卵パックには大きすぎるのでやかんを使うこともある。種が水で押し流されてどこかにいかないように優しく注意深く適度に湿らせる。この土のベッドで、種はたっぷり水を飲み、暖かい光を浴びないと芽を出さない。人間もそうだが、種が｢気持ちよく｣ないとだめなのだ。
卵パックをベランダの床にむき出しで置くのはあまりにも心もとない。これもスーパーからもらってきたトマトか何かの小さな浅い段ボールをビニールで丁寧に包んで、卵パックをいくつか置くと、やっとほっとする。
ここから一週間から十日間が勝負だ。朝夕、決して水を切らしてはならない。
ついに茶色の皮を頭にのせて、極細のもやしのような茎が立ち上がっているのを発見したら、心の中で手を叩く。残りの茶帽子が続く。卵パックの穴全部に入居者が入ると、第一章は成功だ。
第二章では、それらが緑の双葉に変化する。このあまりにも小さい胡麻粒のようなものの中に、花はもちろん緑の色素が秘められている不思議は全然理解できない。やがて丸みを帯びた、或いは鋭角の葉を次々展開する。
育つ、それはつまり身体が大きくなる、場所が狭くなるということ。葉と葉が触れ合い、苗同士が窮屈そうになり、少し大きいものは小さいものを圧して光を浴びる。ますます差が開く。この頃、私が面倒で先伸ばししがちな作業が発生する。植え替えである。園芸では｢間引き｣と言う作業が推奨されるが、私にはそれが出来ない。(この言葉が人類にも使用されていた時代があったと想像すらしたくないが、それをする昔の恐ろしい絵を見たことがある)
すべてを救い、特に小さな芽ほど何とか育て上げたい。今度は苺パックなど平らな容器を追加して、すべてを指や割り箸などを使って、なるべく根を傷めないよう気をつけて、ほぐし植え替える。一番寒い二月初旬頃で、かじかむ手で細かい難しい作業をするのは苦しい。苗の衝撃も大きく、また水や光や温度に気をつけて、しっかり根付くか慎重に管理する。
何週間かの後、知らぬ間に驚くほど葉が増え、重なっている。身体が成熟してきたのだ。

或る日、根元の奥深く、うつむいた恥じらうように曲がった首の先に、何かを抱えている－蕾を発見する。そこから数日間は、毎日待っている。今日か？明日か？
色が微かに見え始める―その苗が｢何者｣かがわかるときだ。
黄色だったのか。ああ、こんな紫か。開けば開くほど、さらに複雑な色が現れる。

完全開花の朝。
それは｢記念日｣であり、｢花｣が｢奇跡｣と同義語になる。
その一輪は、園芸店や街や公園にあふれている、誰もが知っている、見慣れた、いや見飽きた｢ヴィオラ｣ではなく、たった今生まれた、たった一つの貴い花である。
指の爪より小さな双葉が蕾を宿すまでの冬は長い。すでに四箇月を生きてきた。それは育てる人間にとっても長く、辛抱のいる日々だ。日本国内の温暖な地域においても、毎朝毎晩、夜気から守り、貴重な日光を当てるため、ビニールの覆いを取ったり外したり、水やり、これらは一日も欠かせない。
胎児が美しい子供に育ち、やがて娘に花開くのを見ている親の眼差しのようなものかもしれない。ミス何々には程遠い容姿、抜きん出た頭脳や能力がなくとも、自ら生んで育てて、乳を栄養を与え、日々を見つめ、手をかけてきた我が子が成人する日、その姿は世界で一番美しく、光輝いて見えるだろう。

今日、私の小さな殺風景なベランダに、空き箱の中の卵パックの穴に、花冠を被って立ち上がっている｢ヴィオラ姫｣たちの誇りや喜び。その一輪の価値を、今だからこそ完全に味わえるのだ。
プロの生産者が育てた非の打ち所ない立派な苗、花をつけた苗を買って植え付けるのは簡単なことだ。(この栽培の行程で、プロの仕事、技能に何度賛嘆したかは言うまでもない。販売価格は、その技術や苦労に不当なほどに反している)
それらを買えば、もっと早く、秋から春一杯、庭や街を明るく飾って楽しめる。それはそれで必要なものだ。
けれど私は種から花を育てるという、この｢面倒くさい｣ことを出来るかぎり、続けていきたい。
そこには、種子と共に育つ、という感覚がある。

卵パックの十個の穴の中に一つだけ苗がない、土だけの穴がある。更によく見れば、表面にしなびて枯れた残骸。ミイラのような。
数週間前、春かと思うような陽気に強風、一日外出して、もしやと見たら、土はからからに乾き、苗はみな自らの中の水分まで使い尽くし、萎れていた。私の読みが甘かったのだ。
慌てて水をやり、しばらく待つと、不思議に次々立ち上がってくる植物の強さ。
しかし、その内の一本の苗の葉はまるで凍傷にあった手足みたいに戻らなかった。根元、中心部の葉には、回復しようという強い意志が感じられた。私はその一本が生き延びることを、強く願い、殊に注視していた。
遅れたっていいんだよ、咲けば、と、まるで自分自身に言い聞かせるように、心の中で声をかけていた。
しかし―
苗は少しずつ、静かに衰え、ついに息絶えた。

あの暑い日が来るまでは、むしろ一番成長株で、株元に小さな蕾が抱えていたことは一層悲しみや罪悪感を残した。
隣の苗が回復し、どんどん成長するのを、病んだヴィオラはどんな気持ちで見ていただろう。元気な苗たちも、つい昨日まで自分たちと同じように咲く日を夢みて一緒に育ってきた、自信に満ち、咲くことを疑わなかった仲間が、志半ばに死んでいくのをどんな風に見ていただろう。
感傷的な人間と馬鹿にされても、私には彼らの会話すら聴こえる気がする。土の中で微睡んでいた種の頃から、双葉へ、そして小さくともヴィオラの確かな肉体を持って咲こうとする、その日々の中のおしゃべり、笑い声、涙、苦悶の叫びすら。
彼らの視野では認識できない人間の私は｢巨大な手｣であり、種の彼らを大地に蒔き、雨を、命の水をもたらす天であり、また突然｢大地震｣が起こり、根こそぎ抜かれて、未知の場所に連れていかれる。生も死もその手にある｢神｣。

だがその｢大きな手｣、神が、自分たちと同じ、明日をも知れない儚い命であり、自分たち花に我が身を重ねて、勇気や喜び、インスピレーションをもらっているとは想像すらできない。
私は小さなヴィオラの眼で天を見上げて、その先にある｢大きな手｣を想像してみる。

芽を出すこともなかった種、出ても冬の寒気や冷たい風に生き残れなかった小さな芽、蕾まで持ちながら、あと一歩で咲けなかった苗もまた、私には忘れられない命である。
花一輪を咲かせるまでに、どれだけの苦難を乗り越えなくてはならないか、咲くということがどれほどの奇跡か。そして、すべては一粒の種から始まり、咲かせたいと夢見、咲くと信じて、蒔くこと、日々を生きることによって必ず咲くのだと。
私は毎年、それを確かめるために、花から教えてもらうために、種から育てているのだと気づいた。

種から咲かせたヴィオラは、山野に森に咲く野生のすみれの血を感じさせる。人間の都合の為に早くから咲いたりはせず、またどんなに身体が小さくとも春が来れば咲くことを止められない。
それは鳥の歌と同じく、今、春が来たことを確かに告げているのだ。

｢もう卵パックから出る準備は出来たわ｣と、色とりどりの花冠の姫たちは、不器用な親、不完全な神の私を見上げて、主張している。

青空に白雲浮かぶ、完全な春の日、彼女たちを最終の大地に植え付けよう。

最終章である。
ひとりひとりが思いきり、世界にひとつきりのドレスを広げて歌い踊るのだ。
すみれは小さなその身体には、とても大きな花を咲かせる。その顔を見つめたら、聴こえるはずだ。

私を見て。

見ていよう。
どんな場所でも、その強さ、明るさを咲かせて、春の終わりにその人生を終えるまで。

拙いけれども、彼女たちの｢肖像画｣を添える。

（使用画材：水彩、エルバンインク"Lie de The"、ガラスペン、モンバルキャンソン紙）

すみれ考 1

すみれ考　1