趣味と実益を兼ねて、仕事として海外旅行に行けないものか?と考えることが何度
もあり、幾つかの突飛な計画を立てて実行したりしました。
そのうちの一つ、「アフガニスタンカーペットを個人輸入して大儲け!」
を不定期で連載していこうと思います。
私がアフガン旅行をした2000年は政府のかわりにゲリラが国土の9割
を制圧、統治しており、残りの一割を統治する北部同盟(国連認定政府)との戦闘が
続いている内戦中の国と当時の各国バックパッカー達は認識していたのではないでし
ょうか?
しかし、今も昔も私にとって、かの国は相当に魅力的な国であり、壮大な仏教遺跡<
太字>バーミヤン(仏像破壊は実に残念でした)をぜひこの目で見てみたい思
っていましたので、情勢が比較的安定していた2000年四月に日本を出てアフガ
ニスタンに向かいました。
とても楽しい旅行になりましたし、無事に帰ってくることもできました。それでは最
後までお付き合いくださいませ。始まり 始まり~。
98年に勤めていた仕事を辞めて沖縄に渡り、沖縄県八重山の離島にある黒糖工場に住み込んで四ヶ月間働きました。
そこで貯めたお給料が私の最初の長期旅行の資金となったのです。
六十数万円をマネーベルトに突っ込んで腹に巻き、沖縄国際空港から出国してタイに渡り、飛行機でネパールへ。そしてバスや電車や船を使って10ヶ国を旅行し、イスラエルにたどり着いた頃には旅行資金が底をつき帰国しました。
その7時ヶ月半に及ぶ個人旅行の中で実に多種多様な出来事を目にし、耳にしました。
今回お話するアフガニスタン旅行もその時の旅行で耳にした話がきっかけになったのです。
98年に私がパキスタンのクエッタに滞在していたときの事。一人の東にむかう日本人旅行者に会いました。彼はイランのマシュハド近くの国境からアフガニスタンに入り、パキスタンのチャマンでアフガン旅行を終えクエッタにやってきたと言いました。どこに向かっているのか?と尋ねると、「世界一周中なんだ。」と答えました。
「アフガニスタンで売ってたカーペットを日本に持って帰ったら、ウン十万で売れるだろうね。現地じゃあんなに安いのにさ。」
砂漠のホコリで汚れた長い髪をなでつけながら男は早口で他にも色々な話を聞かせてくれました。私も南米やヨーロッパを旅行してきた男の話に引き込まれ、テーブルの上にあった公共施設で良く見かけるステンレスの丸い灰皿に吸殻の山が出来る頃には日付が変わろうとしていました。
「出来るだけ早くインドに行きたいんだ。ずっと前から楽しみにしてたからね。どこが一番良かった?」
明日も移動日だという男は私に2,3質問したのを最後に、じゃーおやすみ。といって部屋に戻っていきました。夜も更け、砂漠の町の空気はすっかり冷え込んでいたので私も早々に部屋に戻り、寝袋に潜り込んで目を閉じました。
次の日の朝、食後にお茶に誘おうと男の部屋に行ってみたのですが鍵はかかっておらず、空になった水のペットボトルが転がっているだけで、ほかに荷物は何も見当たりません。
しかたなく一人で外に出て、この町に着てから通いつづけている店に入りました。私はなにをするでもなく毎日ぼーっと椅子に座って店の前を走る大通りを眺めます。内戦を嫌い、クエッタにやってきて軽食屋を始めたアフガン親父は時折たっぷりと蓄えられた髭をさわる以外は殆ど音もたてずに私をほったらかしにしてくれるのです。
親父の店で甘い緑茶を飲みながら、今日の午後に乗るイラン国境のバスの事や、そのためにパッキングしたり買い物したりといった準備をめんどくさいな~と思いながら時間の許すだけぼーっとしていたのでした。
日本を出てから4ヶ月が過ぎた、そんな中だるみの時期にあった男。
メガネの奥からこちらを見ていた少し神経過敏そうな瞳
薄汚れてくすんだ色の服装、
大きくは無いからだから滲みでていたタフな雰囲気
それらはありありと思い出せるが名前が思い出せない。
ずいぶんと長く話したのに話した内容もそのほとんどが思い出せない。
が、男の話してくれた「アフガニスタンで売っていたカーペット」の話はその声色までしっかりと頭に刻まれていたのです。