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Connecting the dots(ハルナユウキのブログ )

独学ジャズピアニスト
livebarオーナー・空想画絵描き・津軽三味線・ドラムetc
ハルナユウキのブログ。




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今から三十数年前の自由ヶ丘。
とある喫茶店。
まだ新しい、いまでいうおしゃれなカフェ風の店。
そこにはファッションに敏感な若者が集まっていた。

どういう経緯ではいりこんだのか、
ゲタをはいた田舎モノ風の男が仲間とお店にきていて、傍からみれば
場違いに見えるものの居心地がよいらしく常連となっていた。

音を出したり唄ったりしても許されるらしく、
ゲタの男はギターを抱え仲間と
ガヤガヤ音をだしたり唄ったりしていた。

別の常連グループ、その店らしく最先端の格好をする女子たち。
まったく接点のないと思われる二グループ。
世の中常にそうだが、たとえ場所が近くても「層」や「趣向」が違えば
接することはそうはないものだ。
近くに居ながら接することなくすれちがっていたはずの二グループ。

あるとき、なぜかそのうちのリーダーっぽい女性がゲタの男のグループ、
というか、ゲタの男本人に向かってこういった。

「ちょっとアンタ、Beatles弾けないの?」

ゲタの男は怪訝そうに顔をあげ、
「そんなもん弾けねぇよ」
といった。

その時それ以降二人の会話が
多少あったかどうかは定かではない。
ただ二人は
何度か顔を合わせるたびに
少しずつ会話をかわすようになって
いった。

東京生まれ東京育ち 
立会川の洋服屋の娘で誰よりも早く
誰もしていない格好をしてしまう
ファッションにうるさい小娘と、
かたや、銀座だろうがゲタで歩いてしまう、
田舎から上京してきた喧嘩と酒が
大好きな硬派な男。

小娘は 周りにやまほどいる
プレイボーイとは全く違うこのゲタの男に
深く興味をいだくようになる。

ゲタの男も、とにかく
生意気で自分と価値観の全く違うと思われる
この小娘のことが日に日に気になるようになる。

当初の周りの予想、
それより本人達の予想にも反してか、
この二人は
付き合うようになる。

お互いが全く違う世界をもっていて、
それぞれにとって新鮮だった。

決して富豪の娘と貧乏人という
組み合わせではないものの、
映画「タイタニック」
でローズがジャックにつばを
吐くコツを教わっている
ような情景ににたものが
あったのではないか。


二人が出あって数年 
幾多の壁を越えつつ
二人は結婚することになる。


結婚してしばらくして子供を一人授かり
なれない環境の中
必死に子育てをする。

ずっと東京しかしらない彼女にとって、
とついだ先はあまりにも田舎で、
カルチャーショックも多々有り、 なによりも周りから特異な目で見られた。

夫は日々多忙で帰りは遅い。

交通、買い物、すべてにおいて不便極まりない。

虫にさされれば病院にいくほど
腫れあがってしまう。

夫の仕事も順風ではなかった。
親戚からうけた話はふたをあければ
全く違っていた。
事務所の屋根裏で寝泊りすることもあった。

お金も無く、二人とも苦労はおおかったが、
二人はお互い強い愛情、
固い絆で支え合って、
幸せな家庭を築き上げた。

オフの日は必ずといっていいほど
3人で出かけ、
地味で平凡ながらも
愛に満ち溢れた家庭だった。


二人も子供も大病することもなく、
幸せな日々が続いた。 

夫は小さい会社ながらも
誰よりも必死に働き続け、
周りの大企業に勤めた
人間以上に稼ぐ立派な仕事人になっていた。


もともと短気でせっかちな
小娘である母親は
どうも自分の性格に
似てしまったらしい
息子といつもいつも喧嘩をしていたが、
いざその息子が大学にいくため家を出たあと、
無性にむなしさをおぼえた。


母親は自分にいいきかせ徐々に
二人だけの生活を楽しむことができるように
なった。 

経済的にだいぶ余裕ができたため、
二人は色々な場所に旅行にでかけた。
別荘を買ってボートを買って、
オフの日はいつも二人で楽しい日々を
すごした。

子育てに段落をつけ、恋人同士のように、
お互い国内や海外、
いろんな場所にいっていろんな想い出をつくった。


息子が就職の関係で東京から近くに戻ってくると 3人集まることも
多くなり、なに不自由ない日々が続いた。






とりまく風景すべてが  
キラキラと 輝いていた・・・・・・








・・・・・・



そして そんなパステルの上に突然悪魔が降り立った。

「余命は1ヶ月、もしくは2、3週間です」

夫が聞いた 医者からの冷酷な言葉。




頭のなかでガラスが激しく
割れるような衝撃であったに違いない。








誰よりも前向きで 誰よりも力強い精神の持ち主は、
他のどんな男より強く妻を愛し、家族を守ってきた。
だれもできやしない仕事も幾多と無くやり遂げた。

信念があればすべては解決される。

その信念のもといままでやってきたのだから。






ただ、その医者の言葉は、
今までのどんな苦労、どんな敵より
はるかに強大だった。


いままで巨大な壁が
男の前に立ちはだかればすぐに、

「やるか!?やってやろうじゃないか。」


と言葉して すべてに打ち勝ってきた、
誰よりも強いはずの男だったが、
今回、
その貧弱に見える白衣の男の言葉に対し、
その強気な言葉が
すぐにだせなかった。





「ガラスが割れる衝撃」というより、
鈍器で殴られぼーっと
したような感覚だったのかもしれない。

医者の言葉をうけるその日、
息子は何度と無く父親の携帯に
電話をならしていたがでず、
その日の夜やっとつながった。


父親「母さん 検査でアゴがはずれてなぁ」


息子「そんなことじゃないだろ!!!
  それで!?? それでどうなんだ!!!???だから、、、」


息子は 父親のしゃべり方に 
いままでに無いものを感じていた。
ヘンに自分を落ち着かせて
わざとらしく冷静になって話している
ように思えた。


普段、何百人前にしても堂々と話せる男がみせる、動揺を隠すようなその口調。

息子は その先に続くであろう言葉を予想するだけで 頭の血が凍るような思いをおぼえた。


案の定、そうだった。
父親の言葉をきいたあと息子は 
数時間 体が痛くなるほど泣き続けた。


その夜、母親は病院に寝たままとなり、
父親と息子で涙しながら酒を飲んだ。
ただ、終わったわけじゃない。
こっちが死ぬ気で 回復させてやろう!
無理とわかりながらも せめて 
せめて力を合わせ、
未知なる恐怖に対抗していこう 
とちかいあった夜だった。

翌日、父親は母親を迎えに病院にいった。

「どうやって妻に病気のことを伝えるべきか。」


病院の駐車場にたどりつくと、
なんと、彼女は病院の入り口にたって、
泣きそうな顔をしながら 
夫がくるのを待っているかの様子だった。

「何時に着くから」
と伝えていないにもかかわらず外で待っていた。
1時間も2時間も待っていたのかもしれない。




そして目が合った。


一心同体のはずの2人が 
切り裂かれることをお互い通告された。

お互いが 出あって初めて、
自分達は離れ離れになる と思いながら
顔を見合った瞬間だった。


夫は車から降り急いで彼女にかけより、
病院の入り口の前で、
お互いに名前を叫びあってしばらく抱きしめあった。

(一連で最も鮮烈に脳裏に焼きついている場面だという)



彼女は彼女で 夫が帰ったあと、麻酔がとけ、
医者をせめたてて自分の病気のこと、余命のことをすべて
聞いてしまったのだった。
(本来ありえん話のハズだが)


彼女は彼女で夫に 
「ごめんね。もう生きられないの」
ということを言ったはずだ。

ただ、勘の鋭い彼女のこと、
昨日麻酔中にもう夫はそれを聞いている
 と推測したかもしれない。


夫は彼女を抱きしめながら「家に帰ろう」とだけ言った。
すると彼女は子供のように「うん」とうなずいた。


息子は家で両親の帰りをただただ待った。
音楽が好きなはずなのに、音楽をかけることができなかった。
待つ時間は、ひたすら長く感じ取れた。


心の中にひとつだけ決めていたこと。

母親と 初めて 死別がすぐそこにあることを前提に顔を会わせる
その瞬間だけは涙をながすまい ということ。

なぜなら 今後の闘病生活に関し、本人がもっとも不安だというのに、
こっちが泣きじゃくっていたら どれだけ不安にさせるか と思うからだ。

車が着いた。息子はすぐ家のドアを開けた。

いままで 兄弟のように喧嘩したり、
ときに親友のように酒を飲み交わしたり、
そんな母親と息子が 
いままでにない状況で対面する。
その瞬間がどうなるのか想像すらつかない。

息子は歯をくいしばって 
父親の車からおりる母親を見つめた。
母親は息子を見るなり思い切り泣いた。

息子は 生まれてはじめて母親を抱きしめた。
言葉にならない声で「アンタにはどういっていいやら、、、ゴメンね」
という母親に、「大丈夫だから」としか言えなかった。

なにが大丈夫なのか。
痛くない のか、 
いい医者でも探すというのか、おれはおれで
アンタが逝ったあとも頑張るから
大丈夫だというのか、
息子自身わからなかった。

ただ、涙をこらえることだけはできた。
必死に目をつぶって上を見ながら。。






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その48日後の

2000年8月14日午前

雲ひとつ無い晴天の中 彼女は天に向かった。

医者の宣告より多少長かったが、やはり早かった。


ただ、この48日間ずっと自宅で父親と自分とが看病し
本人痛みを味わうことはほとんどなかったはずだ。

抗がん剤を本人が一切拒否したため、延命はできなかったかもしれないが、
よくある「壮絶な闘病生活」とは程遠いものだった。
それは遺族にとって救いである。
(ホスピスの権威の先生は よく家でみとりましたね。と
いってくれた。)


息子である自分は いままで仕事に費やしたことのないエネルギーを
すべて振り絞った。すべての人脈をたどって、名医にみてもらったり、
ホスピスの権威とよばれる人にも診てもらった。
滅多に褒めたことのない母親だったが、そのあたりの自分の働き具合を
みては アンタのおかげでどれだけ助かったか、と感謝してくれた。


今まで少しのお金すらくれたことのない母親が寝ながら
たしか20万ほど手渡ししてくれた。
「金なんかいいから」というが、
「ほんとは 私だってむかしからこうしてやりいのよ」
ミニカーを買うことすら滅多に許してくれなかった母親が
涙ながらに言った。
甘やかしてダメにしたくない という本当の愛情なのだ。
自分は泣きながらお金を握り締めた。
お金は忘れても言葉は一生記憶に残る。


なんにも親孝行できなかった自分だが 
このときの感謝してくれる
言葉は少なからず救いになっている。

もちろん寿命をのばしてやれたわけではない。
ただ、多少は安堵を与えてやれたかと思う。


48日間、そのうち最後の口が聞けなくなる数日を除いた日数、
母親といろんな話ができた。


いままで照れくさくて渡したことの無い誕生日プレゼント、
7月9日に渡したプレゼントは、ワイングラスとワインだ(^^;)
イラストつきの手紙をそえて。

幼稚園以来ではないか。 
母親に手紙など書いたのは。
(後々、母親は父親や極親しい親戚にアイツがこんなん書いてくれた!
と喜んでいた という話を親戚から聞いて泣けるほど嬉しかった。)




お酒とタバコの大好きな人で、
死ぬ4日くらい前までワインを
飲んでいた。タバコもそれくらい。

とめても、
「これは薬よ!」
といって絶対にやめない。

母親は、
弱い人 優しい人にはとことん優しく、偉そうなヤツは大嫌い。
スパっとした性格で、ケチくささの欠片もない生粋の江戸っ子気質。
決して八方美人ではないが 周りに気遣いばかりするタイプで、
シャイな部分を多分にもつ。そんなタイプの人だった。


なくなる約一週間前 
8月6日に近くで花火大会があった。

車椅子にのせて母親の後で湖にあがる花火をじっと見た。
花火が大好きな母親だった。
ワイワイと見る周りの人のなか、花火の光で一瞬照らされる母親の
真剣な横顔をくっきりおぼえている。

さすがに体調も悪く、
「花火なんかみたくない」と言っていたが むりして連れて行って
終わると、
「みれてよかったわ」
と言ってくれて 心から嬉しかった。

あのときの母親の横顔は「今生最後の花火」をかみしめていた表情だった。

魔の手はすぐそこまで迫っていること、
母親も自分もすでに悟っていた。





母親が亡くなった8月14日の夜、
一人浜名湖へふらふら歩いていった。

この世のものと思えない 
まん丸の満月が この景色のどこに月をおくか
といわれればココ!と言えるほど素晴らしい位置に 煌々と光っていた。

あの日のような満月はいまだ見たことが無い。

「私が死んだら 私の星をつくってね(星に名づけて)」

と親父にいっていたらしいが、

間違いなく 母親の星は 月だ。


あのとき
 あの美しい月が見れて本当によかった。

家にかえって親父をおこし 
二人で湖畔にでて 
しばらく月をながめた。


そして家にかえり、
この世に母親の肉体が存在する最後の日、 
母親によりそって寝た。


翌日も雲ひとつない快晴の日。
無数の蝉が命を燃やすように鳴いていた。


母親は 
みずから植えたたくさんの花のある庭を通り、
乗りなれない車に乗って天国への道のりをいった。



48日間の戦争はおわったが、
翌日も相変わらず空は青く、蝉は鳴いていた。


数年の間、父親と励ましあい
まさに心を忘れつつ二人過ごしていた
気がする。

記憶としては、つい 
母親の病気発覚の前にもどってしまい、
「あれ、なんであの人いないんだろ」
と幾度となく思えてしまう。

性格でネチネチした部分はみじんもなく、
つねに竹を割ったような
スパっとした人でせっかち。
その通りに、
あっというまに天国へいってしまった。

「ばあさんになんかなりたくねえよ。」
と口癖のように言っていたが、
ほんとその言葉のとおり、
きれいな顔をしたまま 
すーっといってしまった。



「死んだら自然にもどるのよ」


痛くなることだけは怖がりながらも、
死への恐怖や、
生への執着といったものは
微塵も感じさせなかった。



気が強いふりして
臆病者かと思っていたが、
いさぎよさ の塊で
じつに男前だった。





父親はいまだによくいう、

「好きな人はなくなってしまったけど、好きな人がいるってこと、
好きな人はアイツだ と言えること それはすごく幸せなことだ。」

と。
8年経ついまも、
父親は母親のことを褒めてのろけ話をする。
「お前にしかこの話はできない」
とのことで、いつもは
「うるさい!何度目だそのはなし!」と
さえぎるものの母親の話だけは
ほぼすべて聞いている。



父親にとっては、

あの 
自由ヶ丘の喫茶店での出会いから 
別れるまでが
きらめく流れ星のような
キラキラした素晴らしい想い出 なんだろう。

一人の人間と出会い、 
その人間が自分だけを頼りにして
人生を捧げてくれた。
ある種 娘のようでもある存在。

別れがたしょう早かったわけだが
その素晴らしい出会い自体は 
父親の人生にとって宝物 なのだろう。

当然haru♭にとっても、
その出会いが宝物、というか
自分の存在そのものなのだ。

「Beatles弾けないの」の一言が 
なかったらこの世に存在しない
かもしれないわけだ(^^;)

(haru♭がBeatles狂なのは当然なのかな(^^;))



2006年のゴールデンウイークに 
そのお店を探るツアーを親子で
いってきた。

そして見つけたのだった!!!

もう外観はずいぶん変わって
しまったようだが、たしかに
この場所らしい。

その地下のお店、
今はパスタ屋さんになっていた。
店の人は変わっているらしかったが、
昔のことを知っていた。


親父は子供のように、
「ここのじゅうたんが青くて、ここのイスがこうなって・・
アイツはあの辺に座っておれに話しかけてきたんだ!」

と目を輝かせて息子に説明した。

毎回タイタニックのたとえ話でなんだが、
「まさしくあの映画の、船が甦るシーンそのもの、
まだ10代の二人がここに再現されるみたいに甦ってくるよ」
と言っていて、こちらも鳥肌がたった。











今日で8年。
今日も例年のごとく二人 お墓参りをしてきた。




父親はいまだ愛していることを告げているだろう。

そしてharu♭は その証人として、
「いまだこの人はあんたにゾッコンだよ。」
と 毎年のごとく伝えている。
親父を尊敬する所はたくさんあるが、
これこそ最も親父をすごいと思う部分なんだ。

「それほど私がいい女ってことよ!」と返ってきそうだが(笑)

続いて
「アンタはまだ一人でまったく、この人に迷惑ばっかかけてんじゃないわよ!!」
と怒鳴り声が聞こえてきそうだ(笑)</b>

迷惑はかけてないぞ!ビジネスでは強力にサポートしてるぞ!
ま、色々心配はかけてるだろうケド・・・(- -;)


ごまかすように 上を向いた。

(行事はかならず快晴 という超晴れ女の母親、毎年この日は快晴だ。)

そして

父親と息子と健康でいれて 
笑顔でやっている今を報告し、感謝し、
今後も二人健康でいられることをお願いした。

とりあえず父親と自分の体に 
血の通う間はこの世で燃焼しきる。

そして、いつかまたアンタと、
酒飲みながら 毒づいた話題で
盛り上がれる日がくると思うのでよろしく。



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8/14は母親の命日
このブログは2008年に
書いたものです。

書いてるうちに没頭し
物語風になりました。
書き殴ったままなので
主語とか色々めちゃくちゃ
ですが、感情のままに
書きました。


母の死は僕の人生最大の

重大事件であり

その後はなんだか頂いた人生

だと思って生きてる部分もあります。


昔のブログで消えてしまって

いたので再度ここに

記録しておきます。


歳をとるにつれて、

だんだんとまた家族段落出来る

日が近いてきたかなと

思えてくる部分もありますね。


↓↓