「めっまぐるし。ひいふう……四十字掛ける四十行? 千六百文字の間に何回視点を換えてるんだよ」
訊き慣れない声が頭上でする。
朱音はいつの間にか閉じてしまっていたまぶたを、うっすらと開けた。
寝ぼけているのか、煌々と眩しいはずの蛍光灯がけぶってみえる。
「これ、ヒロイン視点だよな? なんでヒーローの心象まで入ってるんだよ、ヒロインにはわからないはずだろ。……あれ、変だな。スクロールが効かない。おい、寝っ転がってないで次を読ませろ」
闖入者の存在に意識が覚醒する。朱音はかっと眼を見開いた。
男の下半身が自分の顔の上にある。おまけに全裸。
なぜ、一目で見てとれたのか。
女性にはついてないものが朱音の目の前にぶら下がっており、可能な限り他の部位に眼をはしらせても衣服らしきものが見当たらないからだ。
男性に縁がないとはいえ、女性の一人暮らしでしかも一階の部屋である。
万が一を考え、受付用小窓の鍵はしっかり締めているし、建付けの悪い玄関のドアは勝手に開いてしまうので施錠は必須。にもかかわらず、入り込んで来たこの人物は、筋金入りの変質者に違いない。
はっと、朱音は慌てて耳に手をやった。つけたままである。
音があると集中できないので、彼女のヘッドホンは音楽を聴くためではなく、消音目的なのだが。
――なんで、この人の声は聞こえるの?
同時に朱音は、蛍光灯がけぶっていた原因が理解できてしまって、ぞっとした。
眼が霞んでいるせいではなく、己に被さっている人物の身体を通して蛍光灯が透けて見えているからである!
「ぎゃあああああっ」
朱音は色っぽさの欠片もない声で叫ぶと飛び起きた。恐ろしいことに、ヘッドバット必至であったはずの彼女の頭部は、幽霊を通過してしまう。
勢いとまらずパソコンの画面に激突しそうになった朱音は、なんとか急ブレーキが間に合った。
くるりと後ろを向くと、ばっちり目が合ってしまう。
「うわ、なんだよ。びっくりするだろうが! ……あんた、誰。なんで俺の部屋にいるの」
幽霊にきっぱりと言い切られ、朱音はぼそぼそと反論してみた。
「いえ、わたしの部屋なんですけど……」
「は? なに言ってんの? 俺、このマンションができてからずっと住んでるんだけど」
じいいい。
そんな音が聞こえてしまいそうなほど、朱音と幽霊は見つめ合ってしまっている。相手が半透明であることが、たまらなく不気味だ。
ずっと見つめあうのも妙な気がして眼を下に落とせば、いやでも下半身が眼に入る、はずが。
「あ、あ、足もないいいいーっ」
朱音はもう一度叫んだ。
先ほどは確かに太もものあたりまで存在していたのに、今度は臍から下が消滅している。まるで上半身だけ空中に出現したような姿になっている。
「え。なに。足がない、て誰の。……俺ぇえええええ?」
幽霊は、朱音の絶叫につられて自分の下半身に目を落とし、たまぎるような悲鳴を発し。
気を失った。
朱音は、失神しながらも器用に床上六十センチほどに浮いている人体というか、霊体を恐る恐る覗き込んだ。
どういう現象なのか不明だが、今は膝先まで現れている。幽霊の足はしどけなく開かれていて、男性の秘部がばっちり見えた。今後、見るチャンスはないような気がするので、朱音は目を手で覆いつつも指の間から観察させてもらう。
それにしても。
「……幽霊でも気を失うの?」
目の前の人物というか霊体は泡を吹いて苦悶の表情を浮かべている。まるで断末魔そのものである。
「そのまま、お化け屋敷でバイトできそう」
勿論、朱音とて怖い。だからといって、ここで一緒に気絶しても不毛な気がして、朱音は幽霊を起こすことにした。
しかし、肩を揺すろうにも通過してしまう。水をかけたら、単に畳を濡らすだけだろう。
どうしたものかと、朱音は思案した。
「そうだ。初詣に行ったとき、お酒をもらったんだった」
料理酒に使おうと思って取っておいたのだ。
ふよふよと浮かんでいる身体を避けるように、玄関脇のミニキッチンに移動する。
幽霊の顔の前で、せーの!と酒を振りかけようとして、踏みとどまった。
「お神酒だから、たぶん浄化されちゃうよね?」
違う宗教の信徒であった場合、日本の神前に捧げられた酒が有効なのかはおいておく。
「……それよりも」
いつでも殺れる――。
吸血鬼に対しての銀の十字架を手にしたときのような、絶対的安心感を手に入れた朱音に、余裕が生まれた。
「『俺の部屋』とか言ってたけど、この部屋に住んでいたってこと? ……あ」
数年前にこの部屋を借りたときの、不動産屋の老婆のウインクを思い出した。
以前住んでいた部屋は、次の派遣先が決定しないうちに更新時期になってしまい、解約せざるを得なかった。
荷物を持ったまま途方にくれて駅前の小さな不動産会社に飛び込めば、老婆一人が座っていた。
彼女は朱音の窮状に同情してくれて、そっと耳打ちしてくれたのだ。
『事故物件だから安く貸してあげるわ、でも内緒にしておいてね』と。
霊感はないし、問題ないと賃貸契約に踏み切ったのである。
「……て、ことは。不動産屋のお婆ちゃんが言ってたのは、この人のことだったのかぁ。最初こそ『出たらどうしよう』って怯えてたけど、出ないもんだから忘れちゃってたな。いやあ、失敗失敗」
朱音は頭をぽりぽりと掻いたあと、気絶している幽霊にきちんと頭をさげた。
「どうも! はじめまして」