速報のち、パニック
「感染者、200人だって」
「日本終わるんじゃない?」
隣でスマートフォンの画面を見ながらつぶやく彼。
「怖いこと言わないでよ」
少し笑いながら言葉を返す私。
平気な振りをしているだけ。
自分の中で異変が起き始めていることはわかっていた。
何気ない会話のはずなのに、
自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
どうして。
あれ、おかしいな。
どうしよう。どうしよう。
落ち着いて。
無理。
怖い。
全身が震えだし喉がヒューヒューと鳴る。
呼吸がうまくできない。
初めて感じる「死ぬ」という恐怖。
パニックは突然やってくるゲリラ豪雨のようで、
ゴォーゴォーと音立てバチバチバチッと屋根に激しくぶつかる。
何もかもが壊れてしまう勢い。
揺れて、崩れて、壊れて、
心の糸がプツリと切れた瞬間だった。
2019年 夏
当時、私は17歳の高校2年生。
田舎に暮らす普通の高校生だった。
授業中の居眠り、放課後のラーメン、制服で撮るプリクラ、
先生に怒られると分かっていても、短く切ったスカートを履いて髪を巻く。
全身全霊で青春を謳歌する日々。
この年の夏は毎日が楽しくて幸せだった。
学校に行けばたくさんの友達がいる。
家に帰れば優しい家族が待っている。
温かいごはんが食べられて、安心して眠れる。
きっとこの先もなんだかんだ幸せに暮らしていくんだろうな。
そう思っていた。
2020年 1月
わずか数か月の間にパンデミックを引き起こした謎の新型ウイルス。
隣の国で第1例目が報告され、その脅威が日本にも襲い掛かるのは実にあっという間だった。
どのソーシャルメディアを見ても新型ウイルスの話題で持ちきり状態、
人々の不安を煽り続けている。
2020年1月15日、
日本で最初の感染者が確認された。
この頃からだろうか、
自分がこのウイルスに対して異常なほどの恐怖感を抱き始めたのは。
変わっていく世界に酷く怯え、次第に気持ちも鬱々としていく。
大丈夫、大丈夫だよ。
きっとすぐ終わる。
自分にそう言い聞かせても、
飛び込んでくる感染者数増加のニュースは止まらない。
学校に行ってもウイルスの話ばかり。
今にも耳をふさいでこの場から逃げ出したい気持ちを抑え、
友達の前では明るく振舞っていた。
ウイルスなんてへっちゃらと、自分を騙していく。
ため息すらも我慢した。
2020年2月27日
15時30分
6限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
解き放たれた生徒たちの声が一斉に聞こえ出し、
校舎全体が騒がしくなる。
何も変わらない日常。
当時の私にはお付き合いをしている同じクラスの男の子がいた。
彼と放課後の教室で一緒に課題をしたりその日あったことを話すのが日課で、
帰りの電車いつも19時台。
この日、駅の待合室についたのは18時30分過ぎ頃だった。
冬真っ只中、
今にも雪が降りそうな空にどこか不安になる。
私たちと中年の男性がひとりいるだけの薄暗い待合室。
田舎ということも相まって、駅自体に人がほぼいなかった。
閑静な状況にさらに不安が募る。
「休校になるかな」
「卒業式どうなるんだろう」
気が付けばしているウイルスの話。
心がキュッと締まる。
徐々に浅くなる息に苦しさを覚えた時だった。
彼のスマートフォンには通知音と共に速報が届く。
「感染者、200人だって」
彼の口から出た言葉。
ドッ、クン
心臓の音が、振動が、大きく、強く、
ドッ、クン
ドッ、クン
あ、 あ、れ
「日本終わるんじゃない?」
ドックン、
ヒュー、ヒュー
息が上手く吸えない。
人間のプライドというものは厄介だ。
彼におかしくなっている自分の姿は見せないと脳が指令を出す。
平気な顔をして、
「怖いこと言わないでよ」
笑いも少し出た。
でも、そんな強がりは一瞬で崩れるほど私の精神は限界を超えていて、
ものすごい速さで崩れていく。
えずきそうになるほど伝わる動悸、
ガンガンガンガン!!!!!と音が鳴りそうなほど
全身が上下に激しく揺れる感覚。
次第にめまいが起こり手が震えだす。
胃から何かが上がってきた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「え?」
気が付いたら言葉を発していて、体が動いていた。
私の突発的な発言に不思議そうに反応する彼を無視して
待合室を飛び出し階段を下る。
私は吐くのが嫌いだ。
最近では嘔吐恐怖症などとも言ったりするが、
吐いているシーンはもちろん、
道に落ちている嘔吐物を見ただけで心臓がバクバク鳴る。
将来、つわりで苦しむことを恐れ妊娠すらもしたくないと思ってしまう。
しかし、土壇場の人間は思わぬ力を発揮する。
吐く覚悟を決めた瞬間だった。
駅のトイレ、
手洗い場の前でしゃがみ込む制服姿の女子高生。
きっと顔面蒼白、目はうつろだっただろう。
吐けなかった。
やっぱり無理だった。
何とか冷静になろうと
力の入らない手でスマートフォンのロックを解除する。
気を紛らわせたい。
何やってるんだろう。
どうしちゃったんだろう。
涙をこらえる力、出ない。
怖いのか、辛いのか、分からない。
視界はまだ回っている。
呼吸が苦しい。
ぐっちゃぐちゃだ、
19時00分頃
泣いた後の顔を隠すように下を向いて階段を上る。
「 」
私の名前を呼ぶ声。
顔を上げると何段か上に彼が立っていた。
心配そうな顔をしている彼の手には私のリュック。
探しに来てくれたことに気が付いたとき、
自分がずいぶん長い間トイレにいたことを実感する。
「遅くなってごめん」
まだマスクをしていない時代。
お得意の平気な顔、今回は出来ていなかった。
「どうしたの?」
「ごめん、なんか具合悪いかも」
通学で乗っている電車は片道45分。
今の精神状態であの密閉された空間に長いこといるのは絶対に無理。
次いつまたパニックになるか怖かった。
「私、親に来てもらって車で帰る」
「そっか、じゃあ迎え来るまで一緒に待つよ」
彼はどこまでも優しい人だ。
心に余裕があり、多くの人に慕われていた。
でも、今回ばかりは彼の優しさが余計に私を不安にさせる。
今度は本当に彼の前で吐いてしまうかもしれない。
またよく分からなくなってしまうかもしれない。
昔から自分の弱っている姿を誰かに見られるのは嫌だった。
1人で苦しんだほうがましだった。
「大丈夫だから、帰って、」
「でも、」
「ほんとに大丈夫だから、
それにもう、
遅いし、寒いし、帰ってほしい」
きっと冷たい口調だっただろう。
ごめんね。
19時10分頃
改札をくぐり最後にもう一度こちらを振り返った彼は
今にも泣きそうな顔をしていた。
19時50分頃
乗り込んだ車の中は暖かかった。
電話越しに私の異常事態を察してくれたのだろう。
40分以上かけて向かいに来てくれた父親の優しさに
視界がにじむ。
ごめんなさい。
嵐が過ぎ去った後のボロボロの心。
結局、あの200人は何だったんだろう。
新規感染者?累計感染者?
それとも違う国の感染者数なのか、
もうよく覚えていない。
窓の外、
田んぼの向こうの灯りを見つめながら起こったことを話す。
前からウイルスに対し強い恐怖心を持っていたこと。
速報を見てパニックになってしまったこと。
トイレで泣いたこと。
父親は黙って聞いていた。
20時40分頃
家に着いたとき、ようやく体の震えが収まった。
「びっくりしちゃったのかな」
待っていた母親は一通り話を聞き終えた後そうつぶやく。
確かにそうだ。
でも、理由はそれだけじゃない。
未知のウイルスに対しての果てしない恐怖。
漠然とした不安。
おかしくなってしまった自分への絶望。
今日は不安から逃げるためにもう眠りたかった。
ベッドに入り、最後に彼氏へLINEを送る。
"ごめんね"
返信は早かった。
"明日の学校、無理しないで"
そっか、明日も学校か。
電車乗れるかな。
瞼が重くなり、徐々に遠くなる意識。
この時の私は
途方もなく長い間苦しむことになる病気の存在を
まだ知らなかった。
第1話 〈 速報のち、パニック 〉
終