ここ何週間か休日は子供の練習事がないので、朝は二度寝したりして寝室でダラダラしていたら『寂しい』という感情が
時計も見ずにそのままリビングに行き、ふと炊飯器見たら彼のバースデーナンバーだった。やはりそういう事ね
朝、パソコンでお仕事メールをチェックしていたら、共同でプロジェクトをやっていた方からボス宛にメールが入っていた。
ボスは、古き良き慣習にとらわれずに同じ志がいれば積極的に全国的にやっていく
今日は、【枠】と言う言葉が浮かんだからそれについて自分が思った事を書いてみる。
【枠】とは物事の範囲を決める為に設ける仕切りと辞書には書いてある。
人って範囲が決めてあるとここの範疇にいるから安心という安心感をついつい求めてしまう。
だから、「皆がやってるから」「他の家庭はそうだから」と言葉にも出してしまう。
例えば、私が小さな頃は【発達障害】と言う言葉はまだ無かった。クラスに何人かいてもその頃は「あーやんちゃな子ね」とか「勉強が嫌で集中出来なくて、落ち着きが無いんだ」って私は子供心に感じていた。
だけど今は違う。
【発達障害】と言う言葉が知られ、我が子が幼稚園時代には、『もしかして、我が子は椅子にジッと座ってられないから発達障害かも』(←モンテッソーリ教育だったから尚更。)と悩んでるママ達を多く見かけた。
そして、【発達障害】と言う枠に我が子を当てはめる事によって、自分達を納得している・安心しているママ達もいた。
しかし、その子達の多くが結局年齢があがるにつれ落ち着いてきたし、ただ単に好奇心旺盛で与えられたお仕事に興味が無かっただけ
確かにその言葉のおかげで納得感は得られたのも事実だから、それはそれで良し
一方でその枠があるから、当てはめてみて少しでも当てはまると悩んだり・悩んでるいる人がいる様になったのも事実。
今は科学も進歩して分かってくるにつれ、皆の知識の枠も増え情報化社会の世の中。
枠に囚われ過ぎて、自分で自分の首を
締め付けてないかなぁとたまには省みなくちゃね
見えない枠に囚われているのは自分自身。違和感があるなら枠から出てみる許可をするのも自分自身